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☆私の講演会「嫌韓ナショナリズムと植民地主義」のページ
 2019年12月14日
      フリージャーナリスト・今田真人


 「嫌韓ナショナリズムと植民地主義」と題する私(今田真人)の講演会を2019年12月14日、都内で行いました。会場いっぱいの30人超の参加で、質疑応答もあり、盛況でした。


①その際、提出したレジュメを以下、公表します。なお、講演時に配布したレジュメそのものではなく、いくつか追加補正をしています。
②また、講演では、レジュメにはないことも、いくつか話しました。それで、主催団体が録音をおこして、パンフレットにする予定です。完成は年をこすとのことです。
→私が昨年12月14日に行った講演の記録、パンフ『嫌韓ナショナリズムと植民地主義――「慰安婦」・「徴用工」問題の研究を踏まえて/今田真人』が4月20日に発行されました。定価500円です。
〈注文・問い合わせはここをクリック〉


③このレジュメをPDFにもしました。ここからダウンロードしてご活用ください。



(講演レジュメ)
嫌韓ナショナリズムと植民地主義
――「慰安婦」・「徴用工」問題の研究を踏まえて
      2019年12月14日、フリージャーナリスト・今田真人

①はじめに(そして結論)――「嫌韓世論」「植民地支配への無反省」を生み出す日本の歴史認識の問題点

 韓国最高裁の元「徴用工」への賠償命令判決(2018年10月30日)を契機とした日本政府による対韓経済報復や、「あいちトリエンナーレ」企画展が政治的圧力や脅迫で中止に追い込まれ、補助金も不交付にされた事件(2019年8月3日)など、日本では昨今、政府が主導する「嫌韓ナショナリズム」が吹き荒れている
 「嫌観ナショナリズム」は、ネトウヨの跋扈、ヘイトスピーチの横行、歴史修正主義の台頭など、いろいろな現象形態があるが、その抜本的な原因は、日本政府・与党自民党の「植民地主義」にある。「植民地主義」とは「国境外の領域を植民地として獲得し支配する政策活動と、それを正当化して推し進める思考を指す」(ウイキペディア)とされる。
 日本政府・与党自民党の「植民地主義」は、要するに、明治維新後の日本帝国の対外侵略の歴史を美化・合理化することであり、戦後の日本国憲法の平和・民主主義の理念を否定し、戦前の明治憲法の侵略・独裁政治との一体感を示すものである
 「慰安婦」問題と「徴用工」問題は、戦前の明治憲法下での侵略戦争・朝鮮植民地支配が起こした典型的な人的被害であり、その被害事実を否定することは、すなわち、戦前の日本帝国の支配者・加害者側に立つことになる。
 侵略・加害の歴史に目をつぶる国民は、被害国の国民と決して心を通じさせることはできない。他民族を抑圧する民族は、抑圧者から自らを自由にすることができない。
 「嫌韓ナショナリズム」「植民地主義」
を克服するには、被害者の立場に寄り添う「熱い心」を持つだけでなく、「冷静な目」でその誤りを見抜き、歴史の真実を知ることである。
 それを克服する方法は、歴史的主張の真偽を1次資料(極秘公文書や当事者の証言)を探して歴史の真実に接近し、1次資料を歴史的文脈(歴史観=年表にするとよくわかる)の中に位置付けて考えることである。1次資料は、歴史的事実に最も近い資料であり、歴史的事実により近づくために重要な資料である。
 しかし、1次資料といえども、歴史的事実そのものではなく、加害者・被害者・目撃者という当事者の頭の中に「反映」した認識である。歴史的事実は、1次資料が発見できなくても、あるいは、当事者が1次資料を廃棄したとしても、つまり、研究者が厳密に実証できなくても、そんなことに関係なく存在している。
 これが、より鮮明になるのは、有史以前、さらには人類誕生以前の歴史的事実の存在である。
文字が発明される以前にも、歴史的事実は客観的に存在した。公文書が残っていないから、歴史的事実は存在しないというのは、主観的観念論であり、間違いである。
 この歴史観は、「史的唯物論(唯物史観)」、つまり、「人間が実証・認識したかどうかにかかわりなく、歴史的事実は客観的に存在する(していた)という科学的歴史観」である。歴史学は、歴史的事実の発見の積み重ねの中で、客観的な歴史の真実により唯物論的に接近する営みである。

〈朝鮮からの「慰安婦」強制連行はあったか〉
 例えば、朝日の「検証記事」などは次のように主張する。
 「朝鮮の済州島では『慰安婦』の強制連行の被害証言が発見できなかった」→「実証できないものは、虚偽である」→「吉田清治氏がいうような植民地・朝鮮での狭義の強制連行はなかった」
 これは、典型的な歴史修正主義であり、主観的観念論である。
 さらに、「嫌韓ナショナリズム」は、この主張を受けて、次のようにエスカレートしていく。
 「朝鮮人『慰安婦』の強制連行は虚偽だから、それを主張する韓国政府や韓国民はウソつきである」→「強制連行を主張して謝罪や賠償を要求するのは、ウソを前提に日本を非難するものであり、日本を貶めるものである」→「日本の名誉を守るために、貿易規制など、あらゆる方法で韓国に報復するべきである」。
 しかし「史的唯物論」に立てば、これら主張はすべて誤りである。
 朝日が証人を発見できなくても、「吉田証言などの加害証言や目撃証言、被害証言(いずれも1次資料)が複数あり、当時の植民地・朝鮮半島での日本帝国による非人道的抑圧支配の厳然たる事実がある。それらを大局的総合的にみれば、朝鮮人『慰安婦』の強制連行はあった」ということを、十分に認識できる。
〈「徴用工」問題は日韓請求権協定で解決済みか〉
 「徴用工」問題でも同じである。不法・不当な植民地支配と直結する「徴用工」問題を「史的唯物論」でつかめば、「徴用工」問題での人権侵害は、否定できない歴史的事実である。だから、その植民地支配の不法・不当性を認めない日韓基本条約・日韓請求権協定ではそもそも解決できないことは明らかである。
  「植民地主義」の主張を打ち破る根本的な方法は、「史的唯物論」で歴史の真実を知ること、それを広めることである。

 以下、さらに具体的に検証する。
②「『徴用工』問題は日韓請求権協定で解決済み」という主張について

 1965年の日韓請求権協定は、同年の日韓基本条約の付属協定であり、この日韓基本条約は「韓国併合条約」など、朝鮮の植民地支配の不当・不法性をまったく認めていない。
 日韓基本条約第2条は「1910年8月22日以前に大日本帝国と大韓帝国との間で締結されたすべての条約及び協定はもはや無効であることが確認される」と規定している。これは朝鮮(当時の国号は大韓帝国)を日本の植民地にした「韓国併合条約」が当時から最近まで有効であり、不当・不でなかったと言っているのに等しい。日韓請求権協定締結直前の大平正芳外相の歴史認識は、日本の「朝鮮統治」は「合法的手順を踏んでやった」(自民党機関誌『政策月報』1965年8月号)というものであった。(吉岡吉典『「韓国併合」100年と日本』P110~)
 日韓請求権協定は、この日韓基本条約第2条の歴史認識を前提に、以下のように規定している。
「(日韓請求権協定)第2条1 両締約国は、両締約国及びその国民(法人を含む。)の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が、1951年9月8日にサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約第4条(a)に規定されたものを含めて、完全かつ最終的に解決されたことを確認する。」(吉澤文寿『日韓会談1965』P220)

 【参考】日韓基本条約(日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約)
=当時、韓国は朴正煕大統領、日本は佐藤栄作首相=
 (前文)日本国及び大韓民国は、両国民間の関係の歴史的背景と、善隣関係及び主権の相互尊重の原則に基づく両国間の関係の正常化に対する相互の希望とを考慮し、両国間の相互の福祉及び共通の利益の増進のために、両国が国際連合憲章の原則に適合して緊密に協力することが重要であることを認め、1951年9月8日にサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約の関係規定及び1948年12月12日に国際連合総会で採択された決議第195号(Ⅲ)を想起し、この基本関係に関する条約を締結することに決定し、よつて、その全権委員として次の通り任命した。
      日本国  日本国外務大臣      椎名悦三郎
                             高杉晋一
      大韓民国 大韓民国外務部長官  李東元
           大韓民国特命全権大使   金東祚
  これらの全権委員は、互いにその全権委任状を示し、それが良好妥当であると求められた後、次の諸条を協定した。
第1条 両締約国間に外交及び領事関係が開設される。…
第2条 1910年8月22日以前に大日本帝国と大韓帝国との間で締結されたすべての条約及び協定は、もはや無効であることが確認される
第3条 大韓民国政府は、国際連合総会決議第195号(Ⅲ)に明らかにされたいるとおりの朝鮮にある唯一の合法的な政府であることが確認される
第4条(a)両締約国は、相互の関係において、国際連合憲章の原則を指針とするものとする。
    (b)両締約国は、その相互の福祉及び共通の利益を増進するに当たつて、国際連合憲章の原則に適合して協力するものとする。
第5条 両締約国は、その貿易、海運その他の通商の関係を安定した、かつ、友好的な基礎の上に置くため、条約又は協定を締結するための交渉を実現可能な限りすみやかに開始するものとする。
       (吉澤文寿『日韓会談1965』P217~)

【参考】日韓請求権協定(財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定)
=当時、韓国は朴正煕大統領、日本は佐藤栄作首相=
 (前文)日本国及び大韓民国は、両国及びその国民の財産並びに両国及びその国民の間の請求権に関する問題を解決することを希望し、両国間の経済協力を増進することを希望して、次のとおり協定した。
第1条1 日本国は、大韓民国に対し、
    (a)現在において1080億円に換算される3億合衆国ドルに等しい円の価値を有する日本国の生産物及び日本人の役務を、この協定の効力発生の日から10年の期間にわたつて無償で供与するものとする。各年における生産物及び役務の供与は、現在において108億円に換算される3000万合衆国ドルに等しい円の額を限度とし、各年における供与がこの額に達しなかつたときは、その残額は、次年以降の供与額に加算されるものとする。ただし、各年の供与の限度額は、両締結国の合意により増額することができる。
    (b)現在において720億円に換算される2億合衆国ドルに等しい円の額に達するまでの長期低金利の貸付けで、大韓民国政府が要請し、かつ、3の規定に基づいて締結される取極に従つて決定される事業の実施に必要な日本国の生産物及び日本人の役務の大韓民国による調達に充てられるものをこの協定の効力発生の日から10年の期間にわたつて行なうものとする。この貸付けは、日本国の海外経済協力基金により行われるものとし、日本国政府は、同基金がこの貸付けを各年において均等に行ないうるために必要とする資金を確保することができるように、必要な措置を執るものとする。
 前記の供与及び貸付けは、大韓民国の経済の発展に役立つものでなければならない。
   2 両締結国政府は、この条の規定の実施に関する事項について勧告を行なう権限を有する両政府間の協議機関として、両政府の代表者で構成される合同委員会を設置する。
   3 両締結国政府は、この条の規定の実施のため、必要な取極を締結するものとする。
第2条1 両締約国は、両締約国及びその国民(法人を含む。)の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が、1951年9月8日にサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約第4条(a)に規定されたものを含めて完全かつ最終的に解決されたことを確認する
……
第3条1 この協定の解釈及び実施に関する両締結国の紛争は、まず、外交上の経路を通じて解決するものとする
        (吉澤文寿『日韓会談1965』P219~)

【参考】韓国併合条約(韓国併合ニ関スル条約、1910年8月22日)
 日本国皇帝陛下及韓国皇帝陛下ハ両国間ノ特殊ニシテ親密ナル関係ヲ顧ヒ相互ノ幸福ヲ増進シ東洋ノ平和ヲ永久ニ確保セムコトヲ欲シ此ノ目的ヲ達セムカ為ニハ韓国ヲ日本帝国ニ併合スルニ如カサルコトヲ確信玆ニ両国間ニ併合条約ヲ締結スルコトニ決シ之カ為日本国皇帝陛下ハ統監子爵寺内正毅ヲ韓国皇帝陛下ハ内閣総理大臣李完用ヲ各其ノ全権委員ニ任命セリ因テ右全権委員ハ会同協議ノ上左ノ諸条ヲ協定セリ
第1条 韓国皇帝陛下ハ韓国全部ニ関スル一切ノ統治権ヲ完全且永久ニ日本国皇帝陛下ニ譲与ス
第2条 日本国皇帝陛下ハ前条ニ掲ケタル譲与ヲ受諾シ且全然韓国ヲ日本帝国ニ併合スルヲ承諾ス
    (海野福寿編『日韓協約と韓国併合――朝鮮植民地支配の合法性を問う』(1995年、明石書店)P392~)

●韓国最高裁の判決の肝心な内容

 「徴用工」問題での韓国側の動きでは、2018年10月30日の韓国大法院の判決がある。その内容を解説した韓国大法院広報官室の報道資料は次のように言う。(以下、山本晴太弁護士のHPの「法律事務所の資料棚」の日本語訳から)
  「本件の核心争点は、1965年韓日請求権協定により原告らの損害賠償請求権が消滅したと言いえるか否かである。これについて多数意見(7名)は原告らの損害賠償請求権は『日本政府の韓半島に対する不法的な植民支配及び侵略戦争の遂行と直結した日本企業の反人道的な不法行為を前提とする強制動員被害者の日本企業に対する慰謝料請求権』であって請求権協定の適用対象に含まれないとした」
  「日本政府は日中戦争と太平洋戦争など不法な侵略戦争の遂行過程で基幹軍需事業体である日本の製鉄所に必要な労働力を確保するため、長期的な計画を立てて組織的に労働力を動員し、核心的な基幹軍需事業体の地位にあった旧日本製鉄は、鉄鋼統制会に主導的に参加するなど、日本政府の上記のような労働力動員政策に積極的に協力して労働力を拡充した」
  「原告らは当時韓半島と韓国民らが日本の不法で暴力的な支配を受けていた状況で、将来日本で従事することになる労働内容や環境についてよく理解できないまま日本政府と旧日本製鉄の上記のような組織的な欺罔によって動員された
  「しかも原告らは成年に至っていない幼い年に家族と別れ、生命や身体に危害を被る可能性が非常に高い劣悪な環境で危険な労働に従事し、具体的な賃金額も分からないまま強制的に貯金をしなければならなかったし、日本政府の残酷な戦時総動員体制で外出が制限され、常時監視を受け脱出が不可能であり、脱出を試みたことが発覚した場合には残酷な殴打を受けることもあった」
 「このような‘強制動員慰謝料請求権’は、請求権協定の適用対象に含まれるとは言えない」
 「請求権協定は日本の不法的植民支配に対する賠償を請求するための協定ではなく、基本的にサンフランシスコ条約第4条に基づき韓日両国間の財政的・民事的債権・債務関係を政治的合意によって解決するものであった」

【参考】ポツダム宣言(外務省訳)=出典、国会図書館HPの特集「日本国憲法の誕生」の「憲法条文・重要文書」から=
1945年7月26日
米、英、支三国宣言
(千九百四十五年七月二十六日「ポツダム」ニ於テ)
一、吾等合衆国大統領、中華民国政府主席及「グレート・ブリテン」国総理大臣ハ吾等ノ数億ノ国民ヲ代表シ協議ノ上日本国ニ対シ今次ノ戦争ヲ終結スルノ機会ヲ与フルコトニ意見一致セリ
……
八、「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルヘク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルヘシ

【参考】カイロ宣言(外務省訳)
=1943年12月1日発表(出典、同上)

 「ローズヴェルト」大統領、蒋介石大元帥及「チャーチル」総理大臣ハ、各自ノ軍事及外交顧問ト共ニ北「アフリカ」ニ於テ会議ヲ終了シ左ノ一般的声明ヲ発セラレタリ
 各軍事使節ハ日本国ニ対スル将来ノ軍事行動ヲ協定セリ
 三大同盟国ハ海路陸路及空路ニ依リ其ノ野蛮ナル敵国ニ対シ仮借ナキ弾圧ヲ加フルノ決意ヲ表明セリ右弾圧ハ既ニ増大シツツアリ
 三大同盟国ハ日本国ノ侵略ヲ制止シ且之ヲ罰スル為今次ノ戦争ヲ為シツツアルモノナリ右同盟国ハ自国ノ為ニ何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ス又領土拡張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ス
 右同盟国ノ目的ハ日本国ヨリ千九百十四年ノ第一次世界戦争ノ開始以後ニ於テ日本国カ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト並ニ満洲、台湾及澎湖島ノ如キ日本国カ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還スルコトニ在リ
 日本国ハ又暴力及貪慾ニ依リ日本国ノ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ駆逐セラルヘシ
 前記三大国ハ朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ軈(やが)テ朝鮮ヲ自由且独立ノモノタラシムルノ決意ヲ有ス
 
 右ノ目的ヲ以テ右三同盟国ハ同盟諸国中日本国ト交戦中ナル諸国ト協調シ日本国ノ無条件降伏ヲ齎スニ必要ナル重大且長期ノ行動ヲ続行スヘシ

【参考】サンフランシスコ条約(1951年、対日講和条約)
第2条(a)日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する
    …
第4条(a)…日本国及びその国民の財産で第2条に掲げる地域にあるもの並びに日本国及びその国民の請求権(債権を含む。)で現にこれらの地域の施政を行っている当局及びそこの住民(法人を含む。)に対するものの処理並びに日本国に於けるこれらの当局及び住民の財産並びに日本国及びその国民に対するこれらの当局及び住民の請求権(債権を含む。)の処理は、日本国とこれらの当局との間の特別取極の主題とする。…
第11条  日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘束されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。…
第14条(a)日本国は、戦争中に生じさせた損害及び苦痛に対して、連合国に賠償を支払うべきことが承認される。しかし、また、存立可能な経済を維持すべきものとすれば、日本国の資源は、日本国がすべての前期の損害又は苦痛に対して完全な賠償を行い且つ同時に他の債務を履行するためには現在充分でないことが承認される。…
    (b)この条約に別段の定めがある場合を除き、連合国は、連合国のすべての賠償請求権、戦争の遂行中に日本国及びその国民がとった行動から生じた連合国及びその国民の他の請求権並びに占領の直接軍事費に関する連合国の請求権を放棄する
第19条(a)日本国は、戦争から生じ、又は戦争状態が存在したためにとらえた行動から生じた連合国及びその国民に対する日本国及びその国民のすべての請求権を放棄し、且つ、この条約の効力発生の前に日本国領域におけるいずれかの連合国の軍隊又は当局の存在、職務遂行又は行動から生じたすべての請求権を放棄する。

●「韓国併合条約」以前に強行された数々の朝鮮侵略

 ●歴史的事実は、1910年8月22日の「韓国併合条約」以前の段階で、朝鮮に対する度重なる侵略(戦争)があった
(1894年の東学農民戦争、同年の朝鮮の支配をめぐる日清戦争、1895年の閔妃虐殺事件、1904年の朝鮮・満州の支配をめぐる日露戦争など)
 ●ちなみに、朝鮮を韓国と改名したのは、1897年10月、朝鮮王朝が国号を大韓とし、国王が皇帝に即位したことによる。
 ●「1904年8月締結の第1次(日韓)協約では、韓国政府に日本人の財政・外交顧問団を置くことを認めさせ、いわゆる顧問政治の道を開いた。1905年11月の第2次協約(韓国保護条約、乙巳=いつし=保護条約)で韓国外交権を掌握して保護国とし、韓国統監府を設置。1907年6月のハーグ密使事件を機に、同7月第3次協約を締結し、司法権、官吏任免権を掌握して統監権限を強化。秘密取極書で韓国軍隊の解散を決めたこれらの協約で韓国の主権は実質上日本に握られた各条約締結の際には韓国官民の抵抗や義兵闘争などの反対運動があり、これらを抑圧するために日本の支配はより暴力的になっていった」(『日本史辞典』(2001年、平凡社、P554~)
 その結果により日本軍の占領支配が深まり、1910年の「韓国併合条約」に至った。

 ●「(「日清戦争」とは)東学農民軍を主力とする朝鮮人が日本軍の朝鮮侵略に反対して立ち上がった、その朝鮮人を相手に日本軍が皆殺し作戦をくりひろげた、その闘い」(『東学農民戦争と日本』P17)
 「清国との戦争の日本軍の第一撃が、清国軍への攻撃ではなく、日本軍による朝鮮の王宮占領から始まった」(同P19)
 ●「趙景達さんによれば、(東学農民戦争での朝鮮人の)死者全体を概算すると、3万人を優に超えていたのは確実」(同P96)
 ●「韓国併合……今日常用されている〈併合〉という語は、このときに植民地支配の本質をおおい隠すために案出されたものである。いわく、〈韓国が全然廃滅に帰して帝国領土の一部となるの意を明らかにすると同時に、その語調の余りに過激ならざる文字を選ばんと欲し種々苦慮したるも、遂に適当の文字を発見すること能わず。依て当時未だ一般に用いられ居らざる文字を選ぶ方得策と認め、併合なる文字を……用いたり〉(倉知鉄吉覚書。小松緑《朝鮮併合之裏面》(1920)所収)」(『【新版】韓国朝鮮を知る辞典』(2014年、平凡社、P80)
 ●「明治政府は早くから〈征韓〉すなわち朝鮮の植民地支配を対外政策の重要課題としたが、それが実現されていく過程は侵略と戦争が拡大していく歴史にほかならなかった」(同上P81)
 ●「05年春、日露戦争に勝利する見通しがつくと、韓国を日本の〈保護国〉とすることを決定し、同年11月、日韓保護条約(第2次日韓協約)を強制的に調印させたこれから後の5年間は、保護国統治機関である統監府の支配の下で朝鮮が次第に植民地と化していった時期であった。朝鮮国王高宗は07年の万国平和会議に密使を派遣して、日本の支配の不当性を訴えようとしたが、聞き入れられなかった(ハーグ密使事件)。それどころか、統監伊藤博文は国王を責めて退位させ、韓国軍を解散させた(第3次日韓協約)。09年10月、反日義兵闘争に対する大規模な〈討伐作戦〉が展開されていく最中に、安重根によってハルビン駅頭で射殺された。日本政府は軍隊(2個師団)と憲兵隊を常駐させ、最後の警察権をも韓国政府から奪って、10年8月、併合を断行した)(同上P81)

 ●朝鮮に対する植民地支配(「韓国併合」)は、侵略戦争と武力による占領支配の延長線上にあり、徹頭徹尾、不当で不法、非人道的で残酷なものであった。
 日本の植民地支配の不当・不法性を認めない日韓基本条約・日韓請求権協定では、植民地支配の一環として実施された「徴用工」(強制動員被害者)などの植民地被害の賠償問題を解決することは、理論的に不可能である。
 【参考文献】
 中塚明ほか『東学農民戦争と日本――もう一つの日清戦争』(2013年、高文研)、
 井上勝生『明治日本の植民地支配』(2013年、岩波書店)、
 角田房子『閔妃暗殺』(1988年、新潮社)、
 金文子『朝鮮王妃殺害と日本人』(2009年、高文研)

●「徴用工」問題と植民地支配

2018年10月30日の韓国大法院の判決文(山本晴太弁護士のHP「法律事務所の資料棚」所収の判決文の日本語訳から)では、次のように述べている。
 「日本は1910年8月22日の韓日合併(ママ)条約以後、朝鮮総督を通じて韓半島を支配した。日本は1931年に満州事変、1937年に日中戦争を引き起こすことによって次第に戦時体制に入り、1941年には太平洋戦争まで引き起こした。日本は戦争を遂行する中で軍需物資生産のための労働力が不足するようになると、これを解決するために1938年4月1日『国家総動員法』を制定・公布し、1942年『朝鮮人内地移入斡旋要綱』を制定・実施して韓半島各地域で官斡旋を通じて労働力を募集し、1944年10月頃からは『国民徴用令』によって一般韓国人に対する徴用を実施した」(P2)
 「本件で問題となる原告らの損害賠償請求権は日本政府の韓半島に対する不法な植民地支配および侵略戦争の遂行と直結した日本企業の反人道的な不法行為を前提とする強制動員被害者の日本企業に対する慰謝料請求権(以下「強制動員慰謝料請求権」という)である点を明確にしておかなければならない。原告らは被告に対して未払い賃金や補償金を請求しているのではなく、上記のような慰謝料を請求しているのである」(P11)

 「徴用工」(戦時強制動員被害者)は、日本政府が侵略戦争遂行のため、植民地・朝鮮の人たちを「奴隷」として狩り出し、日本内地などの朝鮮本国以外の地で強制使役したものであり、不払い賃金などの一般的な請求権とは次元が違う、植民地支配による加害行為としての賠償責任が生じる。
 ●1937年7月7日に「支那事変」(中国に対する日本の侵略戦争)が始まってまもない、1938年4月1日に公布された国家総動員法は次のようにいう
 「本邦ニ於テ国家総動員トハ戦時(戦争に準スヘキ事変ノ場合ヲ含ム)ニ際シ国防目的達成ノ為国の全力ヲ最モ有効ニ発揮セシムル様人的及物的資源ヲ統制運用スルヲ謂フ」(第1条)
 「政府ハ戦時ニ際シ国家総動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ帝国臣民ヲ徴用シテ総動員業務ニ従事セシムルコトヲ得但シ兵役法ノ適用ヲ妨ケス」(第4条)→この条文による勅令として、1939年7月7日公布の国民徴用令が存在した。
 「政府ハ戦時ニ際シ国家総動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ帝国臣民及帝国法人其ノ他ノ団体ヲシテ国、地方公共団体又ハ政府ノ指定スル者ノ行フ総動員業務ニ付協力セシムルコトヲ得」(第5条)→この条文による勅令として、1944年8月22日公布の女子挺身勤労令が存在した。
 「政府ハ戦時ニ際シ国家総動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ従業員ノ使用、雇入若ハ解雇、就職、従業若ハ退職又ハ賃金、給料其ノ他ノ従業条件ニ付必要ナル命令ヲ為スコトヲ得」(第6条)→この条文による勅令として、1940年1月公布の青少年雇入制限令や、その内容を引き継ぐ1941年12月公布の労務調整令などが存在した。
 また、1938年4月には改正職業紹介法が実施された。「改正法(改正職業紹介法)の目標とするところは、…職業紹介所の活動の対象を単に失業者のみにとどめず、広く国民全般を対象とするものであつて、その労働力を国家の遂行する諸政策に順応して配置する点に存する」(1941年7月、厚生省職業局編纂『時局と労務動員』P31)。
 「わが国の労務動員態勢は、改正職業紹介法に始まり、国家総動員法の労務関係条項の次々の発動によつて着々強化されて来たのであるが、かかる労務動員を綜合的に計画化し、もつて他の諸国家計画と共に、国家総動員態勢の完備を期することになつたのである。かくして、昭和14年度以降毎年労務動員計画の設定実施を見てゐるのである」(1941年7月、厚生省職業局編纂『時局と労務動員』P38)

【参考】各年度の「労務(国民)動員計画」(閣議決定)での朝鮮人の動員数は以下の通り
                              男      女     合計  
昭和14年度(1939年度)労務動員計画   8,5000   ―   8,5000
昭和15年度(1940年度)労務動員計画   8,8000   ―   8,8000
昭和16年度(1941年度)労務動員計画   8,1000   ―   8,1000
昭和17年度(1942年度)国民動員計画  120,000   ―  120,000
昭和18年度(1943年度)国民動員計画  120,000   ―  120,000
                            (別に内地在住朝鮮人5万人動員計画)
昭和19年度(1944年度)国民動員計画  290,000   ―  290,000
                      (合計) 780,000   ―  780,000

【参考】内務省警保局資料「国民動員計画に伴ふ移入朝鮮人労務者並在住朝鮮人の要注意動向」(1944年10月)
                 計画(人)    実績  うち、逃走数  (逃走率)
昭和14年度(1939年度) 85,000   19,135    429    2.2%
昭和15年度(1940年度) 88,800   61,984  17,053   27.5%
昭和16年度(1941年度) 81,000   44,974  24,549   54.6%
昭和17年度(1942年度)130,000  122,429  46,809   38.2%
昭和18年度(1943年度)150,000  117,943  40,550   34.4%
昭和19年度(1944年度、3月現在)
                   ―     138,852  27,426   19.8%
   (合計)            ―     505,317  156,816   31.0%


③「朝鮮人『慰安婦』の強制連行はなかった」という主張について

●「慰安婦」強制連行と「植民地主義」との強い関連

☆「労務(国民)動員計画」で、朝鮮人女性の動員目標数が「―」になっているのは、「0」ではないことが、次の政府の解説書で明らかになっている。
※1944年度の計画は、その後、朝鮮総督府の内部資料によると、朝鮮人女性1万人が加わる。

☆1943年7月15日、企画院第三部・山内第二課長『昭和18年度 国民動員計画の解説』
(【非売品】P53、国会図書館所蔵)から。
「質問 朝鮮人はどのくらひ使つているのでせうか。
 課長 数ですか。計画産業の集団移入では大体17、8万ぐらゐではないかと思ひます。毎年入れるのは其の都市によって相違はありますが、最近は計画上は大体12万位です。けれども出て行くものもあり期間満了によつて帰鮮するものもありますからそう沢山の増加は致しません。
 質問 それは男子朝鮮人だけですか。女子はをりませんか
 課長 をりますけれども計画の中で女子をのせたことはないのです。たゞある方面で必要上少々女子を集団移入として入れたものもあります」

●「慰安婦」問題と植民地支配の関連は、上記の1939年以降の労務(国民)動員計画と、関連法令の制定運用のほか、1938年4月実施の改正職業紹介法に基づく関連「規則」の改定(最近、外村大・東大教授との論争の過程で発見)でも浮き彫りになっている。

☆1937年(昭和12年)12月21日付 在上海日本領事館警察署長→長崎県長崎水上警察署長「皇軍将兵慰安婦女渡来ニツキ便宜供与方依頼ノ件」
 「本件ニ関シ前線各地ニ於ケル皇軍ノ進展ニ伴ヒ之ガ将兵ノ慰安方ニ付関係諸機関ニ於テ考究中ノ處頃日来(けいじつらい)當館陸軍武官室憲兵隊合議ノ結果施設ノ一端トシテ前線各地ニ軍慰安所(事実上ノ貸座敷)ヲ左記要領ニ依リ設置スルコトトナレリ
         記
……
 右要領ニ依リ施設ヲ急ギ居ル處既ニ稼業婦女(酌婦)募集ノ為本邦内地並朝鮮方面ニ旅行中ノモノアリ今後モ同様要務ニテ旅行スルモノアル筈(はず)ナルカ之等ノモノニ対シテハ当館発給ノ身分証明書中ニ事由ヲ記入シ本人ニ携帯セシメ居ルニ付乗船其ノ他ニ付便宜供与方御取計相成度

☆1938年(昭和13年)3月4日 陸軍省副官通牒「軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件」
支那事変地ニ於ケル慰安所設置ノ為内地ニ於テ之ガ従業婦等ヲ募集スルニ当リ……将来是等ノ募集等ニ当リテハ派遣軍ニ於テ統制シ之ニ任スル人物ノ選定ヲ周到適切ニシ其実施ニ当リテハ関係地方ノ憲兵及警察当局トノ連携ヲ密(ひそか)ニシ次デ軍ノ威信保持上並ニ社会問題上遺漏ナキ様配慮相成度依命通牒ス」

☆1938年4月(昭和13年)改正職業紹介法の実施

☆1940年(昭和15年)1月27日、(朝鮮総督府)内務、警務局長通牒「朝鮮職業紹介令施行ニ関スル件」
……
  5 募集従事者ニ付テハ其ノ素行及身許ヲ厳重調査シ不適当ナル者ヲシテ募集ニ従事セシメザルコト就中左ノ各号ノ1ニ該当スル者ハ許可官庁ニ於テ特ニ支障ナシト認メラルル場合ノ外之を従事者タラシメザルコト
……
   (2)宿屋、料理屋、飲食店、貸座敷、芸妓屋、遊戯場、芸妓、娼妓、酌婦若ハ之ニ類スルモノノ周旋業、婚姻媒介業、信用告知業、質屋、古物商、金銭貸付業其ノ他之ニ類スル営業ヲ為ス者若ハ其ノ従業者又ハ之ト同居スル者
   (3)労務供給事業ヲ行フ者…… 」

☆1940年(昭和15年)11月15日、厚生省令第49号で改正された「労務供給事業規則」
「第6条 供給業者及其ノ同居ノ戸主、家族ハ宿屋、料理店、飲食店、貸座敷、待合、芸妓娼妓酌婦若ハ之ニ類スルモノノ周旋業、質屋、古物商、金銭貸付業其ノ他之ニ類スル営業ヲ為シ又ハ其ノ営業ノ従業者トナルコトヲ得ズ但シ地方長官支障ナシト認メテ認可シタルモノハ此ノ限ニ在ラズ

☆1941年(昭和16年)12月8日、労務調整令公布
「第1条 国家ニ緊要ナル事業ニ必要ナル労務ヲ確保スル為ニスル国家総動員法(……)第6条ノ規定ニ基ク従業者ノ雇入、使用、解雇、就職及退職ノ制限ハ別ニ定ムルモノヲ除クノ外本令ノ定ムル所ニ依ル
……
第7条 年齢14年以上40年未満ノ男子又ハ年齢14年以上25年未満ノ女子ニシテ技能者及国民学校修了者タラザルモノ(以下一般青壮年ト称ス)ノ雇入及就職ハ左ノ各号ノ1ニ該当スル場合ヲ除クノ外之ヲ為スコトヲ得ズ
……
3.命令ノ定ムル所ニ依リ特定ノ一般青壮年ノ雇入及就職ニ付国民職業指導所長ノ認可ヲ受ケタル場合

☆1941年(昭和16年)12月16日、厚生次官依命通牒「労務調整令施行ニ関スル件」
「……
令第7条第3号ノ認可方針
……
第3章 令7条第2号ニ掲グル者以外ノ者ニ対スル認可方針
  1.左ニ掲グル方針ニ依ル但シ雇入レントスル特定人ガ身体又ハ家庭ノ状況上第1種又ハ第2種事業ニ従事セシムルヲ適当トスルモノハ極力之ヲ抑制シナルベク不適当ナル者ヲ雇ハシムル様指導ス
[業態]    ――    [認可標準]
……
(3)芸妓    ―― 本令施行ノ際現ニ14年未満ノ仕込中ノモノノ14年トナリタル場合ノミ認可ス
(4)酌婦、女給 ―― ○ノ要求ニ依リ慰安所的必要アル場合ニ厚生省ニ稟伺(りんし)シテ承認ヲ受ケタル場合ノ当該業務ヘノ雇入ノミ認可ス
……」

☆1942年(昭和17年)2月9日、厚生省職業局業務課長通牒「労務調整令関係質疑応答等ノ件」
妓夫、妓女、調理師、菓子職人、印刷工等ヲ労務供給業者ヨリ供給ヲ受ケテ使用スルハ認可セサル方針ナリヤ
答 規則第11条ハ常時供給ヲ受ケテ使用スル場合ノミ制限スルモノナルヲ以テ之等ノ職種ノ供給ニ於テモ臨時ノ場合ハ適用ナシ 之等ノ者ヲ常時供給ヲ受ケテ使用セントスル場合ハ認可セザル方針ナリ」

☆1942年(昭和17年)9月30日、厚生省発労第91号厚生次官及内務次官「労務報国会設立ニ関スル件依命通牒」

●労務供給業者と労務報国会の関係
 日本の国家総動員・戦時労務動員に果たした労務供給業者や労務報国会の重大な役割は、国会図書館に所蔵される戦時中の当局の解説書が詳しい。
 その一つが、1943年6月5日発行の、厚生省勤労局関清・川島順一郎共編『労務供給必携』(藤井書店版)である。
 その解説を以下に紹介する。
  「昭和15年(1940年)11月其の(労務供給事業規則の)一部を改正して、……従来単に警察署長の取締権限とせられてゐたものを職業紹介所長(当時この名称を用いた)の主管に移し、地方長官の認可に依り兼業禁止の緩和をなし得る規定を新たに追加した
  「第3の(労務供給事業規則の)改正は、昭和16年(1941年)12月8日労務調整令が発布されて、人の雇入及就職に関し強度の統制を加えることとなつたのに鑑み、民間に於ける労務を取扱ふものに対しても、之に従つて統制を強化したのである。その改正された主要点を挙げると次の通りである。
 一、常時10人以上の労務者を供給する事業を許可を受ける事業と為していたのを撤廃し、供給人員の多い少いに拘らず許可を要すること
……
 四、国民職業指導所長は、労務調整上必要ありと認むるときは供給業者に対して、その所属労務者の供給先、供給人員其の他供給に必要な事項を指示することが出来ること
以上各項に亘る重大改正を断行し、労務の重点配置に極力協力せしめることとして今日に至つたのである」
 「労務供給事業が、労務配置の重要役割を担ってゐる以上、其の所属労務者に付無統制に放任することは許されない。即ち、国家の労務統制の線に副つて、之に必要な制限を加へられることは当然と云はなければならない。……尚、供給業者の協力なくして労務統制の運営を期せられないことは冒頭にも云つたのであるが、……之に関しては、現に全国各府県に其の結成を見つゝある労務報国会(後述参照)の活発なる活動に俟つ所が大きい。
 「高度国防国家体制の整備、国家生産力の増強は国民勤労の充実発揮を基調とするものなるに鑑み、……厚生省に於ては先般来之等の実情に鑑み、日傭労務者と不可分の関係にある労務供給業者竝に作業請負業者とを打つて一丸とする労務報国会の結成を図り、其の組織の撥剌(はつらつ)たる活動に依つて、国家の基礎労務たるの実を挙げ勤労動員の完璧を期せしめようとし、昭和17年(1942年)9月30日付を以て庁府県長官宛労務報国会設立に関して通牒を発したのである」
 こうした「労務供給事業規則」改訂の歴史を概観すると、「国家総動員体制」下の「勤労動員」推進のために、労務供給業者とそれを組織する労務報国会が重大な役割を果たしていたことがわかる。日本軍「慰安婦」の動員は、まさにこうした「勤労動員」を担う労務供給業者・労務報国会の「兼業」として極秘に実施されたのである。

●戦前の国際法における「慰安婦」問題と植民地主義(参照:拙著『極秘公文書と慰安婦強制連行』(2018年、三一書房)P127~)

 1904年(明治37年)5月18日にパリで作成した「醜業ヲ行ハシムル為ノ婦女売買ニ関スル国際協定」、および、1910年(明治43年)5月4日にパリで作成した「醜業ヲ行ハシムル為ノ婦女売買禁止ニ関スル国際条約」、1921年(大正10年)9月30日にジュネーブで作成した「婦人及児童ノ売買禁止ニ関スル国際条約」の、3つの協定・条約に対する日本政府の植民地主義的な態度に鮮明に表れている。
→(内容)
☆1910年「醜業ヲ行ハシムル為ノ婦女売買禁止ニ関スル国際条約」
「第1条 何人タルヲ問ハス他人ノ情欲ヲ満足セシムル為醜行ヲ目的トシテ未成年ノ婦女ヲ勧誘シ誘引シ又ハ拐去シタル者ハ本人ノ承諾ヲ得タルトキト雖(いえども)又右犯罪ノ構成要素タル各行為カ異リタル国ニ亙(わた)リテ遂行セラレタルトキト雖罰セラルヘシ
第2条 何人タルヲ問ハス他人ノ情欲ヲ満足セシムル為醜行ヲ目的トシテ詐欺ニ依リ又ハ暴行、脅迫、権力濫用其ノ他一切ノ強制手段ヲ以テ成年ノ婦女ヲ勧誘シ誘引シ又ハ拐去シタル者ハ右犯罪ノ構成要素タル各行為カ異リタル国ニ亙リテ遂行セラレタルトキト雖罰セラルヘシ
……
「最終議定書」
1910年(明治43年)5月4日パリニテ署名
1925年(大正14年)12月21日公布
左ノ各全権委員ハ本日ノ条約ニ署名スルニ当リ本条約第1条、第2条及第3条ハ左ノ趣旨ニ依リ了解スヘキモノナルコト並其ノ趣旨ニ従ヘハ締約国カ其ノ立法権ヲ行使シ以テ既定ノ約定ヲ実施シ又ハ之ヲ補足スルノ措置ヲ執ラムコトハ希望スヘキモノナルコトヲ指示スルヲ有益ナリト認ム
……
(ロ)第1条及第2条ニ定ムル犯罪ノ禁止ニ付テハ「未成年ノ婦女、成年ノ婦女」ナル語ハ満20歳未満又ハ以上ノ婦女ヲ指スモノト了解セラルヘシ但シ何レノ国籍ノ婦女ニ対シテモ同一ニ適用スルコトヲ条件トシテ法令ヲ以テ保護年齢ヲ更ニ高ムルコトヲ得
……
(ニ)婦女ヲ其ノ意ニ反シテ醜行ヲ業トスル屋内ニ監禁シタル場合ハ其ノ重大ナルニ拘ラス専ラ国内立法事項ニ属スルノ故ヲ以テ之ヲ本条約中ニ規定セサリシモノナリ
本最終議定書ハ本日ノ条約ノ一部ヲ成スモノト見做サルヘク且之ト同一ノ効力、価値及期間ヲ有スルモノトス」

☆1921年「婦人及児童ノ売買禁止ニ関スル国際条約」
(1925年(大正14年)9月28日、日本批准)
「第1条 締約国ニシテ未タ1904年5月18日ノ協定及1910年5月4日ノ条約ノ当事国タラサルニ於テハ右締結国ハ成ルヘク速ニ右協定及条約中ニ定メラレタル方法ニ従ヒ之カ批准書又ハ加入書ヲ送付スルコトヲ約ス
……
第5条 1910年ノ条約ノ最終議定書(ロ)項ノ「満20歳」ナル語ハ之ヲ「満21歳」ニ改ムヘシ
……
第14条 本条約ニ署名スル連盟国又ハ其ノ他ノ国ハ其ノ署名カ其ノ植民地、海外属地、保護国又ハ其ノ主権若ハ権力ノ下ニ在ル地域ノ全部又ハ一部ヲ包含セサルコトヲ宣言シ得ヘク右宣言ニ於テ除外セラレタル右植民地、海外属地、保護国又ハ地域ノ何レノ為ニモ後日各別ニ加入ヲ為スコトヲ得」

1921年9月30日「ジュネーヴ」ニ於テ本書1通ヲ作成シ之ヲ国際連盟ノ記録ニ寄託保存ス
……
日本国 下記署名ノ日本国代表者ハ……其ノ署名カ朝鮮、台湾及関東租借地ヲ包含セサルコトヲ宣言ス    林権助」

→この3つの協定・条約に対する日本政府の態度
☆1925年(大正14年)6月23日、「日本国宣言」
第2回国際連盟総会帝国全権委員ハ政府ノ為ニ1921年9月30日ノ婦人及児童ノ売買禁止ニ関スル国際条約第5条ニ関スル確認ヲ延期スルノ権利ヲ留保シ且其ノ署名カ朝鮮、台湾及関東租借地ヲ包含セサルコトヲ宣言シタルカ日本国政府ハ該全権委員ノ為シタル留保ヲ確認シ且其ノ宣言ヲ更正シ玆ニ左ノ如ク宣言ス
帝国政府ハ該条約第5条及1910年5月4日ノ条約最終議定書(ロ)項ニ規定セラレタル年齢ノ制限ニ代フルニ満18歳ヲ以テスルノ権利ヲ留保シ且樺太及南洋委任統治地域ハ朝鮮、台湾及関東租借地ト事情ヲ同シクスルモノナルニ依リ帝国全権委員ノ署名ハ朝鮮、台湾及関東租借地ニ加フルニ樺太及南洋委任統治地域ヲ包含セス        1925年6月23日」

●女子動員計画における「民族力強化」という名の植民地主義

☆1943年5月3日閣議決定の「昭和18年度国民動員計画」(極秘のスタンプ)
女子ニ付テハ其ノ特性ト民族力強化ノ必要トヲ勘案シ強力且(かつ)積極的ナル動員ヲ行フ

☆1943年9月13日、次官会議「女子勤労動員ノ促進ニ関スル件」(極秘のスタンプ)
 「女子ノ特性ト其ノ民族力強化ノ使命トヲ勘案シツツ更ニ女子総動員態勢ノ強化ヲ図リ……女子ヲ動員スベキ職種ハ女子ノ特性ニ適応スルモノヲ広ク選定スベキモ……女子勤労ノ態様トシテハ従前ノモノニ依ルノ外(ほか)新タニ女子勤労挺身隊(仮称)ヲ自主的ニ組織セシメ相当ノ指導者ノ下ニ団体的ニ長期(差当リ1年乃至[ないし=現代の「から」と同じ意味]2年)出動ヲナサシムルノ制度ヲ採用スルコト」

☆戦時中の内務省の公文書には、露骨に「朝鮮民族の数を減らせ」と指示する文書が存在する。
☆1944年当時の「内務省資料」のファイルに収められた公文書「極秘・朝鮮統治施策企画上ノ問題案」(外交史料館所蔵、戦前期外務省記録A.5.0.0.1・1、第2巻、件名「朝鮮人ノ現在ノ動向ニ就テ」所収)
「1、人口配分
地理的、文化的、血族的環境ヨリ生成セル民族感情ヲ大和民族化スルガ為ニハ数的及文化的優位ヲ要請セラルルヲ以テ朝鮮民族ノ数ハ可及的少数ナルヲ適当トスル然ルニ現在既ニ2400万ヲ算スルヲ以テ之ガ同化ヲ促進スルガ為ニハ朝鮮民族ヲ刺激シ却テ同化ヲ困難ナラシメザル留意ノ下ニ一部移住、増加抑制等ノ方策ヲ遂行セザルベカラズ……
(1)増加人口ノ抑制
イ、早婚ノ弊風ヲ打破スルト共ニ女子婚姻年齢ヲ現在ニ比シ概ネ2年昂(たか)メ20歳以上ニ達セザレバ結婚セシメザルコトトシ男子ニ付テモ概ネ5年昂メル如ク指導ス
ロ、女子勤労ヲ奨励シ女子ヲ内房ヨリ社会ニ解放スル如ク指導ス
ハ、男子ノ単身出稼ヲ奨励シ経済生活ノ向上ヲ企図セシムル如ク指導ス
ニ、抑制方策ニ即応スル優生法ヲ施行ス
本方策実施ノ為ニハ凡ユル機関要スレバ団体又ハ公営ノ機関ヲ通ジ之ガ指導ヲ為サシメ20年間ニ凡ソ(およそ)500万ヲ抑制スルヲ目途トス」

●内務省管理局嘱託の朝鮮実地調査に見る人的物的収奪

☆1944年7月31日 内務省管理局嘱託(小暮泰用)「復命書」
「復命書 嘱託 小暮泰用
依命小職最近ノ朝鮮民情動向並邑面行政ノ状況調査ノ為朝鮮ヘ出張シタル処(ところ)調査状況別紙添付ノ通ニ有之右及復命候也   昭和19年7月31日
                          管理局長 竹内徳治 殿
……
2、都市及農村ニ於ケル食糧事情
朝鮮ニ於ケル都市及農村ノ食糧事情ハ相当深刻ノモノアリ、其ノ実例トシテ朝鮮ニ旅行スル時汽車ノ窓ヨリ望ムルモ沿線ノ林野ニ於ケル松木ノ皮ヲ剥(む)キタルモノ相当見受クルコトガアルガ沿線ニアラザル深山ニハ尚多ク近キ将来ニ於テ朝鮮ノ松木ハ或ハ枯死スルノデハナイカト憂慮スル人達モ相当多イ様デアル……要スルニ朝鮮ノ食糧事情ハ都市方面ノ非農家ハ殆ンド正確ニ近イ所定量ノ配給ヲ受ケナカラ尚空腹ヲ訴ヘ農村人ハ自ラ食糧ヲ生産シ乍(なが)ラ猶(なお)出来秋以外ノ時ニ於テハ概シテ自家ノ食糧ニモ窮迫シテ居ル実情デアル
……
6、内地移住労務者送出家庭ノ実情
……然(しか)シ戦争ニ勝ツ為ニハ斯(かく)ノ如キ多少困難ナ事情ニアツテモ国家ノ至上命令ニ依ツテ無理ニデモ内地ヘ送リ出サナケレバナラナイ今日デアル、然ラバ無理ヲ押シテ内地ヘ送出サレタ朝鮮人労務者ノ残留家族ノ実情ハ果シテ如何デアラウカ、一言ヲ以テ之レヲ言フナラバ実ニ惨憺(さんたん)目に余ルモノガアルト云(い)ツテモ過言デハナイ
 蓋(けだ)シ朝鮮人労務者ノ内地送出ノ実情ニ当ツテノ人質的掠奪的拉致等ガ朝鮮民情ニ及ボス悪影響モサルコト乍(なが)ラ送出即チ彼等ノ家計収入ノ停止ヲ意味スル場合ガ極メテ多イ様デアル、其ノ詳細ナル統計ハ明カデナイガ最近ノ一例ヲ挙ゲテ其ノ間ノ実情ヲ考察スルニ次ノ様デアル……
……
 更ニ残留家族殊ニ婦女子ノ労働ハドウデアルカニ就テ調査シテ見ルニ、朝鮮ノ都市ニ於テノ一家支柱タリシ男子ニ残留婦女子ガ代替シ得ルコトノ出来ナイコトハ固ヨリデアルガ農村ニ於テモ土壌ノ瘠薄(せきはく)性ト耕種法特ニ農具ノ未発達、高率ノ小作料、旱水害、其ノ他各種夫役等ノ増加ノ多イ今日ニ於テハ全家族総動員シテ労務ニ従事シ以テ漸ク家計ヲ維持シタル農民ガ戸主又ハ長男等ノ働キ手ヲ送出シタル後婦女子ノ労働ヲシテ其ノ損失ヲ補償代替更ニ進ンデハ家計ノ好転ヲ図リ得ナイコトハ明白ナ事実デアツテ、此ノ点自然的条件ニ恵マレ耕種法其ノ他営農ノ発達シタル内地農村ト同一ニ考ヘルコトハ出来ナイノデアル、況(いわん)ヤ朝鮮農村ノ婦女子ハ其ノ9割以上ガ殆ンド無教育デアリ青少年ハ徴兵実施ト其レニ伴フ各種ノ錬成其ノ他ノ行事ノ為ニ実際的ニハ働手タル意義ヲ大イニ減殺サレテ居ルノデアル
 斯シテ送出後ノ家計ハ如何ナル形ニ於テモ補ハレナイ場合ガ多イ、以上ヲ要スルニ送出ハ彼等家計収入ノ停止トナリ作業契約期間ノ更新等ニ依リ長期ニ亘ルトキハ破滅ヲ招来スル者ガ極メテ多イノデアル、音信不通、突然ナル死因不明ノ死亡電報等ニ至テハ其ノ家族ニ対シテ言フ言葉ヲ知ラナイ程気ノ毒ナ状態デアル、然シ彼等残留家族ハ家計ト生活ニ苦シミ乍ラ一日モ早ク帰還スルコトヲ待チアグンデ居ル状態デアル……
……
7、朝鮮内ニ於ケル労務規則ノ状況並ニ学校報国隊ノ活動状況如何(いかん)
 従来朝鮮内ニ於テハ労務給源ガ比較的豊富デアツタ為ニ支那事変勃発後モ当初ハ何等総合的計画ナク労務動員ハ必要ニ応ジテ其ノ都度行ハレタ、所ガ其ノ後動員ノ度数ト員数ガ各種階級ヲ通ジテ激増サレルニ従ツテ略(ほぼ)大東亜戦争勃発頃ヨリ本格的労務規制ガ行ハレル様ニナッタノデアル
 而シテ今日ニ於テハ既ニ労務動員ハ最早略頭打ノ状態ニ近ツキ種々ナル問題ヲ露出シツツアリ動員ノ成績ハ概シテ予期ノ成果ヲ納メ得ナイ状態デアル、今其ノ重ナル点ヲ挙グレバ次ノ様テアル
 (イ)、朝鮮ニ於ケル労務動員ノ方式
凡ソ徴用、官斡旋、勤労報国隊、出動隊ノ如キ4ツノ方式ガアル
徴用ハ今日迄ノ所極メテ特別ナル場合ハ別問題トシテ現員徴用(之モ最近ノ事例ニ属ス)以外ハ行ハレナカツタ、然シ乍ラ今後ハ徴用ノ方法ヲ大イニ強化活用スル必要ニ迫ラレ且ツ其レガ予期サレル事態ニ立至ツタノデアル
官斡旋ハ従来報国隊ト共ニ最モ多ク採用サレタ方式デアツテ朝鮮内ニ於ケル労務動員ハ大体此ノ方法ニ依ツテ為サレタノデアル
又出動隊ハ多ク地元ニ於ケル土木工事例ヘバ増米用ノ溜池工事等ヘノ参加ノ様ナ場合ニ採ラレツツアル方式デアル、然シ乍ラ動員ヲ受クル民衆ニトツテハ徴用ト官斡旋時ニハ出動隊モ報国隊モ全く同様ニ解サレテ居ル状態デアル
 (ロ)、労務給源
朝鮮内ノ労務給源ハ既ニ頭打ノ状態ニアルト云(い)フノガ実情デアルト思ハレル
……
(ハ)、動員ノ実情
徴用ハ別トシテ其ノ他如何ナル方式ニ依ルモ出動ハ全ク拉致同様ナ状態デアル
其レハ若シ事前ニ於テ之ヲ知ラセバ皆逃亡スルカラデアル、ソコデ夜襲、誘出、其ノ他各種ノ方策ヲ講ジテ人質的掠奪拉致ノ事例ガ多クナルノデアル、何故ニ事前ニ知ラセバ彼等ハ逃亡スルカ、要スルニソコニハ彼等ヲ精神的ニ惹付(ひきつ)ケル何物モナカツタコトカラ生ズルモノト思ワレル、内鮮ヲ通ジテ労務管理ノ拙悪極マルコトハ往々ニシテ彼等ノ身心ヲ破壊スルコトノミナラズ残留家族ノ生活困難乃至破滅ガ屢々(しばしば)アツタカラデアル……」

③注目される当事者(被害者や加害者など)の証言

「山がとつぜん白くなる(朝鮮人狩り)」(成培根=ソン・ペグン=さんの証言、1914年生まれ、慶尚南道寧昌郡出身。『朝鮮人強制連行調査の記録――大阪編』=1993年、朝鮮人強制連行真相調査団編著、柏書房=P129から)

「――わたしが盆で故郷に帰ったとき、帰省していた働き盛りの者をねらって「徴用」しようとする役場の連中がやってきた。指揮するのは日本人で、その手先となって『朝鮮人狩り』をするのは同じ朝鮮人の小役人だった。逃げまどう男たちは山へ上っていく。それを追って小役人たちが山へ上っていく。追われる者も追う者も白衣の朝鮮人である。山がとつぜん白くなる。その山が白く見えた光景を、私は今でも忘れられない。捕まった者は必死に逃げようと抵抗するし、その家族の母親や妻たちは泣き叫ぶし、まさしく修羅場だった。…私が故郷で『朝鮮人狩り』を目撃したのは1942年で、そこから考えても、そのときには強制連行ははじまっていたと思われる」

「朝鮮の慰安婦14万3千人を日本軍人がやり殺した」(自民党の政治家・荒舩清十郎氏の発言、1965年11月20日、秩父厚生会館での荒舩代議士主催「時局講演会」(秩父郡市軍恩連盟招待会)で=『現代の眼』1972年4月号所収の金一勉「荒船暴言は未見の『震災大虐殺を呼んでいる』から。同記事によると、『赤旗』の某通信員がその講演を聴取し、その内容を原稿9枚にまとめて『赤旗』編集部の吉岡吉典氏に届けたものを、金氏が「たまたま貰った」という)
 「戦争中朝鮮の人達もお前達は日本人になったのだからといって貯金をさせて1100億になったがこれが終戦でフイになった。それを返してくれと言って来ていた。徴用工に連れて来て兵隊にして使ったが、この中で57万6千人が死んでいる。それから朝鮮人の慰安婦が14万3千人死んでいる。日本の軍人がやり殺してしまったのだ。合計90万人も犠牲者になっているが、何とか恩給でも出してくれと言って来た。最初これらの賠償として50億ドルと言って来たが、だんだん負けさせて今では3億ドルで手を打とうと言って来た。賠償といっても色々な方法がある。東南アジアの国々に出している賠償金は役務賠償といって全然カネは出していない。例えば間組があちらへ行ってダムとか鉄道を作って、その金を日本の大蔵省が間組に支払えばよいのです。だから間組に1億円払ったという事にすればよい。野蛮国で鉄道を一度見たら死んでもよいという奴等が一ぱい居る国だから、それで済んでしまう。こういう賠償なんだから、こんな計算の判らない社会党や共産党は馬鹿を通りこしてキチガイだ

「青壮年の狩り出しをするのと同時に未婚の女子や、子のない人妻も『慰安婦』として狩り出された」(1953年4月1日発行の大阪朝鮮人文化協会の機関誌『朝鮮評論』第7号所収の高成浩「忘れられた歴史は呼びかける――日・朝親善を念願するが故に」から=朴慶植『在日朝鮮人関係資料集成〈戦後編〉第9巻』に復刻されている=)

 「戦争が一層熾烈になつてくると、あり余る筈であつた日本の人的資源も、ようやく底をついてきたので、政府は、朝鮮の都市や農村から青壮年の狩り出しを行つた。すなわち、政府の出先機関は、警察や憲兵を先立てて、トラツクでもつて、通行人や田畑で働いている朝鮮人を、うむをいわさず、狩り集めてこれに乗せ、各地の収容所に、厳重な銃剣による監視をつけて収容し、一定の数に達すると、これを集団奴隷のようにして、日本に運び込んだ。故にかれらは、その愛する父母や妻子達と顔をあわせ、別離の言葉をかわす余裕すらなく、田畑に出た人も、用たしに出た人も、出掛けたきり、帰らなかつたのである。そうして日本に運び込んだ人のうち、その一部は、設営隊として南方諸島に送り、他の更に多くの人びとは、鉱山や炭坑や軍需工場あるいは、各種の突貫工事場に送られた。日本の戦時生産労働力の少なからざる部分が、この人びとによつて、補われたのである。……その上一層あわれなのは婦女子の場合である。設営隊や労働力補充のために青壮年の狩り出しをするのと同時に未婚の女子や、子のない人妻も狩り出された。その中の何千人かは、勤労奉仕という名目で日本に送った。ところが、この勤労奉仕が、大変な奉仕で、軍は彼女らを、慰安婦として、南方に送るために輸送船に積み込んだ。何も知らない彼女達は、はじめは、日本の何処かの軍需工場にでもまわされるのだろうと考えていたが、船が太平洋上に出ると、軍部の連中は、彼女達に肉体を要求した。彼女達が拒否すると、彼らは目的地についてから捨てるのも、いま捨てるのも一緒ではないか、といつてそれの提供をせまつた。そこではじめて、彼女達はだまされたことを知つた。彼女達は貞操を失うよりは、死を選んだ。一隻の船から何十何百人もの女性達が、相ついで、怒濤逆巻く太平洋の荒浪に身を躍らせた。これにこりた軍部は、その後は、一層厳しく監視をつけ、手足をしばつて、これらの島々に、朝鮮の婦女子達を、生けるしかばねとして、送り込み、遂には、白骨と化せしめたのである。……知らないということも、大きな罪悪をつくる場合が、しばしばある。日本国民大衆の中には、こと、朝鮮人問題になると、考えてもみず、知ろうともせず、はじめから、自分の主観だけできめつけて何か不浄なものでもみせつけられたように、そつぽをむいてしまう人が少なくないように思われる。そういう人達に限つて、不知不識、戦争屋達のごまかしにのつて、自らの墓堀りに余念がない。……日本は終戦後、天皇制のヴェールにつつまれた多くのものが、はぎとられ、明るみにさらされたが、ことが、日本帝国主義下の朝鮮ならびに朝鮮人に関する限り、過去日帝が、日本国民の眼から遮へいしたとばりが、殆んどそのままの形で、おろされている

「(戦中の)大陸からの労務者は政府認可の募集機関が強制的に連行」「(警察の)先輩が大陸で経験したことを実践し、(暴力団を使って戦後、占領軍のための)慰安所を設置」(元山口県下関警察署長・元山口県労務報国会下関支部長で、元特高警察幹部として公職追放された山本操氏の自伝『風雪五十年』=1972年、防長新聞社=から)

「《特高課下関出張所 その歴史と幹部達》 昭和13年2月、中野課長からのご命令で〝特高課下関出張所主任″となった。……
定員62名、その内には通訳5、警部補2、巡査部長6の幹部がいて、所員は県内優秀な選り抜きを集めていて、一騎当千の士のみであった。由来山口県の特高警察は日本の玄関下関の警備を重要視していて、その人員においては、警視庁、大阪に次ぐ大特高課であったのである。
………
《大陸からの労務者 監視と世話は警察》 炭鉱労働者の不足は極度に達し、国内における動員は不可能になり、統治下にあった朝鮮に動員をかけ、さらに新しく勢力範囲内に入った、支那大陸にも動員募集の手をのばすことになった。朝鮮関係については総督府がその事務に当り、労務者は関釜連絡船を利用して統制輸送されていたが、支那大陸からの労務者は、政府の認可した募集機関が現地に行って募集し船便で下関に上陸させて、下関駅から目的地に輸送したのである。……下関に上陸していた労務者は1回に100名乃至150名であって、市内観音崎の岸壁に上げ、竹崎町の駅前にあった仏教会館(現在の福岡相互銀行の所にあった)に一応収容し、列車ダイヤを編成して目的地に輸送していたのである。当然のことながら、この上陸した労務者(いわゆるクリー)の監視と世話は警察が当らなければならなかった。これらの労務者は、入国手続きも杜撰(ずさん)極まるもので、頭をそろえるだけのものだった。したがって喜んで募集に応じてくる者は少なく、強制的に連行された者がその大部分で、中には道路を通行していた者をそのまま船に押し込んだと思われるものもいた。これを裏書きするものに、『自分は、船を見にこいと友達が言うのでそのまま船に乗った』また盲目の老人は、『道路を歩いていたら連れ込まれた』などと訴えていたのをみると、募集の責任者はとにかく〝頭数だけをそろえる″のが目的であって、労働ができるできないは問題にしていなかったように思われていた。
 ……
当時は戦時体制であり、戦力の増強のためには相当無理を強行したのであって、これもやむを得なかった措置であったのではあるまいかと、善意に解するよりほかしかたがなかった。
 ……
《籠寅事件 市議殺害》 明治の末期、兵庫県明石市から下関市にやって来た保良浅之助は、『籠寅組』を組織して長男寅之助、次男菊之助を中心に興業・土木・製函等を手広くやり、『組』としての勢力を張り、相当な子分を集め、昭和初期には、下関の籠寅組といえば『泣く子もだまる』という、いわゆる暴力団として関西、九州地方を〝風靡″する勢力を有するに至り、異常な組織を持つようになった。
……
《進駐軍の行状 取り扱いに苦慮》 〔慰安施設〕有史以来かつてない初めての敗戦による占領軍の進駐で、この取り扱いをどうしたらよいのか見当も立たない。そこでかつてある先輩が大陸で経験したことを、こちらでそのまま実践しようということにして、第一に慰安所の設置をということになった。この慰安所の設置については、この方面の経験をもっている、市議会議長保良寅之助の実弟である、下関伊崎町の保良菊之助氏に頼むことにした
場所は市内西細江町にある焼け残った山陽デパート(現労働会館)の4階を改造し、これを進駐軍のキャバレーすなわち慰安所としたのである。またそのころの赤線地帯はまだ廃止になっていないので、大いにこれも利用させるように、これらの受け入れ態勢を整備させ、万事遺漏のないようにせよと、指示することにした。これによって、進駐軍の慰安のはけ口とするとともに、一般の善良な家庭におよばんとするであろう問題の防止策にもなろうと考えたのである。」

④改めて注目すべき吉田証言
●「慰安婦」強制連行と反社勢力(暴力団)との関係

吉田清治氏は言う。
 ☆「私が業務連行した慰安婦は、ほとんどは、朝鮮半島の、私の場合は、いなかの僻地から…男の徴用のついでに、女の女子挺身隊も30人、50人という、そういうのをいっしょに、命令が出ていたわけです」(拙著『吉田証言は生きている』P22・23)
 ☆「昭和17年以降、終戦までの、朝鮮半島で、いわゆる民間人が、あそこから女性も男性も連れ出すには、何らかの官庁の証明書、許可書なし、命令書なしには絶対できない。…女たちを連れだして、それを釜山まで、どうして連れて行くか、…軍属という身分を前線でもらった連中しかいかれないんです。それも集団で。何人か、5人10人と。いわゆる軍服を着た、軍属でも軍服を着たら、わかりませんよ。そして、軍属のきちっとした徽章なんか、いりゃしませんよ。証明書をどこの部隊でも、慰安所要員はそれの募集に軍属としてですね、御用商人がたいていやっていた。日本中の暴力団が実は御用商人やら、そういうところにみんな、いっているんです。日本内地は、若者がどんどん、いれずみ入れたのが召集かかるでしょう。召集逃れもあって、親分がバーと連れて、大陸にみんないっているんですよ。そして御用商人と称して、これが大量に中国、満州から広東と、全部いっていたんですよ。そういう手合いのいれずみ入れたんが、この募集によくきていた。それは、私が下関で世話したときに、よく知っている。(慰安婦狩りは)初めから、狩り出すときから、朝鮮半島で連れ出すときから、国家そのものの力です」(拙著『吉田証言は生きている』P37~39)
 「復員軍人、傷痍軍人もいたし、それから、いろんな炭鉱やなんか、いろんな現場で労務監督をやった経験者ばかり。つまり、人間を扱い慣れた連中が職員だったんです。そんなんしか雇わなかった。荒っぽい連中ばかりがなった」(拙著『吉田証言は生きている』P41・42)
 「(道府県労務報国会の)各支部に『事務局』を置き、数人から数十人の事務局職員には、官公吏、復員の傷痍軍人、各建設事業所の労務係、炭鉱の人事係などの労務監督の経験者の中から適任者を選んで、警察が半ば強制的に志願させて採用した。…『支部長』は警察署長が兼任であった。そのころの警察署は署員の『召集』で人員が不足していて、本来の警察業務のほかに労務動員業務を行なう余力がなかった。『支部』設立のはじめから、動員業務の実務は事務局で行ない、事務局責任者の『動員部長』が、事務局職員を指揮して実行した。…『山口県労務報国会』が行った数千人の朝鮮人強制連行は、すべて私が実務責任者であった。私のその所業は非人道的な戦争犯罪であって、私は朝鮮人に対して、戦犯の責めを負う者である」(吉田清治著『私の戦争犯罪』P10・11)

【参考資料】
吉田清治著『朝鮮人慰安婦と日本人』(1977年、新人物往来社)
吉田清治著『私の戦争犯罪――朝鮮人強制連行』(1983年、三一書房)
拙著『吉田証言は生きている』(2015年、共栄書房)
共著『「慰安婦」問題の現在――「朴裕河現象」と知識人』(2016年、三一書房)
拙著『極秘公文書と慰安婦強制連行――外交史料館等からの発見資料』(2018年、三一書房)

【補足】
●「籠寅」こと保良浅之助の登場(ルポライター猪野健治著「ヤクザの系譜〈連載第7回〉」から=『新評』1971年9号所収)
 「吉田磯吉が民政党の『暴力弁』であったとするなら、籠寅組の親分・保良浅之助は、政友会の「院内任侠団長」であった。……日露戦争が終わった直後の明治39年(1906年)、浅之助は下関へ進出する。……九州と本州を結ぶ下関は、朝鮮釜山への連絡港であり、いくつかの漁村を周辺にひかえた発展途上の町であった。したがって、ミナトや歓楽街には、さまざまの利権を求めて大小のヤクザ組織が対立抗争くりかえされていた」

●軍部が利用した博徒組織(ルポライター猪野健治著「ヤクザの系譜〈連載第8回〉」から=『新評』1971年10月号所収)
「保良朝之助が中央政界に打って出たについては、次のようなイキサツがあった。昭和4年(1929年)7月、張作霖爆殺事件の責任を問われて、内閣を解散した政友会の田中義一は久しぶりに郷里の山口県萩へ帰った。……田中は意地でも、前首相として、地元山口県を民政党の手に渡したくなかった。……長州藩士を父にもつ軍人(陸軍大将)の田中は、首相の座にあった2年間に、大胆な大陸進攻政策を推進し、東方会議を招集して、山東省へ3次にわたる出兵を行ない、国内では、これに反対する労農党、共産党の弾圧と治安維持法の改変を強行した。…博徒を利用するということは、当時の政界や軍上層部の常識であった田中は、民政党の吉田磯吉に匹敵する人物を山口県で見出した。それは、下関市議会副議長で、商工会議所副会頭を兼ねる籠寅こと保良浅之助であった。保良は、下関市内はもとより、山口県全域の「任侠勢力」にニラミをきかせる顔役である。……一時は、いきりたった籠寅組配下の4千人が下関から上京するというウワサが流れ、これに対抗するため、北九州からは吉田門下の5千人が出動するとの憶測までとんだのである。……全国で3~40万人といわれたこれらの博徒組織は、軍部にとっては、利用価値の高い存在であった。大陸進攻が本格化するにつれて、軍の手ではまかないきれない仕事が派生し、軍上層部はこれを彼らに肩がわりさせることを思いついたわけである。一例をあげるならば、上海飛行場建設にあたっての長崎の大親分宮崎久次郎(宮久一家)の登用や、台湾の軍役夫調達を小金井一家の平松兼三郎にまかせたなどがそれだ。大陸における娼家経営者、酒場、簡易宿泊所経営、将兵慰安施設の経営者、慰安婦の調達などにたずさわった者の相当部分が博徒であったことはよく知られており、命をマトの特務機関にも博徒親分が協力している。…土建系の親分は軍関係の土木工事を、遊郭系の親分は大陸での将兵「慰安施設」を、興行系の親分は、芸能人を引きつれての将兵慰問を、廃品回収系の親分は、軍需物資生産に必要な金属、繊維原料収集を、港湾荷役、輸送系の親分は兵站をというように、親分衆はそれぞれの機能に応じた分野で軍に協力したのであった
                               
                                      (以上)


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