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(2016年7月17日からカウント)


「福島原発事故は終わっていない!」 現在も続く放射能汚染被害 福島県の取材リポート(2012年2月4日〜7日)

 私は2月4日〜7日までの4日間、福島第1原発事故による放射性物質汚染に苦しむ福島県の人々の現状をつかむために、同県内各地を写真撮影やビデオ撮影をしながら、取材をしてきました。事故から1年近くになりますが、放射能汚染被害はいまも続いており、福島県の各地の人々の口々から「逃げたいが、逃げると仕事を失う。逃げるに逃げられない。私たちは放射線被害のモルモットにされているのか」という悲痛な声が聞かれました。
     (経済ジャーナリスト・今田真人=2012年2月記)

〈飯舘村の酪農家・長谷川健一さんの話〉

 制服向上委員会の会長、橋本美香さん(32)が歌う「原発さえなければ」は、福島県相馬(そうま)市の酪農家の男性(50代)が、福島第1原発事故の影響を苦にして自殺したという、昨年6月14日に報じられたニュースを題材にして作詞・作曲されたものです。
 5日午前、その橋本美香さんの紹介で、その男性と親しかった同県飯舘(いいだて)村の酪農家、長谷川健一さん(58)を訪ねました。長谷川さんは現在、避難先の同県伊達(だて)市の応急仮設住宅に住んでいます。 
 飯舘村は昨年4月22日、「計画的避難区域」に指定されました。20キロ圏内の「警戒区域」の住民はただちに避難させられましたが、「計画的避難区域」は、4月22日から1カ月間をめどに避難すればいいということだったので、飯舘村の住民は「警戒区域」の住民より1カ月以上も長く、高い放射線にさらされました。
 積もった雪に囲まれた仮設住宅で、長谷川さんは「昨年4月の計画的避難区域設定前には、御用学者がわんさか飯舘村に来て、何も心配ありません、だいじょうぶですからと、村民を集会所に集めて言っていた。ところが、計画的避難区域に設定されると、避難しなさい、あぶないからという。そのあと、いままで、安心、安全と言っていたあの学者たちは、そーっといなくなった。ふざけるな、と言ってやりたい」と怒ります。
 また、高い放射線量のために、涙をのんで酪農を廃業したことや、小屋の壁に「原発さえなけえれば」と書き残して自殺した親友の酪農家の無念さなどを語りました。
 さらに、この原発事故で、ふるさとの農地や山、川、地下水など、すべてが放射能に汚染され、福島県では何も生産できなくなったことを指摘し、「もし、別の原発が同じような事故を起こせば、日本の国は汚染国となって終わってしまうのじゃないか。だから、こういう事故を起こした福島を教訓にして、原発は絶対なくすべきだ」と強調しました。
 制服向上委員会の橋本美香さんの歌についても「友人が自殺した原因は、いろいろなしがらみがあったが、その頂点(最大のもの)は原発事故。あの『原発さえなければ』という言葉には、彼の思いがすべて入っていると思う。この歌をつくっていただき、ありがとうございます。おれの友人も天国で喜んでいるでしょう」と話しました。

 

     

「原発はすべてなくすべきです」と語る長谷川健一さん(左)と、長谷川さんの住む仮設住宅=2012年2月5日、福島県伊達市の応急仮設住宅


〈毎時6〜7マイクロシーベルトのところも、飯舘村〉

 同日午後、私は、小型の放射線測定器2台を持ち、真っ白な雪に覆われた山間の道をタクシーに乗って、飯舘村を訪ねました。高い放射線のため立ち入り禁止になっている場所ぎりぎりまで行ってみようと、タクシーを走らせました。
 福島市内から東南方向に約1時間走ったところに飯舘村に入る峠があります。その峠を越えるあたりから、測定される放射線量は、平常の毎時0・1マイクロシーベルト前後を一気に超えました。測定器が「ビー、ビー」という、初めて聞く不気味な警報音を鳴らし始めました。測定器は毎時0・5マイクロシーベルトを超えると警報音が鳴るように設定されていましたが、まさか、現実に自分の耳で聞くことになるとは思っていませんでした。
 飯舘村中心部から東方に少し行ったところで、ついに「災害対策基本法に基づく車両通行止」という立ち入り禁止の看板を発見。その付近は、毎時3・0マイクロシーベルトを超える、極めて高い放射線量を測定しました。危険を感じた私は、その場所に長居はせず、すぐに引き返しました。しかし、帰り道は来た道とは別の道路(福島第一原発寄り)を通ったためか、放射線量は、さらに高くなり、毎時6・0マイクロシーベルトを超える瞬間もありました。
 結局、私が高い放射線量を浴びた時間は約1時間前後になったでしょうか。福島市内のビジネスホテルに戻ったのは、同日午後3時ごろでしたが、私は、突然の激しい倦怠感と睡魔におそわれ、ベットに倒れるように横になりました。目が覚めて気力を取りもどすまで、約3時間かかったという体験もしました。


 

 


飯舘村中心部にある「災害対策基本法に基づく車両通行止」の看板(上)と、付近で測定した放射線量(下)=2012年2月5日

     

          

飯舘村の出口に立っている石碑(左)と、同村からの帰り道で測定された毎時6・0マイクロシーベルト超の放射線量(青色の測定器の数値が比較的正確)=2月5日


 〈福島市内もいたるところでホットスポットが〉

 6日の朝は、福島市中心部の小学校を取材。小学生などの子どもは、小型の放射線記録装置を胸につけていると昨年の報道で聞いていたので、現在でもそうなのかと、数人の小学生や、登校するときに連れ添っていた保護者に聞いてみました。その共通した回答は、「昨年12月末に、ガラスバッチ(放射線記録装置)は外した。いまは、やっていません」ということでした。
 しかし、付近の歩道の花壇などを持参の放射線測定器で測っていくと、いたるところで、警報音が鳴ります。つまり、毎時0・5マイクロシーベルトを超えるホットスポットが、除染したはずの通学路付近で、結構存在することが判明しました。
 福島県民は、東京などから考えると、とんでもない高い放射線量に、いつのまにか慣らされているようにも思えました。
                         

      

小学生の登校風景(左の2枚の写真)=2月6日朝、福島市内。小学校近くの歩道横の花壇で測定器が示した毎時0・75マイクロシーベルトの放射線量=2月7日、福島市内

☆ビデオによる福島県リポート


長谷川健一さんのインタビュー

@脱・原発への思いを語る

A橋本美香さんの歌「原発さえなければ」と、亡くなった親友のこと

B制服向上委員会3・11コンサートへのメッセージ



福島県飯舘村の中心部の現地ビデオ撮影

@峠を越えた辺りから、いきなり線量計の警報音が…

Aついに立ち入り禁止の看板の場所に…。毎時3・0マイクロシーベルト超の高い放射線量を記録

B帰り道の放射線量は毎時6・0マイクロシーベルトを超えてしまった…

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