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(2016年7月17日からカウント)


☆(論評)秦郁彦『慰安婦と戦場の性』の検証

(従軍慰安婦・吉田証言否定論を検証するページ)


 朝日や赤旗は2014年8月5日付と同年9月27日付のそれぞれの紙面で、朝鮮の済州島などでの「慰安婦狩り」を証言した故・吉田清治氏とその証言について、「偽証と判断」(朝日)とか、「信ぴょう性がない」(赤旗)とかの理由で、その発言や活動に関するすべての記事を一挙に取り消した。そのやり方は、個々の証言部分の真偽を科学的に検証し、誤りだと判明した個所を正確に訂正するという厳密なものではない。吉田氏の発言や活動に関する記事は、どんなものであれ、すべて取り消すという、乱暴極まりないものである。あたかも吉田氏という人物全体が「信用できない大ウソつき」だと判明したかのような措置だが、検証記事はそんなことはまったく明らかにしていない。
 朝日や赤旗が検証記事で、「吉田証言」を否定する最大の根拠にしているのが、歴史家・秦郁彦氏の「研究」である。しかし、この「研究」は本当に吉田氏や「吉田証言」を全面否定するだけの内容なのだろうか。朝日や赤旗の検証記事を検証するうえで、秦氏の「研究」の検証は欠かせない。
 秦氏の「研究」の代表作、『慰安婦と戦場の性』(1999年、新潮社)を中心に、その「研究」の信ぴょう性を検証していきたい。

  (経済ジャーナリスト・今田真人、2014年11月18日初稿、同26日確定)


 @自分を棚に上げ、相手の人格を貶める手法

 秦氏の『慰安婦と戦場の性』を一読して気付くのは、相手の証言を否定するのに、真正面から論理的に立証するのではなく、相手の人格を貶めて、それで証言の信ぴょう性をなくそうという手法をとっていることである。
 同書の第七章は「吉田清治の詐話」と題され、まるまる20ページを「吉田証言」否定のための論述に当てている。
 その論理構成は、「日本軍が犯したとされる戦争犯罪がマスコミで取りあげられると、必らずと言ってよいぐらい元日本兵の『ザンゲ屋』ないし『詐話師(ウソつきのこと)』が登場する」→「有名な南京虐殺事件にも、この種の人物が何人か登場する」→「(秦氏は)その一人とニューヨークで同宿したことがある」→「(その一人は)ホテルに帰ると私に『カン・ビールを買ってこい』と命じ、モロ肌脱ぎになって飲みながら『強姦した姑娘(クーニャン)の味が忘れられんなあ』と舌なめずりした」→「同類の『詐話師』に何度か振りまわされた経験をつんで、私は疑ぐり深くなっていたのかも知れない」→「吉田清治の言動に私が疑惑を感じたのは、こうした苦い体験のせいもあったと思う」→裏付けをとりたいので旧部下を紹介してくれと電話で吉田氏に言ったら旧部下に迷惑をかけるのでと断られた″→決め手が見つからないので済州島の現地調査をした″→済州島の新聞で「吉田証言」の裏どりをした記事を発見し、そこには「裏付け証言をする人はほとんどいない」と書かれていた″→この記事を書いた記者に話を聞くと「何が目的でこんな作り話を書くんでしょうか」と問い詰められ「答に窮した」″云々と続く。
 この立証の論法は、予断と偏見に満ちた非科学的なものだということが、一見して明らかである。まず、指摘したいのは、ニューヨークで同宿したという南京虐殺事件の加害者が、強姦した女性の「味が忘れられんなあ」と言った(これは裏が取れない、秦氏との密室の会話)という「事実」から、すぐに彼を「詐話師」と断じている論法の非科学性である。百歩譲って、この人物が「詐話師」だと立証できたとしても、この人物とはまったく別の吉田氏を「詐話師」と疑うのはおかしい。こんな理屈は、通常の歴史研究では通用しないであろう。
 まがりなりにも「立証」されているのは、この人物の戦争犯罪を謝罪する姿勢の真剣さに疑問があるという程度のことであろう。この秦氏が体験したウソかホントかわからない個人的エピソードをもって、この人物を「詐話師」というのは、大変な論理の飛躍である。一種の詭弁というべきだ。
 別の角度からも検討しよう。秦氏の個人的エピソードを仮に「事実」と考えても、秦氏の言い方は、戦争中の残虐行為を感情的に肯定してしまうことがある加害者の矛盾した心理(精神的後遺症と思う)を道徳的に非難するものだ。その人格を貶め、その証言そのものを「ウソ」とする。仮にこの論法を秦氏自身に当てはめて、秦氏がそういう道徳的批判をするにふさわしい人物かどうかも検討しよう。
 秦氏の著作の第六章「慰安婦たちの身の上話」には、佐竹久憲兵准尉の戦争中の回想が紹介され、慰安所がないので憲兵による強姦が多発したとしている。それについての秦氏の感想がとんでもない。いわく「強姦する憲兵もいたくらいだから、末端部隊のお行儀はかなり悪かったのかもしれない」(P198)。占領地フィリピンでの日本軍兵士の強姦の横行という、残虐な戦争犯罪を「お行儀はかなり悪かった」としか認識できないモラルこそ、秦氏の人格の下劣さを象徴している。秦氏には、戦争犯罪を謝罪する人物を道徳的に批判する資格はない。秦氏の論法を当てはめれば、秦氏自身が「詐話師」になってしまう。
 道徳性の比較でいえば、吉田氏は、その著書の「あとがき」などを一読すれば、秦氏とは比べ物にならない。若干の紹介をしたい。
 「朝鮮民族に、私の非人間的な心と行為を恥じて、謹んで謝罪いたします。吉田清治――私はこの文を30年前に書くべきだった。戦前、朝鮮民族に対して犯した人間としての罪を、私は卑怯にも30年間隠蔽して語ろうとしなかった。その結果、第2次大戦で外国人(朝鮮人・台湾人・中国人…等)を1千万人も殺した戦前の私たちと同じように、現在の日本人も排他的な国益の概念を愛国心だと盲信して、人類共存の理念に反する諸法令をつくり、弱肉強食の獣性に堕ちている。…在日外国人を尊敬しないで、日本人が外国で尊敬されるはずがない。在日朝鮮民族への排外思想を矯正するように、日本人の青少年に対して正しい人間教育を、各界の識者にお願いする。戦前戦後を通じて、私は民族的悪徳をもって一生を送ってきたが、老境にいたって人類共存を願うようになり、人間のすべての『差別』に反対するようになった。日本人の青少年よ、願わくは、私のように老後になって、民族的慙愧の涙にむせぶなかれ」(1977年『朝鮮人慰安婦と日本人』の「あとがき」から)


 Aウソをつきながら、相手を「ウソつき」と断定する手法

 ところで、『慰安婦と戦場の性』の論理構成は、吉田氏を初めから「詐話師」と疑う非論理的なものだが、それでも、秦氏が、どの段階で吉田氏を「詐話師」と断じたのかを探ると、また発見がある。
 論理構成の最後に出てくる場面、すなわち、済州島の記者・許栄善女史に秦氏が問い詰められ、秦氏が「答に窮した」と書く段階がそうだと思われる(同著P233)。同著には「答に窮した」とあるが、実際には秦氏はとうとうと答えている。つまり、同著のこの部分は明らかなウソである。
 何と秦氏が答えたかは、済州島の調査を秦氏が初めて記述した論文「昭和史の謎を追う――第37回・従軍慰安婦たちの春秋」(『正論』92年6月号所収)にある。
 そこの記述をそのまま紹介する。「『何が目的でこんな作り話を書くんでしょうか』と、今は済民新聞の文化部長に移っている許女史に聞かれて私も窮したが『有名な南京虐殺事件でも、この種の詐話師が何人も現われました。彼らは土下座してザンゲするくせがあります』と答えるのが精一杯だった。聞くところによると、くだんの吉田氏も何回か韓国へ謝罪の旅に出かけ、土下座したり慰安婦の碑を建てたり、国連の人権委員会へ働きかけたりしているようである」。
 この秦氏の許女史への回答は、済州島の記者が「吉田証言」を「作り話」と言った(彼女の記事にはそう書いてない)ことをそのまま肯定し、「彼らは土下座してザンゲするくせがあります」といって吉田氏を「詐話師」の一人に加えていることがわかる。しかも、この秦氏の回答を記述した、この論文の一節の小見出しは「慰安婦狩の虚構」である。
 秦氏は「答に窮した」のではなく、許女史の詰問に「窮した(困ったという意味)」というのが本当だ。どうも、秦氏はそれとなくウソをつく「くせ」があるようだ。ウソをつきながら、相手を「ウソつき」と断定する手法も、詭弁の一種に違いない。


 B裏どり証言がないだけで、証言を「ウソ」と断定する手法

 秦氏がずるいのは、この論文の最後の記述である。「もちろん済州島での事件が無根だとしても、吉田式の慰安婦狩がなかった証明にはならないが、いまのところ訴訟の原告をふくめ百人近い被害者側から該当する申告がないのも事実である」と書いている。秦氏は、どうしてこれが「吉田証言」を否定する根拠になるのか″という専門家筋の批判を予想して、あらかじめ自分の論文は「吉田証言」を「否定する証明にはならない」と、予防線をはっているのだ。
 しかし、この秦氏の論文は、産経新聞が92年4月30日付で、「吉田証言」の信ぴょう性に疑問をつきつけたものとして、裏づけ取材もされないで大きく報道された。その見出しを紹介しよう。
 「朝鮮人従軍慰安婦 強制連行証言に疑問 秦郁彦教授が発表――加害者側の告白″ 被害者側が否定」。
 おいおい、である。秦氏が「貝ボタン組合の役員をしていたなどという何人かの老人たちと会い、確かめたところ、吉田氏の著作を裏づける証言は得られなかった」ということや、「吉田証言」について、済州島現地の新聞記者が一部の地元民を調べ、裏どり証言をする人が「ほとんどいない」という結果だったということだけである。いわば、歴史研究者として証拠が見つからなかったといった、あまりニュース価値のない研究失敗の「発表」である。なのに、「強制連行証言に疑問」という見出しはないだろう。裏づけ証言が得られなかった″秦氏が不明を恥じる″、という見出しの方が適切ではないか。もう一つの見出しの「被害者側が否定」も、意味が分からない。済州島の老人や新聞記者は「被害者側」なのか。
 この記事には、産経記者の電話取材による、吉田清治氏の次のようなコメントを掲載している。「私は事実を書いた。…儒教の伝統が強い韓国では仮に強制連行であっても一族に従軍慰安婦がいたということは末代までの名折れであり、本当のことを言うはずはない。被害者の家族が名乗り出ないのは当然であり、済州島の古老の人たちが本当に(秦教授らに)事実を話したかどうか、分らない。私は済州島の被害者の家族からお礼の手紙ももらっている」
 秦氏のコメントも併せて掲載してあるが、自らの不明を恥じるのではなく、あたかも「吉田証言が疑わしい」といえる発見があったかのように言うところが彼らしい。「今回の調査結果によって、吉田氏の慰安婦狩り″が全否定されたことにはならないが、少なくとも、その本の中でかなりの比重を占める済州島での慰安婦狩り″については、信ぴょう性が極めて疑わしい、といえる」
 ただし、産経新聞と言えども当時は、この程度の現地調査で、「吉田証言」を「ウソ」とか「虚偽」などと全面否定しない見識を持っていたことがわかる。
 ところが、いまの産経新聞の見地は違う。この論文は、最近の産経新聞社発行の月刊誌『正論』14年11月号に再録されているのだが、その前文には「90年代に猛威を振るった『慰安婦強制連行』説。その根拠だった吉田証言の嘘を見抜き、ついには朝日新聞に白旗を上げさせた重要論文!」とある。いつのまにか、この論文は「吉田証言の嘘を見抜いた」論文にされている。
 裏どり証言が、いろいろなやむ得ない事情で得られないことをもって、その証言を「ウソ」と断定する手法は、やはり詭弁の一種だ。
 この詭弁だが、実は朝日の検証記事にいたるところで見受けられる。「『済州島で連行』証言、裏づけ得られず虚偽と判断」「読者のみなさまへ――吉田氏が済州島で慰安婦を強制連行したとする証言は虚偽だと判断し、記事を取り消します。当時、虚偽の証言を見抜けませんでした。済州島を再取材しましたが、証言を裏づける話は得られませんでした。研究者への取材でも証言の核心部分についての矛盾がいくつも明らかになりました」。朝日は、ジャーナリズムの実証的手法を投げ捨て、このいかがわしい詭弁の手法まで、受け入れてしまったのだろうか。
 ちなみに赤旗の検証記事は、こう書いている。「この『吉田証言』については、秦郁彦氏(歴史研究家)が92年に現地を調査し、これを否定する証言しかでてこなかったことを明らかにしました(『産経』92年4月30日付)」。ここには、右翼論客である秦氏への批判的見地も、右翼紙・産経新聞に対する警戒もない。諸手を挙げての賛美である。しかも、朝日や秦氏と違って、赤旗は、裏づけのための済州島の現地取材さえ、やった形跡がない。秦氏の1回だけの現地取材をもって「(済州島では)これを否定する証言しか出てこなかったことを明らかにしました」という、みずからが報道機関であることさえ忘れた断定である。あきれるばかりである。
 話はそれるが、1つだけ、注目すべき吉田氏の発言部分を強調したい。「私は済州島の被害者の家族からお礼の手紙ももらっている」という部分だ。産経新聞は「吉田証言」を虚偽だとキャンペーンをしながら、この発言をいまだに(11月22日現在)取り消していない。朝日に対して裏どりをしないで吉田証言を掲載した″と徹底的に非難する産経新聞だから、当然、この発言部分も裏どりをして掲載したものと思いたい(笑い)。産経新聞紙上ではこの「吉田証言」は生きている。なお、手紙の当時の差出人は、済州島の住民だとは限らないことに注意を喚起したい。そこに今後の裏づけ調査の手がかりがあるのではないか。


 C電話取材での言質を証拠に、「ウソつき」と断定する手法

 秦氏『慰安婦と戦場の性』で、「吉田証言」を否定する論拠で、いま一つ、気にかかるのは、第七章「吉田清治の詐話」の後半で、吉田氏の証言がほとんど虚構であることを自認したという「事実」がすべて、秦氏による電話取材であることである。
 同著はP247の脚注で次のようにいう。「吉田は私との直接会談は拒絶したが、長時間の電話インタビューには常に応じた。感謝したい。インタビューは1992年3月13日、同年3月16日、96年3月27日、97年4月6日、98年9月2日に実施した」。5回にわたる研究者の取材が、すべて電話取材であることは、ジャーナリストの端くれである私からみて、大きな問題である。相手の証言を肯定する場合の取材なら、電話で行っても、問題ない場合はある。
 しかし、秦氏の取材目的は相手の証言を「ウソ」と証明するための取材である。こんな取材を電話ですることは、ジャーナリストなら、ありえない。相手の名誉にかかわる証言である。電話で秦氏がメモを取りましたといっても、それは相手の証言を否定する証拠にはならない。面会してインタビューすれば、公表を前提にしているかどうかも確認できるし、録音もし、写真もとる。声だけでなくその人の話し方や雰囲気など、面会でしかわからない多角的な情報も入る。だから、ジャーナリストは現場を大切にする。面会もしていない相手の電話インタビューなど、まともな新聞社なら、そんな記事を掲載することはない。
 秦氏は、吉田氏のコメントを、事前に吉田氏に公表すると確認した形跡がない。ジャーナリストなら公表・報道することを事前に確認するのが常識である。微妙な表現は、事前に点検してもらうこともある。証言者が、自分自身の過去の証言を訂正したり、否定する場合は、なおさら慎重に確認する。秦氏が吉田氏から聞いたとする、自分はウソをつきました″というコメントは、そのような慎重な確認をしている形跡はない。だいたい、命がけで加害者側から戦争犯罪を証言してきた吉田氏が、よりによって自らを「詐話師」と誹謗中傷する秦氏に、証言はウソでしたと「自白」するわけがない。あまりに大きなウソは逆に見抜かれにくいと、秦氏はたかをくくっているのかもしれない。
 電話取材は、犯罪捜査の「自白」と似ている。容疑者を密室で取り調べて「自白」させても、それは科学的な証拠にはならない。なぜなら、警察・検察による密室での取り調べは、電話取材と同じく、いろいろな脅しや利益誘導も可能で、どのようにでも調書をでっちあげられるからである。密室での取り調べは、冤罪の温床といわれる。
 だいたい、面会しての取材を秦氏はなぜ断られたのか。秦氏はそれを明らかにしていない。吉田氏が秦氏をまともな研究者だと思っていなかったからだろう。吉田氏は、少なくとも吉見教授らには会っている。その違いは何かを考えるべきだ。
 秦氏は、吉田氏が「済州島の慰安婦狩りはフィクションを交えてある。彼女たちに迷惑がかからぬよう配慮して場所も描写もわざと変えてあるが、事実の部分もある」(96年3月27日の電話取材)とか、「(秦氏が吉田氏に『吉田の著書は小説だった』という声明を出したらどうか、とすすめたのに対して)私にもプライドがあるし、85歳になって今さら…このままにしておきましょう」(98年9月2日の電話取材)とか言ったとして、鬼の首を取ったように書いている。引用が正確かどうかだけではない。そのやりとりで、秦氏側から、どのような脅し・利益誘導があったかもわからないではないか。
 自分が行った電話取材だけの恣意的な「証言」を根拠に、自著で「吉田の巧妙な詐話」「虚言を弄する吉田という男」「ある意味ではもう一人の麻原彰晃ともいえないか」「吉田という一人の男が流した害毒」などと、激しい言葉で吉田氏を「ウソつき」よばわりする「歴史研究者」を、事実に誠実な研究者だと信頼する人はどうかしている。


 D白を黒といいくるめるための、引用改ざんの手法 

 秦氏の著作は、「吉田証言」を否定したという2人の研究者の著作を紹介している。一人は戦争責任資料センター会員の西野留美子(「西野瑠美子」と書かれた著作もある)氏、もう一人は中学教諭の久保井規夫氏である。
 まず、西野留美子氏の著作『日本軍「慰安婦」を追って』(1995年、梨の木舎)を、秦氏は次のように紹介している。
 「西野留美子のように『双方にとらわれないで、できるだけ客観的な聞き取りをしたい』と下関まで出かけて吉田と面識のある元警察官と会い、済州島の慰安婦狩りについて『いやあ、ないね。聞いたことはないですよ』との証言を引き出した人もいる」(秦『慰安婦と戦場の性』P242・243)。
 この秦氏の著作の引用を素直に読めば、西野氏が吉田証言を否定したとしか思えない。しかし、実際の西野氏の著作に当ると、次のように書かれている。
 「吉田証言のもつ意味は大きい。だからこそ彼の話の裏付けをとろうと追跡調査を試みた人は、これまでも何人かいる。そしてその調査の結果は、『吉田証言は信憑性に欠ける』というものであった。吉田証言を確かめたいという思いはもちろんであるが、どういう人たちがどういった証言をしたのか、私の関心はむしろそこにあった。否定の結論は、どういう証言により導かれたのかということである。…聞かないままに悶々とするよりは、直接話を聞けば、少なくとも手応えとその結果の判断は自分に委ねられるわけだ。自分で確かめたい。吉田証言をたどるため、私は友人と山口県に飛んだ」(P70)
 「これまでにも吉田証言の検証は、何人かの学者・歴史研究家らによってなされてきた。今回の旅は、双方にとらわれないで、できるだけ客観的な聞き取りをしたいと思っていた。…しかし連絡をとってみると、ここ2、3年で亡くなられている方やアルツハイマーなどで入院中の方などが多く、出発前にまず50年近い歳月が阻む限界にぶつかったのだった」(P76)
 「当時下関市警察の労政課で、産業報国会の主事をしていたという吉本茂さんは1915年(大正4年)3月生まれ、今年79歳の純朴そうな方だった。…… 
――慰安婦の徴用について聞きたいのですが、それを証言している方に、労務報国会の吉田清治さんという方がいるのですが、ご存知ないですか。
 『ええ、知っていますよ。1、2度会ったこともありますよ。労務報国会というのは、産業報国会ともども労政課が関知していまして、顔見知りの関係ですからな。しかし労務報国会の方は会社対象ではなく、大工、左官や日雇い労務者などが相手ですから、深く付き合ったわけではありません』
――その労務報国会で、済州島に慰安婦の狩り出しに行ったというのですが、そういう話は聞いたことがありますか。
 『いやぁ、ないね。聞いたことはないですよ。しかし管轄が違うから何ともいえませんがね』
――吉田さんの話では、下関の大坪からも在日の朝鮮人女性を集めたようですが。
 『まぁそうですなぁ……下関の朝鮮人部落といったら大坪ですが……やったかもしれん。やったとしたら、特高でしょうなぁ。県の特高の出張所が下関署内にありましたから』」(P76〜84)
 少々長い引用になったが、秦氏が引用する元警察官・吉本茂氏の証言とは、「いやあ、ないね。聞いたことはないですよ」のあとに、「しかし管轄が違うから何ともいえませんがね」という話が続いているのが実際である。後半部分を秦氏は意図的に落としている。また、吉本氏は下関・大坪からの慰安婦徴用については「やったかもしれん。やったとしたら、特高でしょうなぁ」と証言している。この部分を秦氏は引用すらしていない。
 西野氏の著作をまともに読めば、この元警察官は、済州島の慰安婦狩りについて「管轄が違うから何ともいえませんがね」といい、下関・大坪の慰安婦徴用については「やったかもしれん」と証言している。「聞いたことはない」とはいわず、「やったかもしれん」というのだ。これは、限りなく吉田証言を裏づけている。
 次に、久保井規夫氏の著作『教科書から消せない歴史――「慰安婦」削除は真実の隠蔽』(1997年、明石書店)を、秦氏は次のように紹介している。
 「久保井規夫のように『吉田証言は信憑性がないことは(秦氏によって)立証された』『私は朝鮮では公然と暴力を振っての……強制連行は少なかったと判断』と書く人もいる」(秦『慰安婦と戦場の性』P243)
 この秦氏の著作の引用を素直に読めば、久保井氏が吉田証言をやはり否定したとしか思えない。しかし、実際の久保井氏の著作には次のように書かれている。
 「『自由主義史観研究会』の藤岡信勝氏は、日本軍『慰安婦』を娼婦と決めつけ、次のように主張する。…日本軍『慰安婦』を娼婦と決めつけた誤魔化しには次の説で改めて反論する。藤岡氏の主張を続けよう。『強制連行を主張している人々は何を根拠にそう言い立てているのだろうか。自分が強制連行したと称する日本人の証言である。他ならぬ実行犯の告白であり、しかも一見した処自分に不利な事実の暴露なので信用できると思われるのがねらいである。吉田清治著『私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行』(三一書房、1983年)がその証言である。しかし、この本は既にその虚構性が完全に暴露されており、このような資料に基づいて強制連行があったかのように教える事は、言わば史実の捏造をもとにした教育を行う事を意味するのである。』と言う(藤岡信勝著『汚辱の近現代史』徳間書店)。この吉田証言が崩せた事で彼らは勢いづいたようである。吉田清治氏…の証言の『虚構性を暴露した』のは『つくる会(筆者注=新しい歴史をつくる会)』の賛同人の1人でもある秦郁彦氏(千葉大学教授)の調査である。彼らが吉田証言を虚偽とした調査の経過は、板倉良明『検証「慰安婦狩り」懺悔者の真贋 阿鼻叫喚の強制連行は本当にあったのか』(文芸春秋『諸君』1992年7月号)に詳しいので要約してみよう。……吉田氏の証言は、秦郁彦氏の現地調査によって否定された(『産経新聞』1992年4月30日付)とする。……長々と紹介したが、要するに、秦氏の現地調査では、貝ボタン工場での、『慰安婦』の暴力的な強制連行の裏づけはとれなかったので吉田証言は疑問である(此処までは良いが)。だから、『慰安婦』の強制連行は一切が『史実の捏造』だと曲論するのである。私も、現場教師であるとともに、歴史家の端くれと思っている。率直に私自身の判断を述べよう。必ず、証言・資料についての検証は大切であり、吉田氏自身のきちんとした釈明・反論がなし得ない限り、吉田証言については、誇張・創作・増幅された形跡があり、秦氏の調査・指摘で信憑性がない事は立証されたと見る。吉田証言は、歴史資料としては採用できない。…吉田証言が否定されたとしても、すべての『慰安婦』の証言に見られる、数々の強制された史実をすべて否定できるとするのは暴論の極みであり、歴史家とは言えない。1で百を否定はできないのである」(P97〜101)
 これも長い引用になったが、要するに久保井氏は「秦氏の調査・指摘で(吉田証言が)信憑性がない事は立証されたと見る」と言うものの、その文章の直前に「吉田氏自身のきちんとした釈明・反論がなし得ない限り」という留保条件をつけている。秦氏は、この留保条件を引用せず、久保井氏が無条件に「吉田証言は信憑性がないことは(秦氏によって)立証された」と記述しているようにみせかけている。この著作は吉田氏が死亡したとされる2000年7月(朝日14年8月5日付)より前の97年に刊行されており、吉田氏の釈明・反論を促したものでもあったかもしれない。秦氏の留保条件を無視した引用は、我田引水という。これも引用の改ざんの一種である。
 ついでにいえば、「私は朝鮮では公然と暴力を振っての……強制連行は少なかったと判断」という久保井氏の記述は、ここでは紹介しないが彼自身の独自分析による「判断」であり、吉田証言を虚偽としたものではない。「(朝鮮では)強制連行は少なかったと判断」と言う慎重な記述にそれが表れている。
 以上のように、秦氏の著作は、吉田証言を否定していない研究者の著作を、あたかも否定しているように見せかける巧妙な引用の改ざんをしている。まさに白を黒といいくるめる手法である。


E何人もの研究者が秦氏の著作のデタラメさを指摘

 秦氏の『慰安婦と戦場の性』のこのようなデタラメさを指摘するのは、私が最初ではない。何人もの研究者が、それをしてきた。しかし、秦氏はそうした批判を事実上無視し、訂正すらしていない。
 時系列順に、その批判論文を紹介したい。
 (1)前田朗・東京造形大学教授「天に唾する素人研究家――秦郁彦(日大教授)の呆れた無断盗用」(『マスコミ市民』99年10月号)
 (2)南雲和夫・法政大学講師「写真の『引用』と『盗用』 秦郁彦『慰安婦と戦場の性』(新潮社、1999年)の写真盗用問題について」(同上)
 (3)林博史・関東学院大学経済学部教授「秦郁彦『慰安婦と戦場の性』批判――研究者にあるまじき牽強付会」(『週刊金曜日』99年11月5日号)
 (4)前田朗・東京造形大学教授「秦郁彦の『歴史学』とは何であるのか?――『慰安婦と戦場の性』に見る手法――」(『戦争責任研究』2000年春季号)
 まず、第1に、前田論文である。
 この論文は、秦氏『慰安婦と戦場の性』のP322に、出所を示さずに掲げられた「国連の人権機構」と題する組織図が、前田氏の論文「『慰安婦』討議と日本政府の対応」(『週刊金曜日』180号)に掲載された前田氏オリジナルの図を無断盗用したものだという批判をしている。この指摘に対して、新潮社出版部は、事実上の無断盗用を認め、「心よりお詫び申し上げます」としたという。
 しかし、秦氏は『戦争責任研究』2000年夏季号の論文「前田朗氏への反論――『盗用』問題について答える」で、反論を試みている。あれこれと弁解しているが、要するに、「新潮社は私と協議して担当編集者から…週刊金曜日を参考にしたこと、次回の増刷からは『参考資料として同頁に明記いたします所存でございます(案文をそえ)。もしくはどのような記載をされていただければ宜しいでしょうか』との返事を送った。しかし、今までのところ前田氏からはイエスともノーとも回答が来ていないようである」というものだ。残念ながら、私が最近購入した『慰安婦と戦場の性』(14年5月20日12刷)のP322の図には、依然として、引用を示す注記はない。
 秦氏は、その反論の中で「私はこの本は学術書ではなく一般書なので、注の数はあまり増やしたくないと考えていた。それでも、第11章の『1国連と国際NGO』という8頁半の小節には6個の注を入れた。その注(3)に『「週刊金曜日」98年5月29日号の前田論文を参照』とある。組織図の中ではないが、参考にしたことを公示するには同じ小節のすぐ近傍にあげているのだから常識的、慣行的には足りると考えてもよいのではないか」と居直る。
 「注(3)」が付されているのは、「4月6−9月の人権委員会で、フィリピン、インドネシア政府代表は発言しなかったが、韓国、北朝鮮代表や3つのNGO代表が、アジア女性基金を非難し日本政府の法的責任を問うた」(P327)という記述である。その記述を解説する形で、「注(3)」は次のように書いている。「『週刊金曜日』98年5月29日号の前田朗稿を参照。」(P329)。
 この注を見て、P322の図の引用先を示していると理解する読者はいない。図の盗用をなんとかごまかそうとする、秦氏の不誠実な態度に恐れ入るだけである。
 第2の南雲論文を見る。
 この論文は、秦氏『慰安婦と戦場の性』に掲載された3枚の写真が、村瀬守保『私の従軍中国戦線』(日本機関紙出版センター、1988年)に掲載されている写真であることを指摘し、秦氏の著作にその出典がないので、写真盗用であると批判するものだ。
 著作権法を引くまでもなく、写真を自著に掲載する場合、自分が撮影したものでなければその出所は当然書かなければならない。さらに、撮影年月日や、場所、簡単な説明などの「絵解き」をつけることは、ジャーナリストとしては当然のモラルである。出所が明示されていなければ、その写真は著者自身が撮影したものと、読者は考える。まさに「盗用」になる。しかも、上記の絵解きがなければ、せっかくの歴史的写真も、読者にはその史料的価値もわからない。
 秦氏の著作には、この3枚だけでなく、掲載されている20数枚の写真のほとんどに出所が示されていない。南雲氏でなくても、ジャーナリストなら、大変な違和感を持つ著作である。
 ところが秦氏は前出の反論でこういう。「使った写真(20数枚)は、4〜5年かかった執筆期間に出版社と双方で袋に収集していた百枚近い写真のなかから選んだ。そのつど出典や説明を裏に書いておくことにしたが、忘れたものもあり、出所不明のものもあった、毎日新聞や共同通信から買ったものもある」。
 この反論で、秦氏の写真盗用は立証されたようなものである。まともな研究者なら、出所不明の写真をけっして使わない。毎日新聞などから買ったとしても、それを明記する。秦氏は反論の中で、著作権者に内規の使用料の4倍に当る1枚2万円、合計6万円を事後に支払ったと弁解するが、盗用は、発覚後に使用料を払ったら、免罪されるものではない。秦氏は、その後、版を重ねても著作の写真に「村瀬写真集から」という最低限の絵解きもつけていない。
 驚くのは、「詐話師」などと中傷する故・吉田清治氏の顔写真(P231)も「ヒックス(豪州人ジャーナリスト)から借用したことが判明した」と秦氏が反論の中で認めていることだ。秦氏の著作に掲載されている吉田氏の顔写真の絵解きは、単に「吉田清治」である。呼び捨てである。撮影者も日時も場所も書かれていない。秦氏の写真の扱いは「借用」などという、なまやさしいものではなく、「盗用」そのものだ。
 それだけではない。自分が批判されると、他の研究者も出典を明示していないと、卑怯な弁解をしている。秦氏は、西野留美子『従軍慰安婦と15年戦争』(明石書店、1993)をあげ、「巻頭のグラビアなどに10数枚の慰安婦関連の写真が出ているが、…出典を明示しているものは一枚もない」と矛先を他者に転じる。それを読んだ読者は、ああそうか、あの西野さんもやっているのかと、秦氏を許してしまうかもしれない。しかし、私は、念のため、国会図書館に行って調べてみた。秦氏には悪いが、西野氏の著作の「あとがき」には、こうある。「この本をまとめるにあたっては、多くのかたがたの暖かいはげまし、ご助言、ご協力をいただきました。…多くの写真、資料を提供してくださった香川弘三さん、石川徳治さん、…他にも多くのかたがたのご協力と支えをいただきました。本当にありがとうございました」(P253)。何をかいわんやである。
 続いて、第3の林論文を見る。
 林氏の批判は、網羅的である。本論評も大いに参考にさせていただいた。中でも「中学校の教科書から『慰安婦』の記述を削除させようとする運動の仕掛け人は秦郁彦であった」という指摘はするどい。
 その根拠を引用しよう。「南京大虐殺の中で日本軍兵士によって地元女性に対してすさまじい強かん等の性暴力が行なわれ、そのことが日本軍による組織的な性暴力である軍「慰安婦」制度を本格的に導入する理由となったことはよく知られている。南京大虐殺と『慰安婦』問題の認識は切り離せない。…藤岡信勝氏は1995年6月の南京事件についてのパネルディスカッションで秦氏から『次の企画として「従軍慰安婦」問題をとりあげることをサジェストされ』『その後も秦氏からは折にふれて慰安婦問題の情報をいただいていた」(『教育科学』96年11月号)と秦氏の役割を正直に述べている。
 藤岡信勝という名前を聞いて、ピンとくる人もいるだろうが、彼は現在でも「南京事件はなかった『被害者』はゼロ」(『週刊金曜日』14年11月7日号、本多勝一氏との誌上討論から)と極論し、南京大虐殺事件の記述を教科書から削除しようとする右派デマゴーグのチャンピオンの一人だ。その藤岡氏に、南京大虐殺事件の次は従軍慰安婦の削除をと「サジェスト」したのが秦氏だというのだから、秦氏の右派デマゴーグとしての位置付けがよくわかる。
 その秦氏が書いた『慰安婦と戦場の性』という著作について、林氏は次のように批判する。「この本は、内容以前に物事を研究するうえでの基本的なモラルに関わる問題、すなわち写真や図表の無断盗用、資料の書換え・誤読・引用ミス、資料の混同、意味を捻じ曲げる恣意的な引用・抜粋などが目につく」と。その具体例として、先の前田朗氏の論文などを紹介している。
 林氏のオリジナルの秦氏批判の具体例も興味深い。いくつもあるが、その一つを紹介したい。
 「(秦氏の)資料の扱いも杜撰である。たとえば、1938年に内務省が陸軍からの依頼をうけて『慰安婦』の徴集の便宜を図った資料がある。この本では内務省警保局の課長が局長に出した『伺い書』が、内務省から各地方庁への『指示』に化けている。さらに五府県に『慰安婦』の数を割当てているが、その人数がでたらめで、資料では合計400人になるのに、氏の数字では650人とされてしまっている。引用も言葉を勝手に変えたり、付け加えたり、およそ研究者の仕事とは思えない(56ページ)」
 この林氏の指摘は、もしこうした杜撰な資料の扱いを秦氏がやっていたなら、研究者として致命的なものとなる。
 まず、秦氏の著作から、該当個所(P54〜56)を抜き出してみよう。
 「1937末から翌年1月にかけて、各県の警察部は軍から依頼されたとして大規模な戦地向け慰安婦の募集プロジェクトに業者が暗躍していることを知る。
 調べてみると、元凶は神戸福原遊郭の大内藤七という男で『上海派遣軍陸軍慰安所に於て酌婦稼業(娼妓同様)を為すこと』との前提で、年季2年、前借500−1000円で16−30歳の女性約500人(あるいは3000人)を集める予定で、すでに200−300人が現地に渡っていることが判明した(7)
 内務省は苦慮した。『醜業を目的とするは明らかにして公序良俗に反』し、『皇軍の威信を失墜すること甚だしき』といったんは決めつけたものの、どうやら軍の希望にそったものらしいとわかったからである。
 けっきょく内務省は『募集周旋等が適正を欠くと、帝国と皇軍の威信を傷つけ、婦女売買に関する国際条約にも抵触する」ので、条件付で『婦女の渡航は…必要已むを得ざるもの(8)』として当分の間黙認することとし、各県へ通達した。
 条件とは『現在内地に於て娼妓その他事実上醜業を営み満21歳以上』の婦女に限り、警察署が渡航のための身分証明書を発給するに際し、婦女売買や略取誘拐でないことを確認せよというものだった。『満21歳以上』の条件を付したのは、すでに書いたように日本も加入していた『婦人及児童の売買禁止に関する国際条約』(1921)を盾にとったのである。
 だが、陸軍省外務局とか内務局という自嘲的な言葉もささやかれていた御時世に、軍の威光に逆らうのは所詮はむりである。
 38年11月には、南支派遣軍の九門少佐参謀と陸軍省徴募課長から『慰安所設置の為必要に付醜業を目的とする婦女400名を渡航せしむる様配意ありたし』との申出が来ると、内務省は『各地方庁に通牒し密に適当なる引率者(抱え主)を選定、之をして婦女を募集せしめ現地に向かはしむるよう手配されたい(9)』と指示した。そして、大阪200、京都100、兵庫200、福岡100、山口50名の枠を割りあてたが、台湾総督府分の300名はすでに手配ずみとある」
 脚注の「(8)」にはこうある。「同前、1938年2月18日付警保局長通牒案『支那渡航婦女の取扱に関する件』(警発乙第77号)。」。
 脚注「(9)」には、こうある。「同前『支那渡航婦女に関する件伺」(警保局長、38・11・4付)。」。
 いずれの「同前」も、脚注「(7)」のことで、「旧内務省資料(警察大学校保管の種村一夫コレクション、1996年12月、日本共産党議員へ交付、『赤旗』評論特集版1997年2月3日付)。」というものである。
 「赤旗」評論特集版97年2月3日付とは、八木絹「赤旗」理論解説部記者が書いた論文「旧内務省資料でわかった『従軍慰安婦』の実態――内務省・警察が徴集させ、軍が設置・運営」に添付された5件の資料のことである。この資料は「昨年(96年)12月19日、従軍慰安婦問題にかんする旧内務省資料が、警察庁から日本共産党の吉川春子参院議員に提出され」(同論文)たもので、「旧内務省職員だった種村一夫氏(故人)が寄贈し、警察大学校に保存されていた資料」(同)という、画期的なものだ。
 その「資料の書換え・誤読・引用ミス、資料の混同、意味を捻じ曲げる恣意的な引用・抜粋」を列挙しよう。矢印の左が秦氏の記述、右が引用した「赤旗」評論特集版掲載の論文・資料だ。
 ★「調べてみると、元凶は神戸福原遊郭の大内藤七という男で『上海派遣軍陸軍慰安所に於て酌婦稼業(娼妓同様)を為すこと』との前提で、年季2年、前借500−1000円で16−30歳の女性約500人(あるいは3000人)を集める予定で、すでに200−300人が現地に渡っていることが判明した(7)。」→不可解なことに、脚注(7)に示された『赤旗』評論特集版掲載の資料には該当記述はない
 ★「けっきょく内務省は『募集周旋等が適正を欠くと、帝国と皇軍の威信を傷つけ、婦女売買に関する国際条約にも抵触する』ので、条件付で『婦女の渡航は…必要已むを得ざるもの(8)として当分の間黙認することとし、各県へ通達した」→「婦女の渡航は現地に於る実情に鑑みるときは蓋し必要已むを得ざるものあり警察当局に於ても特殊の考慮を払い実情に即する措置を講ずるの要ありと認めらるるも是等婦女の募集周旋等の取締にして適正を欠かんか帝国の威信を毀け皇軍の名誉を害ふのみに止まらず銃後国民特に出征遺家族に好ましからざる影響を与ふる共に婦女売買に関する国際条約の趣旨にも悖ること無きを保し難きを以て傍ゝ現地の実情其の他各般の事情を考慮し爾今之が取扱に関しては左記各号に準拠することと致度依命此段及通牒候 〈記〉 1、醜業を目的とする婦女の渡航は現在内地に於て娼妓其の他事実上醜業を営み満21歳以上且花柳病其の他伝染病疾患なき者にして北支、中支方面に向ふ者に限り当分の間之を黙認することとし昭和12年8月米三機密合第3776号外務次官通牒に依る身分証明書を発給すること」
 ★「内務省は『…之をして婦女を募集せしめ現地に向かはしむるよう手配されたい(9)』と指示した」→「警務課長・外事課長が連名で警保局長に『…之をして婦女を募集せしめ現地に向かはしむる様取計相成可然哉』と『伺(うかがい)』をした
 ★「『慰安所設置の為必要に付醜業を目的とする婦女約400名を渡航せしむる様配意ありたし』との申出が来ると、内務省は…大阪200、京都100、兵庫200、福岡100、山口50名の枠を割りあてた」→「『慰安所設置の為必要に付醜業を目的とする婦女約400名を渡航せしむる様配意ありたし』との申出が来ると、内務省は…大阪100、京都50、兵庫100、福岡100、山口50名の枠を割りあてた」
 筆者が気づいた引用の改ざんは以上だが、秦氏の資料の扱いは、林氏が厳しく指摘するように「杜撰」というほかはない。 
 最後になるが、第4の前田論文を見る。
 この論文は、先の林論文も踏まえた総括的な秦氏への批判になっている。批判内容は「図版盗用」「写真盗用」「伝聞・憶測・捏造」「国際法の理解をめぐって」と全面的である。その結論部分だけを紹介する。
 「本書(秦『慰安婦と戦場の性』のこと)には、すでにいくつかの指摘がなされているように、実は学問的著作といえるのかどうか根本的な疑問が残る。しかも、それは著者自身が立てた基準に照らしても、『まさに失格』といわざるをえない疑問である」「日本軍『慰安婦』問題は、半世紀を超える沈黙と暗闇の彼方から、想像を絶する勇気をもって証言し、日本に対して責任追及を試みた多くの被害者たちの闘いによって歴史に刻まれ、その解決が求められている問題である。…〈盗用・伝聞・憶測・捏造の歴史学〉などが口を出すべき問題ではない」


 F戦中の特高警察の流れを汲む反共謀略組織の代弁者の疑い

  秦氏の著作には、研究者とは思えない杜撰な叙述がある一方、公安警察など、反共謀略組織しかわからないような吉田氏の経歴について、不自然に詳細な暴露がある。
 それをよく示しているのが、245ページに掲載された「吉田清治の証言――虚と実の比較」と題した13項目の一覧表である。
 左の「本人の陳述」という項目をみよう。@氏名、A生年月日、B本籍地、C学歴(A)、D学歴(B)、E職歴(A)、F職歴(B)、G金永達、H入獄、I結婚、J労務報国会、K済州島の慰安婦狩り、L戦後の略歴。
 右に「実際」とあって、左の「本人の陳述」の真偽が書かれている。
 問題なのは、JとKを除き、あとの11項目が吉田氏のプライバシーに属するものであることだ。それを秦氏は「嘘で固めたライフ・ヒストーリー」といいながら、プライバシーを暴こうとしている(P243〜)。
 この姿勢に大変な違和感を持つのは、私だけであろうか。
 「吉田証言」の信ぴょう性を検証するなら、何はさておき、その核心である南朝鮮での従軍慰安婦狩りの事実こそ、調査すべきであろう。秦氏の「研究」は、そうした現地調査は適当に済ませて、そのエネルギーのほとんどを、吉田氏の身辺調査にあてている。何のための調査なのだろう。
 11項目のプライバシーにかかわる経歴の中で、事実と違うと確認されているのは、@氏名、B本籍地、G金永達、I結婚の4つだけ。氏名はペンネームなので、それがウソだと言っても意味がない。本名をなぜ、暴かなければならないのか。本籍地が山口県とある(吉田氏の著作『朝鮮人慰安婦と日本人』P19)のに、本当は福岡県だったというのも、ペンネームを使った趣旨からいって、本人が隠そうとしているものであり、それをどんな調査をしたのかはわからないが、本人に了解もなく暴いている。吉田氏の同上の著作に出てくる金永達氏についても、本名を暴露したりする目的がわからない。同様な朝鮮人を養子にしていることが確認されただけでも、吉田氏の著作の信ぴょう性は高い。吉田氏の結婚の時期が、数カ月ずれているというのも、どうでもいい枝葉末節のことである。
 吉田氏は2作目の著作『私の戦争犯罪』の「まえがき」で次のように書いている。「私のこの記録は、40年近い過去の事実を、現在まだ生きている当時の部下たち数人と何回か語り合って思い出したり、現地から亡妻や親戚友人たちへ、労務報国精神を誇示して書き送っていた私の手紙を回収したりして、記憶を確かめながら書いたものである」(P4)。また、最後の章の末尾の「付記」には「文中の氏名は、本人や遺族から公表することを拒否され、すべて仮名にしました」と書かれている。
 こうした断り書きを吉田氏がしたのは、吉田氏以外の関係者は、証言や事実を公表されるのを嫌がっていたということを示している。
 それはなぜか。秦氏の著作にも、それが書かれているではないか。「(裏づけをとりたいので、旧部下の誰かを紹介してくれとの秦氏の要求に)この本を書く時、十人ぐらいの旧部下に一緒に書こうと誘ったが、怖がって断られた。それで2、3人に話を確かめたのち、私1人の本として出したのだ。絶対に教えられない」と吉田氏は答えている。
 吉田氏は、旧部下の所在や氏名を詮索されないように、その部分をフィクションにしたと示唆している。これは、戦争犯罪の加害者が、あえて体験を証言する際、当然の配慮であって、それを「ウソ」だとあげつらう方がどうかしている。
 吉田氏が82歳になった晩年の96年、『週刊新潮』記者の電話取材に対して、次のように言ったという。「秦さんらは私の書いた本をあれこれ言いますがね。まあ、本に真実を書いても何の利益もない。関係者に迷惑をかけてはまずいから、カムフラージュした部分もあるんですよ。…事実を隠し、自分の主張を混ぜて書くなんていうのは、新聞だってやることじゃありませんか。チグハグな部分があってもしょうがない」(『週刊新潮』96年5月2・9日号)。
 このくだりは、秦氏や赤旗などが自分の論旨に都合のいい部分だけを引用し、吉田氏が自身の証言を「ウソ」と自白した決定的な証拠にしているが、曲解もはなはだしいと言わざるを得ない。
 ちなみに、この『週刊新潮』記者の取材は、例の電話取材だったのだが、96年5月2・9日号の記事では明らかにされていない。あたかも記者が吉田氏に面会取材した際に、吉田氏が語ったように書かれている。天網恢恢疎にして漏らさずというべきか、秦氏の『慰安婦と戦場の性』で、「週刊新潮96.5.2/9」が「吉田氏は電話インタビューで『本に真実を書いても何の利益のない。事実を隠し自分の主張を混ぜて書くなんていうのは、新聞だってやるじゃないか』と弁じた」(P238)と明らかにしている。
 『週刊新潮』記者も秦氏と同様、吉田氏と面談もできないくせに、あれこれと誹謗中傷を書いているのだ。メディアとしては最低である。
 ところで、秦氏が詮索している「13項目の一覧表」の中で、吉田氏が「陳述」もしてないのに、詳しく暴いている経歴がある。それはL戦後の略歴である。「47年下関市議に共産党から出馬して落選、70年頃門司の日ソ協会役員をしていたほかは、職歴不明」というものだ。いったい、これは誰が暴いた「実際」なのか。一覧表の脚注の「(注2)」にこうある。「『実際』の諸事実は、1993−96年にかけ、秦、板倉由明、上杉千年らが、下関を中心に吉田の縁者、知人などを通じ調査した結果である」。
 板倉由明氏とか、上杉千年氏とかいう人物は何者か。国会図書館で、その名前で関連論文・著作を探った結果が、以下のものである。
 ★板倉由明「朝日新聞に公開質問!阿鼻叫喚の強制連行は本当にあったのか?――検証『慰安婦狩り』懺悔者の真贋」(『諸君!』92年7月号)
 ★上杉千年「吉田『慰安婦狩り証言』検証・第二弾――警察OB大いに怒る」(『諸君!』92年8月号)
 ★上杉千年「総括・従軍慰安婦奴隷狩りの『作り話』――元・共産党員、吉田清治氏の従軍慰安婦狩り証言は、真実か。その証言を検証しつつ、その『偽証』実態を明確にする」(『自由』92年9月号)
 ★上杉千年「連載5、作り話『南京大虐殺』の数的研究」(『ゼンボウ』92年10月号)
 ★上杉千年『検証 従軍慰安婦――従軍慰安婦問題入門』(93年7月24日、全貌社発行)
 ★上杉千年「(「虚報と反日に踊る日本」特集)日本人として『教育を受ける権利』は何処へ、『従軍慰安婦』が教科書に」(『ゼンボウ』93年9月号)
 『諸君!』『自由』『ゼンボウ』という月刊誌は、いずれも現在は廃刊になっているが、少し古い共産党関係者なら、だれでも知っている反共謀略誌である。
 秦氏は、板倉氏と上杉氏とどういう関係なのか。秦氏の著作のP243にはこうある。「私は済州島から帰ったあとも、ひきつづき自伝風に書かれた吉田の第1作を手がかりに、彼のライフ・ヒストリーを洗った。知友の板倉由明、上杉千年や出身地の方々なども協力してくれた」。彼らは秦氏の「知友」なのである。
 彼らの論文や著作を読めば、彼らが日本共産党を攻撃することを主な仕事とする「研究者」たちであることは明らかである。だから、吉田氏が共産党の候補者だったことを取り立てて問題にする。
 彼らの論文などを読めば、その「研究」が公安警察の手法と変わらないものであることがわかる。吉田氏が戦後直後に下関市議選で共産党の候補者として立候補して落選したという「事実」は、公安警察が最も興味を示すテーマだが、「従軍慰安婦狩り」の証言の真偽にはまったく関係はない。吉田氏にとって、最も公表してほしくない思想信条の自由に属する問題である。
 そういう問題を彼らは必死になって調べている。初出を探したが、どうも上杉氏の「吉田『慰安婦狩り証言』検証・第二弾――警察OB大いに怒る」(『諸君!』92年8月号)がそのようだ。
 そこには次のような記述がある。「(92年)7月号(板倉論文掲載)の発売と同時に、編集部には吉田氏の戦前の活動の舞台であった下関・福岡方面から、若干の情報が寄せられてきた。筆者上杉と(『諸君!』の)編集部が、山口県下関方面に取材の足を向けたのは、その幾つかの情報に促されてのことである。…まず、寄せられた情報を頼りにたどり着いた吉田氏の妻(故人)の実家、および幼い頃他家の養女となった吉田氏の実姉、さらに地縁のある人々の遠い記憶から、氏の最初の著書に描かれた戦前のドラマの虚と実が、一部ではあるが明らかになったことをまず報告しておくべきであろう。板倉氏が前号の公開質問の第一に挙げていた吉田清治氏の本名は『吉田雄兎』であった。おそらく『清治』はペンネームなのであろう。…ところで、ここに興味ぶかいデータがある。昭和22年4月30日に投票の行われた下関市市会議員選挙の開票結果である。『吉田雄兎129票』。最下位当選者の658票に遠く及ばぬ落選であったが、吉田氏は戦後一転、共産党から市議に立候補していたのである。この転身が、いわゆる戦後180度の転向を意味するのか、それともその源は朝鮮人を養子にした若き日に求めるべきなのか。吉田氏の経歴への疑念は深まるばかりである」
 これが、上杉氏の調査だというが、よく読めば、「ここに興味ぶかいデータがある」というだけで、上杉氏らは「寄せられた情報」を鵜呑みにしている。それはなぜなのか。だれが、この「情報」を彼らに渡したのか。それは、そういう調査を得意としている公安警察以外にないだろう。彼らは公安警察情報を裏づけも取らずに信じる「研究者」なのである。
 ところで、私は最近、山口県下関市の選挙管理委員会事務局から「昭和21年〜昭和55年 選挙の記録(下関市選挙管理委員会)」という冊子の該当部分をFAXで送ってもらった。そこには昭和22年(47年)4月30日の下関市議会議員一般選挙の得票結果が示されており、落選者の中に日本共産党・吉田雄免、129票という記述がある。しかし、それは、上杉氏の論文が言うように「吉田雄兎」ではない。「吉田雄免」だ。名前が一字でも違えば、本人かどうかは確認できない。なぜ、上杉氏は、これを吉田雄兎氏=吉田清治氏だと断定するのか。ここにも上杉氏は「研究者」とは別の顔を持っていることがうかがえる。
 公安警察は、戦中の特高警察の流れを汲む反共謀略組織である。秦氏たちは、特高警察の代弁者として、戦時中から共産党員であったかもしれない吉田清治氏の人格を必死に貶めようとしているのではないか。安倍首相ら保守政治家が吉田清治氏を「眉唾もんだ」などと目の敵にするのも、特高警察流の「共産党憎悪」の思想が底流にあると思えてならない。


 G買春した「ホテトル嬢」にだまされた怨みが動機?

 最後に、蛇足かも知れないが、やはり書いておいた方がいいことがある。それは、秦氏がなぜ、こんな著作を書いたかという動機である。
 秦氏は、従軍慰安婦が国家によって強制されたという事実を絶対認めようとしない。著作の第6章「慰安婦たちの身の上話」で縷々書いているように、「慰安婦だった事実だけでも、立証困難な例が多いから、彼女たちが数十年の歳月を経て記憶だけを頼りに語る『身の上話』は雲をつかむようなものばかりである」という姿勢である。
 元慰安婦の女性に対する思いやりは皆無で、むしろ蔑視する記述がいたるところに出てくる。例えば、「現在までに名のり出た慰安婦は300人程度で、きわめて一部にすぎないが、次のように共通したパターンは見える」とし、4つの特徴の一つとして「知力が低く、おだてにのりやすい」と分析してみせる。ここまで、元慰安婦の女性を貶めようとする研究者が他にいるだろうか。
 秦氏は、慰安婦たちが日本の軍や官憲に強制されたのではなく、売春婦として大金を稼ぐためにやったといいたいようだ。これは、第6章全体を読めば、明らかである。
 秦氏にすれば、慰安婦を売春婦とみなすための最大の障害が、軍や官憲による慰安婦の強制連行の実行責任者として証言した吉田氏であった。だから、秦氏は、執拗な攻撃を吉田氏に向けてきた。
 秦氏はなぜ、そんなに売春婦を蔑むのか。その答えが、著作に散見される。
 P177「昔から『女郎の身の上話』という言い伝えがある。純情な若者がすっかり信じこんでいるのを、年長者がからかい気味に戒めるときに引かれるが、最近だと女郎でなく『ホステス』や『ホテトル嬢』におきかえてもよい。当の私自身も若い頃に似たような苦い思いをかみしめたことがあるが、客を引き留める手練手管と割り切れば、さしたる実害はなかろう」
 P274「昔から『女郎の身の上話』という諺がある。私も若い頃、ホステスの身の上話を聞かされ信じこんで先輩から笑われた経験がある」
 つまり、秦氏は若い頃に買春をし、その時の売春婦にだまされて大金を失ったという体験を披露しているわけだ。
 そういう過去の行為が大学教授や研究者のモラルとして許されるかどうか。それは、いまは問わない。
 上に紹介した秦氏の個人的体験は、上段の部分は次のように続く。「しかし、国家としての体面や法的処理に関わるとなれば、検証抜きで採用するわけにはいかない」(P177)。つまり、元慰安婦の証言は、売春婦の身の上話のようなものだから、それを検証なしに信じてはいけないという論理につながる。
 下段の部分も「それにしても、裁判所へ提出する訴状なら弁護士が整理してくれるから多少はましかと思えば、高木健一弁護士らがついている慰安婦訴訟の訴状に添えられた身の上話は、お粗末なものが多すぎる」(P274)と続く。これは、元慰安婦の証言は、売春婦の身の上話のようなものだからウソに違いない、だから、裁判で元慰安婦の証言を採用すべきではないという論理になる。
 秦氏がこのとんでもない論理を本気で信じていることを示すのが、この著作で元従軍慰安婦の証言を「身の上話」と一貫して書いていることである。
 秦氏は、従軍慰安婦の国家による強制を否定することで、個人的な怨みを晴らそうとしているようである。これは、冷静で科学的、実証的な態度が要求される歴史研究にあってはならない態度である。これだけをとっても、秦氏の「研究」のデタラメさは明らかである。
 ところが、秦氏はこうした批判を予想したのか、著作の「あとがき」で次のように言う。
 「執筆に当っては、一切の情緒論や政策論を排した。個人的な感情や提言も加えなかった。事実と虚心に向きあうには、そうするしかないと考えたからだ」(P429・430)
 思わず「ウッソー」という言葉が出てくる記述だ。秦氏が、読者を煙に巻くためなら、どんなウソでも平気でつく、底知れないずるさを持った人物であることを示している。


 以上、@からGに渡って、秦氏の著作を検証してきた。それは、様々な詐欺的手法を駆使し、詭弁をろうするものだ。その秦氏による「吉田証言」の検証は、とても信ぴょう性があるとは言えない。秦氏こそ、彼が吉田氏に当初から投げつけてきた「職業的詐話師」という言葉が、ぴったり当てはまる人物である。その「職業的詐話師」の「研究」に大きく依拠した朝日や赤旗の「検証記事」の信ぴょう性が、ますます問われている。
                            (おわり)


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