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ネットで拾った貴重な参考情報
(従軍慰安婦問題・吉田証言否定論を検証するページ)


@「平成元(1989)年8月14日付け済州新聞の慰安婦記事について」 (2013年3月1日の投稿とある。以下の原データ参照のこと)
http://blogs.yahoo.co.jp/ynm0/66132110.html


「三一節、祝賀ハムニダ!」
1945年に創刊された「済州新聞」は、現在では「済州日報」に改称されている。「米軍が解放してくれたので新聞発行が可能になった」のだが、あるいは戦前にすでに新聞社が存在したのかもしれない。というのは、「韓国最古のパン屋」はやはり1945年に創業されたが、かっては日本人経営の洋菓子店であった、という例があるので。
http://blogs.yahoo.co.jp/ynm0/65168420.htmlで、日本国内だけで有名な慰安婦記事は、最初は英文に翻訳されている。誰が訳したのかは知らない。元の記事を「済州日報」http://www.jejunews.com/ サイトで検索しても出てこない。おそらく韓国国内では、この記事はまったくデジタル化されていないのだろう。日本の右翼がこちらのサイトで扇動しているだけらしいhttp://www.kjclub.com/jp/
 元記事が書かれた年は微妙である。「光州事件」が1980年、1983年に吉田清治が『私の戦争犯罪』を出版、盧泰愚の「民主化宣言」は1987年、1989年に吉田の著書が韓国で翻訳出版、梨花女子大学英文科教授の尹貞玉が1990年にハンギョレ新聞に挺身隊記事を連載、朝日新聞の「慰安婦」キャンペーンは1991年だ。つまり1989年はまだ、慰安婦を「問題」にして日本を叩こう、という国民合意ができていない時代だ。
 ここで因縁話。韓国の実質的な「建国の父」朴正煕の夫人陸英修に、元慰安婦が救済を直訴した、という話がある。現在の韓国の教科書には、1990年になってようやく、勇気ある元慰安婦が口を開いたのだ、とあるがこれは嘘。1989年の済州新聞の記者もまた、慰安婦も徴用も知っていたが、さほど興奮していなかったのであろう。陸英修女史が文世光の凶弾に倒れたのは1974年、朴正煕は日本が朝鮮総連を取り締まらなかったのが原因だ、と激怒した。まさに隔世の感がありますね。1979年に朴正煕は暗殺される。宴席に女性芸能人をはべらせていたのが話題になったが、朴正煕が再婚していればまた、歴史は変わったかもしれない。



A「悪質な嘘は止めようね _ 吉田清治証言は虚構じゃない」(投稿者・中川隆さん、投稿日時2011年12月18日、以下の原データ参照のこと)
http://www.asyura2.com/09/asia13/msg/822.html

 そもそも従軍慰安婦は13才、14才から慰安所で働き始めている。18才以下の売春婦は法的に認可されていないから、例え本人や親が承諾していたとしても悪質な法律違反になる。 従って、従軍慰安婦は売春婦ではあり得ない。従軍慰安婦が売春婦だという奴らの唯一の論拠になっているのが詐欺師 秦郁彦の本

吉田清治を「詐欺師」扱いする本物の詐欺師 秦郁彦

 産経グループのプロパガンダには、「嘘も百回つけば真実に成る」式の、学問的裏付のない特定の“似非事実”をたらい回ししながら既成事実化し、社会に拡散させていく特定のパターンがある。
 古森氏は、「『吉田証言』は歴史家の秦郁彦氏らの調査などで虚構だったことが立証された」とするが、真っ赤な嘘である。韓国語も理解できない秦氏の「現地調査」は学術的調査とは程遠いもので、一個人の独断の域を出るものではない。 
 従軍慰安婦の存在を証明する資料は少なくないが、その中でも、吉田証言が旧日本軍人として従軍慰安婦について明らかにした貴重な資料であることは現在も変わらない。
 吉田氏は、「太平洋戦争当時、国民総動員令を執行する労務報国会の山口県動員部長として朝鮮人6000人を強制連行し、その中には慰安婦の女性も多かった」、「昭和18年に軍の命令で、済州島で女性200人以上を挺身隊として強制連行し、慰安婦にした」などと1983年に出した著書「私の戦争犯罪・朝鮮人連行強制記録」などで体験談を語った。
 日本のメディアも吉田証言を「昭和十八・十九の二年間で千人以上」 (赤旗1992年1月26日)「吉田さんらが連行した女性は少なくみても 九百五十人」(朝日新聞1992年1月23日夕刊)と報じ、従軍慰安婦の存在が世に知られるところとなった。
 それは日本政府を動かし、1993年8月、河野洋平官房長官は、1年8ヶ月の調査を経て「慰安所の設置は軍当局の要請によるものであり、募集は軍の要請を受けた業者が主に行なったが、甘言・強圧による事例が多く、更には官憲等が直接これに加担したこともあった」として、公式に謝罪を表明した。
 そうした動きに反発したのが、産経新聞などの右派メディアであった。
 産経新聞などの常連寄稿家である秦郁彦氏は、河野談話が出される前の1992年3月29日に済州島に渡り、吉田証言を「実地検証」をしたという。
 しかし、その内容たるや、康大元なる「海女研究家」を通訳に立て、「城山浦の老人クラブ、貝ボタン工場の元組合員など五人の老人と話し合って、吉田証言が虚構らしいことを確認」という程度のことでしかない。
 「実地検証」と言うにはあまりにお粗末な代物だが、敵意や憎悪を煽って矛先を変えるプロパガンダの要諦だけは心得ているようだ。
 済州新聞(1989年8月14日)に「(吉田証言の)慰安婦狩りの話を裏ずづけ証言する人はほとんどいない」と書いた許栄善記者を利用することを思いつく。そうして、「『なんでこんな作り話を書くのでしょうか』と、今は『済州新聞』の文化部長に移っている許栄善女史から聞かれ、私も答えに窮したが、『有名な南京虐殺事件でも、この種の詐欺師が何人か現れました。彼らは土下座してザンゲするくせがあります』と答えるのが精一杯だった」と、自著「昭和史の謎を追う」、「慰安婦と戦場の性」などで臆面もなく披瀝している。
 ろくな調査もせず、人の話をだしにしながら吉田氏を「詐欺師」扱いする傲慢無礼な論法は、学者らしからぬ。曲学阿世の輩、というべきであろう。
 案の定、秦氏は学会などで「秦氏の乱暴な引用の仕方が史実を歪曲している」 としばしば批判されている。「現地調査」とは名ばかりの粗悪品が「立証」などともてはやされるのは、右派保守陣営のニーズに合致したからで、実際、秦氏は復古主義者のデマゴーグとしての役割を担ってきた。秦氏らのデマゴーグとしての本性を端的に示すのは、当初は慰安婦の存在を無視し、そのうちに慰安婦らが勇気を奮って名乗り出ると、今度は「戦時売春婦だ」と言い換え、詭弁を弄したことである。

 「軍は戦地での強姦事件を防ぐために、公娼業者に開業させていた。業者の指名、戦地への移動、営業状態の監督などはしたが、直接的な強制はしていない。当時は公娼制度は合法であった」が秦氏らのロジックだが、それによると、「ナチスの蛮行も合法であった」ということになる。
 秦氏らの詭弁は、「従軍慰安婦は朝日新聞の造語だ」と言葉の問題にすり替え、その存在を否定していることにも現れている。
 厩の王子を聖徳太子とするなど過去の現象を後世の言葉で表現することは歴史ではしばしば用いられることで、実体が問題であることは言うまでもない。
 吉田氏のような良心に基づく内部告発者を「詐欺師」と罵倒し、被害者である従軍慰安婦の声をことさら無視するのは、その姿勢が、加害者である旧日本軍の側に偏っているからではないか。
http://blogs.yahoo.co.jp/lifeartinstitute/18007158.html

済州島の人が慰安婦狩りを否定した理由

 慰安婦を韓国で実際に強制連行したという当事者も名乗り出ました。当時、山口県の労務報国会で動員部長をしていた吉田清治さんです。
 吉田さんは1942年から終戦までの3年間に、陸軍西部軍司令部などの指示に従い女性千人を含む朝鮮人6千人を強制連行したそうです。
 その中でも特にひどかったのは従軍慰安婦にされた女性たちの連行方法で「4、5日から一週間で若い女性50人を調達しなければならなかったので 警察や軍を使って乳飲み子のいる若い母親にまで襲いかかり、奴隷狩りそのものだった」と吉田さんは語っています(北海道新聞、92.2.25)。 
 動員部長である吉田さんの弁によれば、吉田さんは済州島の各地で 強制連行をしたそうです。その証言に登場した城山の貝殻ボタン工場跡をテレビ朝日が実際に取材しました。その報告はTV番組「ザ・スクープ、従軍慰安婦Part2、戦争47年目の真実」(1992年)で放送されました。
 番組では、女性アナの田丸美寿々さんが現地で二人にインタビューしました。一人は城山の長老の洪さんです。田丸さんの質問「この工場から徴用された慰安婦がいるか」に対し、洪さんは「いないよ。いない。この辺にはいないよ。もしいたとすればよそから来た人だよ。何十人か連れていかれたという話もあるけれど、それは済州島の人間じゃないよ」と微妙な返答をしました。つまり、済州島の人間は連れていかれたことはないが、よそから来た人は何十人か連れていかれたという話をきいていると、肯定とも否定ともとれる返答をしました。
 もう一人インタビューに応じた地元の女流作家、韓林花さんは番組でこう語っていました。「(地元の人は)みんな知らないふりをしている。口にしないようにしている問題なんです。日本に女まで供出したことを認めたくないという民族的自尊心と、女は純潔性を何よりも最優先にするものだという民族的感情のせいなのです」
 この二人の話をつなぎ合わせると、番組のニュアンスは「強制連行」はあったかも知れないという印象でした。韓国では身内や一族から「従軍慰安婦」を出したとあっては大変な恥です。こうした精神的風土から戦後、多くの「従軍慰安婦」の女性たちは故郷に戻れませんでした。その上、自分が「従軍慰安婦」であった事実をひた隠しにして生きざるを得ませんでした。
 そのあたりの事情をテレビ朝日は1991年に放送したTV番組「ザスクープ・追跡朝鮮人慰安婦、知られざる真実」で紹介していました。その時の番組では、「従軍慰安婦」を多く出したとされる全羅南道のある市場で、妹を連行された女性と周辺の人を取材しました。そのやりとりを記します。
アナ「(この辺で)女の人が狩り出された話を知っていますか?」
男性「(横にいる)ハルモニの妹が連れて行かれた」
アナ「どういう風に連れて行かれたのですか?」
男性「強制的にだよ・・・ここは儒教社会だから体面があってあまり話せないんだよ。自分の家から女子挺身隊を出したとなると、他の者の結婚にもさしつかえる・・・結婚してたら連れて行かれないというので、12から14歳くらいでみんな結婚させたんだよ。連れて行かれたらもう消息が途絶えちゃうんだ。行方不明の人多いよ」
アナ「おばあさんはそれから妹さんに会いましたか?」
ハンメ「会っていない。行方不明だよ。生きているのか死んでいるのかわからない」 (注)ハンメ、ハルモニ=おばあちゃん、おばあさん
 さて、吉田証言にもどりますが、地元の新聞「済州島新聞」は強制連行の事実を否定した記事をわざわざ載せたそうです(未確認)。これは韓林花さんのいう「民族的感情」を裏付けているのかも知れません。
 一方、吉田さんを「職業的詐話師」と酷評している人もいます。千葉大学の秦郁彦教授はクマラスワミさんにそのように非難したという記事が週刊新潮(96.5.2)に掲載されたそうです。(未確認)
 吉田さんは、独立紀念館の近くにある韓国最大の集団墓地「望郷の丘」に自費で「謝罪の碑」を建てました。これに対し秦教授は今度は「職業的演技者」とでも呼ぶのでしょうか?
http://www.han.org/a/half-moon/hm012.html#No.117


秦郁彦『慰安婦と戦場の性』批判

 この著者は時々、まともな仕事もするのですが、しばしば人が変わったように、ずさんな仕事、あるいは人を誹謗中傷するような、因縁をつけるようなこともやります。この本は、ずさんな仕事の代表的なケースでしょう。
 この小文でも紹介したような、写真や図表の無断盗用、資料の書換え・誤読・引用ミス、資料の混同、意味を捻じ曲げる恣意的な引用・抜粋などの例をリストアップしてみたのですが、膨大な量になりあきれてしまいました。どこかで公表しようかとも考えたこともありましたが、バカらしくなってやめました。それにしても人に対してはさんざん因縁をつけながら、自分の間違いを指摘されても無視して開き直るのには、驚くばかりです。
 なお前田朗さんがこの本の「図版盗用」「写真盗用」「伝聞・憶測・捏造」などの問題点を詳細に批判されていますので御参照ください (『季刊戦争責任研究』第27号、2000年3月、『マスコミ市民』370号、1999年10月、に掲載された前田論文参照)。 2002.12.17
 資料の扱いもずさんさである。たとえば、一九三八年に内務省が陸軍からの依頼をうけて慰安婦の徴集の便宜を図った資料がある。この本では内務省警保局の課長が局長に出した伺い書が、内務省から各地方庁への「指示」に化けている。
 さらに五府県に慰安婦の数を割当てているが、その人数がでたらめで、資料では合計が四〇〇人になるのに、氏の数字では六五〇人とされてしまっている。
 引用も言葉を勝手に変えたり、付け加えたり、およそ研究者の仕事とは思えない(五六頁)。
http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper44.htm

 秦郁彦は研究者でも学者でもない。 唯の詐欺師

『諸君!』2002年2月号秦郁彦氏の文章を嗤う

 「ペリーの白旗書簡は明白な偽文書である」(『UP』2001年8月号)
 「極めて興味深い偽文書」(『歴史評論』2001年10月号)
 「Problematic Account in a Japanese History Textbook based on an Alleged Letter by Perry」(『歴史学研究』2001年10月号)
 『諸君!』に掲載された秦氏の文章は、上記の宮地氏の論考に対する「批判」を意図したものである。
 宮地氏の論文の内容にかかわる批判は、いずれ宮地氏自身からなされるであろうから、深くは立ち入らないが、秦稿の中には、秦氏の研究者としての基礎的能力を疑わせる部分があるので、五点ほど指摘しておきたい。なお、秦稿からの引用文中にある[ ]内の部分は、筆者のつけた説明注である。
  その1 
 秦稿112ページに次のような部分がある。
 松本(健一)、三輪(公忠)の両氏はいずれも右の著書(『白旗伝説』・『隠されたペリーの「白旗」』)で出典は、前記の『幕末外国関係文書之一』(東大史料編さん所)という公文書であると明記し、宮地氏もそう書いているので、この点についての争いはありえないはずだ。そうだとすれば、宮地氏は所属し、所管する機関の発行した公文書が偽文書であるゆえんを、「中学生にもわかる」ように立証する義務がある。
 まったく驚いたものである。『幕末外国関係文書』が公文書であるとは、およそ歴史の研究者の言葉とは思われない発言である。「公文書」とは公的機関が、その機関自身の意志を伝達、もしくは記録しておくために作成した書類のことである。『幕末外国関係文書』というのは、幕末の対外関係に関するさまざま史料を、東京大学史料編纂所が集成して刊行した史料集であって、刊行は明治43年に開始され、現在もなお継続中である。その中には幕府が発給したまさに公文書も掲載されていれば、個人の私的な日記でも、対外関係に関する記事があればそこの部分が掲載されている。当然、そこに掲載された史料だからといって、すべてがその時代の事実関係を誤りなく表現しているとは限らない。掲載されている史料をどこまで信用し、どこから疑ってかかるか、という点にこそ研究の研究たるゆえんがある。研究者の力量は、まさにそこでこそ試されている。史料集をさして公文書といい、公文書に書かれているのだから間違っているはずがない、などというのは、まともに歴史学を研究した経験のある人の言葉とは思われない。要するに、秦氏は史料集というものの性格がわかってないのである。

その3
 秦稿118ページに次のようにある。

 宮地氏は各地に伝わっている風説書を列挙し、史料一一九[『幕末外国関係文書』巻1所収119号文書を指す]に似ているが変造したものが少なくないことから、そう[白旗関連の情報はすべて風説書にのみ現れると]推測しているようだが、逆もまた成り立つのではないか。つまり老中や海防掛を仰せつかった水戸斉昭などの高官を除き内密にされた白旗書簡が少しずつ洩れ、脚色されていったとも考えられるのである。
 それに斉昭が嘉永六年七月十日付で幕府へ提出した「海防愚存」という意見書にも白旗の話題が出てくるが、これまた風説書として片づけるわけにはいくまい。
 宮地氏は「海防愚存」については公式の幕政史料として分析し、「白旗書簡」実在論者たちの行った史料読解の誤りを指摘している(歴評論文,114頁)。すなわち、「海防愚存」に出てくる「白旗」とは、『新しい歴史教科書』に書かれているような性格のものではなく、ペリーたち自身に武力行使の意志がないことを表明するためのものだったというのである。「海防愚存」を白旗実在の証拠としようとするのならば、宮地氏のこの指摘に反論しなければならない。また、「強硬派の斉昭であれば、あらゆるところで利用して然るべきこの白旗書簡に、いかなるところでも全然言及していないのである」と、そもそも斉昭の政治的立場からして、仮にそのような事実があったとするならば本「書簡」の内容が「内密にされ」るべき必然性がないことも宮地氏は明確にしている。
 つまり、秦氏は宮地論文の主張を正しく読みとることができていないのである。史料どころか、現代文を読解する能力にも欠けているようである。
http://wwwsoc.nii.ac.jp/rekiken/archives/ebara_2002.html

 従軍慰安婦が売春婦だという奴らの唯一の論拠になっているのがこの詐欺師 秦郁彦の本なんだからね.
こいつらに頭はあるのかな?
 要するに、自分が慰安婦だった事がばれると親族一同村八分にされて生きていけなくなるから、真実を言う訳にはいかないのさ。
 吉田さんは優しいから、そういう事情を酌んで、あえて自分の真実の発言を自ら否定せざるを得なくなったんだ。

これが売春婦に対する待遇?

 日本軍「慰安婦」生活を強要されたキム・デイル女性の証言を聞いてみよう。
 「平壌が故郷だという、“ハナコ”と呼ばれた女子が妊娠したが、田中は酒をひどく飲んで入ってきて、彼女を倒して容赦なく腹を蹴り飛ばし、次に彼女の腹から胎児を取り出して投げ飛ばした。そして、朝鮮女性をみな集めてからそのはらわたを刃先で引き出して「慰安婦」の首にかけ、部屋の床の血をなめろと言った。この時、多くの女子は気絶し、心臓が破裂して死んだ女子もいた。
 ある日、田中は大きい犬一匹を引いて入ってきて、犬に「俺もしたから、お前もやれ」とそそのかし、私に×××させた。私が気を失って倒れると、冷水を浴びせて狂ったように襲いかかり、獣欲を満たした。さらに奴らは麻薬を吸わせた後、タバコにガソリンをつけて口や鼻、子宮に突っ込み、火をつけて火傷させた」
 日本兵は、ある「慰安婦」少女が必死に反抗したため、5匹の馬に彼女の腕と脚と首をくくり、引きちぎって殺したという。かと思えば、ある女性が自分たちの要求に応じないため、「乞食」に「しつけ」をしてやるといい、彼女を木に逆さにぶら下げ、無理矢理襲いかかって銃卓で殴打した後、乳房をえぐり取って残忍に虐殺したという。日本兵は「慰安婦」が伝染病にかかれば、彼女らがいる「慰安所」に火を放ち、死体を川や山中に捨て、戦闘に敗れて追われる時には「慰安婦」を一列に並び立たせ、順に首を切り落とした。http://www.piks.or.tv/date/japan/20040826.htm

『沈黙の叫び 日本軍「慰安婦」出身のおばあさんの声』

 耐えかねて逃げようとした女を日本兵達が見せしめに縛り上げて乳房を短剣で
切り落とすと傷口から真っ白な脂肪が溢れ出してきて、やがてそこから血が流れ出した。
http://www.eigaseikatu.com/imp/14905/152813/

日本兵は彼女の首を切り、その煮汁を飲めと強要しました

 私は4人兄弟の長女で、弟3人がいました。ところが、両親は私たちを残して死んでしまい、一番下で乳飲み子だった弟もお母さんに続いて死んだのです。住む家もないので橋の下で雨露をしのぎながら、乞食をしたり農家の手伝いをして弟たちを養いました。私が数え年で17歳の夏、住んでいた小屋に帰って来ると、巡査か兵隊なのかわからない日本人の2人の男が現れたのです。彼らは私の髪の毛をつかんで、放り投げるように大きなトラックに乗せました。弟たちが「お姉ちゃん行くな」と泣き叫んだの で私は振り返ろうとしたのですが、男たち に蹴られてトラックに押し込められました。その中には、幼い少女から20歳前後までの娘たちでいっぱいで100人くらいいました。 男たちは、泣き叫ぶ私たちを殴ったり蹴ったりして黙らせたのです。
 水原(スウォン)の駅から汽車に乗せら松中国の大連へ連れて行かれました。私たちが列車の外をのぞこうとすると、「何を見ている」 と兵隊は髪を引っ張ったり足で蹴ったりしました。私は、弟たちのことも心配だしこれから何が起きるかという不安で泣き出したのですが、そしたらまた殴られたのです。兵隊たちは、途中のハルビンや牡丹江などで娘たちの一部を汽車から次々と降ろして行きました。私は東寧県で汽車を降ろされ、20人くらいの女性たちとトラックでプチャゴルに連れて行かれました。
 到着すると将校が「天皇と軍の命令だ。 言うことを聞かないと殺す」と言いました。私は5号室に入れられ、着いたその日から強姦されたのです。あちこちの部屋からも悲鳴が聞こえてきました。それからは、少ない日でも30人くらいの日本兵の相手をしなければなりませんでした。
 ある日、2人の女性が兵隊の相手をするのを拒否したということで、両手を縛られて庭に引っ張られて来ました。兵隊たちは、 私たちを呼び集めて2人を高い木に吊るしたのです。その娘たちは兵隊に「犬のようなお前たちの言うことなんか聞かない」と言いました。そうしたら、奴らは刀で彼女たちの乳房をえぐり取ったのです。血が吹き出ました。あまりにも残酷なので私は気絶してしまいました。
  彼女たちが死ぬと兵隊たちは首を切って沸いた湯の中に入れました。そして、その煮汁を私たちに飲めと強要しました。拒否すれば私たちも殺されるので、生きるために仕方なく飲んだのです。
  女性たちの数はいつも20人くらいで、病気で死んだり逃亡に失敗して殺されたりすると新しい女性が補充されました。ある時、 私は逃げようとして捕まってしまいました。板にくぐり付けられて何十人もの兵隊に犯され逃げ出せないように足の神経を切られてしまったのです。そして、別の部隊に移されて砂地に天幕を張っただけの所に入れられました。私は、 鉄条網の下をくぐって逃げようとしましたが、鉄条網に鈴が付いていたのを知らなかったので再び捕まってしまいました。すると、兵隊たちは赤く焼いた鉄棒とドラのような鉄板を私のお尻に押しつけたのです。この時の火傷はケロイドになってしまったので今でも歩くのが困難で、痛くて横になることもできないほどです。
 ある時、奴らは私たちの食事に毒薬を入れました。私は火傷のために早く歩けなかったので食事に遅れたのですが、私が行った時には先に食べていた女性たちがすでに死んでいたのです。私は、這って逃げ出して、その村の中国人にかくまってもらいました。私はここの「慰安所」に8年間いました。体の火傷の跡を見てください。正視できないほどです。1947年に帰国しましたが、 故郷には帰れませんでしたし、子どもを生むこともありませんでした。
http://www6.ocn.ne.jp/~kitanisi/knews/knews0109.html

日本軍はどのように慰安婦の秩序を保ったか:

A. 韓国人慰安婦の1人は、なぜ1日に40人もの男にサービスしなければならないのかと尋ねたために、日本軍指揮官の命令によって、他の慰安婦の面前で、刀でたたかれ、裸にされて、たくさんの釘の突き出た板の上を転がされ、血だらけになった後に首を切られた。さらに、日本軍指揮官の1人は、それを見ていた人々の前で『あなたたち全員を殺すのは、犬を殺すよりも簡単だ』と述べ、死んだ女性の死体を煮て食べるように強要した。
B. 韓国人慰安婦の1人は、他の40人とともに蛇だらけの水溜りに入るよう命令され、そのうち数人は、無理やり水中に押し込まれ、その後、土をかぶせて生き埋めにされた。
C. 兵士に噛み付いた新入りの慰安婦は、他の慰安婦の面前、慰安所の中庭で首を切られ、ぶつ切りにされた。
D. 激しく抵抗した慰安婦の1人は、胴体と頭を別々の馬に縛り付けられ、他の慰安婦の面前で引きちぎられて殺された。
E. 多くの慰安婦は、中国兵捕虜の頭を煮た水の残りを飲むように強要された。
F. 性病にかかり、50人の日本兵に病気を移した韓国人慰安婦の1人は、灼熱の鉄棒で膣を消毒された。
G. 性的サービスを逃れようと入浴を拒んだ慰安婦は、木に逆さに吊るされ、ライフルで殴られ、乳首を切り取られて、最後に膣から銃で撃ち抜かれて殺害された。

 筆者が最近傍聴した集会にも、元慰安婦が招かれ、体験談を語ったが、その上品で温和な顔立ちの元慰安婦が、「慰安所の天井から赤ん坊の頭で作ったモビールのような飾りが吊るされていた」と語ったとき、会場は一瞬息を呑んだ。
http://www.cmht.com/casewatch/civil/comfort.html
http://www.geocities.com/lordfreeza88/esytesti.htm



B歴史学研究会の声明「政府首脳と一部マスメディアによる日本軍「慰安婦」問題についての不当な見解を批判する」(2014年10月15日)



C「安倍首相 朝日新聞社長と会談で詫び受け入れたと側近が証言」(週刊ポスト2013年5月17日号)

 厳しい安倍晋三首相批判が売りだった朝日新聞だが、社説で経済政策をべた褒めするなど、このところ論調が一変している
 安倍首相と朝日には因縁がある。NHK番組改変事件だ。「朝日にとってそれが“トラウマ”になっている」(同紙政治部記者)のだという。
 この事件は、朝日新聞が2005年1月に、「NHK『慰安婦』番組改変 中川昭・安倍氏『内容偏り』前日、幹部呼び指摘」との見出しで報じた。NHKの従軍慰安婦問題番組の放映前、安倍氏が、「公平ではない」として番組内容を変えるように政治圧力をかけたという報道だ。
 当時、自民党幹事長代理だった安倍氏は報道を否定して朝日の取材を拒否する抗議の姿勢を取り、両者の関係は決定的に悪化した。その1年半後、安倍氏は首相に就任する。朝日のトラウマはそこから生まれた。同紙の政治部記者が“苦悩の安倍政権時代”を振り返る。
 「当時は安倍総理だけでなく、秘書官や官房副長官ら官邸まるごとわが社の取材に協力してくれない状況だった。安倍総理に食い込んでいた社がスクープを抜く中で、うちは記者が情報をつかんでも、裏が取れないから書けない。特オチもひどかった。事務所費問題で辞任した佐田玄一郎・行革担当相の後任に渡辺喜美氏が起用されたときは、完全に他紙に抜かれた」
 記者クラブメディアにとって政権から情報を遮断されるのは死活問題だ。追い込まれた朝日は“相打ち”に持ち込もうとした。
 「こっちも、“だったら政権を潰してやろう”という気になる。当時、安倍さんは公務員改革で官僚の反発を浴びていたから、政権批判の材料なら官僚からどんどんリークが来る。官僚と仲良くなって、追い落としをかけたら政権が本当に潰れてしまった」(同前)
 第1次安倍内閣では閣僚のスキャンダルが相次ぎ、「官邸崩壊」と報じられて支持率が急降下した。その背景に官邸情報から干しあげられた朝日と、公務員改革を骨抜きにしたい霞が関の共同戦線があったことを物語る証言だ。
 そんな朝日にすれば、6年後に安倍氏が再登板する情勢になったとき、“悪夢の再来”と背筋が寒くなったことは十分に想像できる。社説で安倍氏の自民党総裁返り咲きに「大きな不安を禁じ得ない」と書いたのは、自分たちへの“報復の恐怖”だったのではないか。
 そこで朝日は先手を打って、安倍氏が総理になる前に手打ちに動いた。昨年10月3日、朝日新聞に驚くべき記事が掲載された。就任したばかりの安倍総裁のインタビューが他紙にさきがけて載ったのである。「なぜあの朝日に」と他紙の記者たちを慌てさせたほどの“事件”だった。その裏では極秘会談がもたれたという。安倍側近の1人が明かす。
 「なんの挨拶もないまま安倍さんが朝日のインタビューに応じる理由がない。総裁選後に朝日の木村伊量・社長が安倍さんと会談した。安倍さんにとっても、総選挙をひかえて朝日を敵に回したままではマイナスが大きい。言ってみれば朝日の詫びを受け入れたということだ」
 この会談は、朝日の政治部記者の間にも伝わった。
 「政治部は総裁選の前から、安倍さんに番記者をつけて関係修復を図ってきた。その集大成がトップ会談。そこで関係修復できたから、安倍さんが一番にわが社のインタビューに応じてくれた。おかげで他紙を出し抜けたし、7年前のような取材拒否にあわなくてすむ」

※週刊ポスト2013年5月17日号


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