(2022年5月13日からカウント)
日本共産党の「敵の出方」論について(2021年9月15日~のツイート再録)
(フリージャーナリスト、今田真人)
(総リード)
菅義偉・自公政権は、2021年10月の総選挙での野党共闘勢力の躍進を妨害するため、その一翼を担った日本共産党にたいして、公安調査庁仕込みの古いデマ攻撃、つまり「共産党は暴力革命を目指している」とする宣伝を強めた。その攻撃の根拠になったのが、日本共産党の「敵の出方論」である。しかし、日本共産党は、与党・政権側の攻撃の執拗さに負け、これまで擁護してきた「敵の出方論」の正確な定義を放棄し、同党の100年近い歴史をねじ曲げる決定をするまでに至った。以下の私の連続ツイートは、与党・政権側の攻撃に反対の立場であることを前提に、日本共産党の戦前のたたかいの歴史的事実や、戦後の党の決定などを発掘し紹介しつつ、党の正しい方針である「敵の出方論」を擁護したものである。
①加藤勝信官房長官の「政府としては日本共産党のいわゆる『敵の出方』論に立った暴力革命の方針に変更はないと認識している」という発言は、「敵の出方」論についての事実に基づかない認識であり、デマであり、許されない。自民党政府は、このデマに基づき、公安調査庁という政府組織を維持している。
②公安調査庁は戦中の特高警察を統轄した内務省警保局の流れを汲んでおり、特高警察関係者が創設に関与したと言われる。戦中の特高警察は、拙著『極秘公文書と慰安婦強制連行』(三一書房)にも書いたように、「慰安婦」強制連行にも深く関与した戦犯的組織である。
〈参照〉ウィキペディア「公安調査庁」
➂戦中の特高警察は、治安維持法に基づき、日本共産党や植民地・朝鮮の独立運動を野蛮な方法で弾圧した。ポツダム宣言を受け入れ、米軍を中心とした占領軍の下、解体され、その一部幹部は公職追放をされた。しかし、ソ連との冷戦体制が進行する中で、事実上、復活したのが公安調査庁・公安警察である。
④戦中に特高警察による拷問・投獄など激しい弾圧にさらされながらも、侵略戦争反対・植民地解放のため、命がけでたたかったのが日本共産党を中心とする人たちである。その社会変革の運動を暴力で弾圧したのが特高警察である。公安調査庁に「日本共産党は『暴力革命の党』だ」と非難する資格はない。
⑤以上の歴史的な構図を踏まえ、「敵の出方」論を考える。この主張は、1958年の日本共産党7回大会で宮本顕治氏が「綱領問題についての中央委員会報告」として提起した。当時は、まだ社会変革の平和的合法的進行が困難な情勢であったが、そのなかで武力革命不可避論を退けたのが、この報告である。
⑥平和憲法に代表される日本の民主化も、第二次世界大戦で連合国が日本帝国を打ち負かした戦争によって勝ち取られた。1949年の中国革命も抵抗戦争と内戦の結果、勝ち取られた。当時、社会変革の事業を平和的合法的にやった国は皆無だった。「敵の出方」論はそういう時に提起されたのである。
⑦以下、宮本顕治報告を引用する。「革命が非流血的な方法で遂行されることはのぞましいことである。世界の社会主義と平和・独立の勢力が画期的に大きく成長した世界情勢のもとで、アメリカ占領軍の全面的な占領支配が今日のような支配形態となり、サンフランシスコ体制によって制約(つづく)」
⑧「(承前)されているとはいえ、今日の憲法が一応政治社会生活を規制する法制上の基準とされている情勢では大衆闘争を基礎にして、国会を独占資本の支配の武器から人民の支配の武器に転化さすという可能性が生じている。しかし反動勢力が弾圧機関を武器として人民闘争の非流血的な前進を(つづく)」
⑨「(承前)不可能にする措置に出た場合には、それに対する闘争もさけることができないのは当然である。支配勢力がその権力をやすやすと手ばなすもので決してないということは、歴史の教訓の示すところである。われわれは反動勢力が日本人民の多数の意志にさからって、無益な流血的な弾圧(つづく)」
⑩「(承前)の道にでないように、人民の力をつよめるべきであるが、同時に最終的には反革命勢力の出方によって決定される性質の問題であるということもつねに忘れるべきではない」「(1956年の)7中総の決議は内外の情勢の変化をあげ、国際的には世界の社会主義と平和・独立勢力の(つづく)」
⑪「(承前)画期的な発展、国内的にはサンフランシスコ体制以後の情勢変化について示している。そして言論・集会・結社の自由、民主的な選挙法と国会の民主的運営、民族解放民主統一戦線の発展と労働者階級の前衛党の強化という3つの条件があるとき、民主的な党派が国会において多数を(つづく)」
⑫「(承前)しめ、その政府をつくりうること『このような政府は、その国民との結合、国民からの支持および政府を構成する民主党派の指導性や統一行動の確固さに応じて――内外の力関係に応じた進歩的、革命的な政策を実行できる』という可能性をあげている。このような条件と可能性は今日(つづく)」
⑬「(承前)の内外情勢において空想的なものではなく、歴史的・理論的な可能性をもっている。このことは、この決議の発表された直後の選挙の結果においてもたしかめられている。そして、51年綱領が『日本の解放の民主的変革を、平和の手段によって達成しうると考えるのはまちがい(つづく)」
⑭(承前)である』という断定をおこなって、そのような変革の歴史的・理論的可能性のいっさいを思想としても否定して、いわば暴力革命不可避論でみずからの手を一方的にしばりつけているのは、あきらかに、今日の事態に適合しないものとなっている。したがって、7中総の決議は、(つづく)」
⑮「(承前)どういう手段で革命が達成できるかは、最終的に敵の出方によってきめることであるから、一方的にみずからの手をしばるべきではないという基本的見地にたっておこなわれた必要な問題提起であった。平和的手段による移行の歴史的・理論的可能性をうんぬんできる条件が敗戦直後(つづく)」
⑯「(承前)からではなく、サンフランシスコ条約以後に限定したのは、それ以前のアメリカ軍の『全一的支配』と異って、サンフランシスコ条約以後は、サンフランシスコ体制の内部矛盾によって現在の憲法による民主的権利、国会運営、政府の成立の条件を米日支配層も、一応たてまえとしては(つづく)」
⑰「(承前)認めざるを得ないところにおかれているからである。だから、米日支配層は憲法や選挙法の改悪を熱望せざるを得ないのである。この矛盾に注目せず、単に米軍の半占領体制、米日反動の強力な軍事機関の存在というだけの理由で、暴力革命不可避論によってみずからの手をしばる態度(つづく)」
⑱「(承前)を固執することは、この数年間の内外情勢の変化を創造的なマルクス・レーニン主義で分析しない保守的なあやまりをおかすものである。また、7中総の決議は、平和革命必然論の立場をとっていないしとるべきではないという見地にたっている。したがって敵の出方が平和的な手段(つづく)」
⑲「(承前)による革命達成を不可能にする場合を歴史的な可能性として考察することをおこたってはいけないのである。『このような政府の樹立の前後、あるいは新政府による内外の転換、実施にたいして、米日反動勢力が非道な挑発、暴力的な手段をもって抵抗する可能性もある。また、(つづく)」
⑳「(承前)革命運動の発展を未熟におさえるために、民主勢力がまだ強大にならないうちに、暴圧を加える可能性のあることも見失ってはならない。このような暴力的な弾圧や抵抗を米日反動がおこなうとしてもとうてい成功しないように、つねに内外の民主的世論をたかめ、平和・独立・民主(つづく)」
㉑「(承前)勢力の団結力を強大にしておくことが、解放運動にとってきわめて重要である。独立と平和の勢力があくまでも国民の権利と自由を維持してすすむならば、反動勢力の出方によってどのような道をとろうとも、もっとも犠牲にすくない方法で反動の暴力から革命運動とあたらしい政府を(つづく)」
㉒「(承前)効果的に防衛し、勝利の道を確実にすることができる。』(7中総決議) 7中総の決議は、まさに『反動勢力の出方によってどのような道をとろうとも』革命運動を効果的に防衛するには、内外の平和・独立・民主勢力の団結の強大化、人民の既得権の防衛が重大であることを指摘(つづく)」
㉓「(承前)しているのである。また、平和的な手段による革命の可能性をいわば無条件的な必然性として定式化する『平和革命必然論』は、今日の反動勢力の武力装置を過少評価して、反動勢力の出方がこの問題でしめる重要性について原則的な評価を怠っている一種の修正主義的な誤りに(つづく)」
㉔「(承前)おちいるものである」(引用終わり)。以上、日本共産党の「敵の出方」論は、当時の世界各国の社会変革の事業が「暴力革命」でおこなわれる状況の中で、日本の当時の平和革命の条件の可能性を最大限追求しようとするものだった。加藤官房長官や矢代氏の発言は時空を超えた暴論である。
㉕「敵の出方」論は、7回大会の宮本顕治報告で詳述され、8回大会(1961年)で決定された日本共産党の綱領の基本精神だ。同綱領は、平和革命路線を打ち立てた、戦後の同党の原点でもある。攻撃には「この表現は使わない」などの言葉狩りではなく、歴史的事実に基づき堂々と反論すべきである。
㉖「敵の出方」論は平和革命必然論ではない。自衛隊のクーデターなど、社会変革の途上で反動勢力が暴力的な抵抗を行う可能性はある。そういう警戒をしなければ平和革命は実現できない。誤解を恐れて「この表現を使わない」との決定は、反動勢力の暴力的な「出方」への警戒を緩めることになりかねない。
㉗自衛隊のクーデター計画は、亀井静香氏の証言や、民主党政権時代の「陸上自衛隊観閲式での首相狙撃計画」の情報など、最近でも頻繁に取りざたされている。野党共闘で衆議選をたたかう直前に、「敵の出方」論の表現を取り下げるのは、時期的にもあまりに脳天気である。
㉘自衛隊のクーデター計画の動きは、1970年の作家・三島由紀夫が、「憲法改正」のため自衛隊の決起(クーデター)を呼びかけた後に割腹自殺をした事件は有名だ。そのほか最近では、2018年、現職自衛官による民進・小西洋之参院議員(現・立憲民主)への暴言など、警戒を緩める状況にはない。
㉙「敵の出方」論という表現を日本共産党は最近、廃棄。同党が「あたかも平和的方針と非平和的方針を持っていて、相手の出方によっては非平和的方針をとるかのような、ねじ曲げた悪宣伝に使われる」からという。これは「平和革命必然論」であり、党の基本方針の改変である。
㉚日本共産党7回大会で宮本顕治報告はいう。「(革命が流血的なものになるか非流血的なものになるかは)最終的には反革命勢力の出方によって決定される性質の問題であるということもつねに忘れるべきではない」。隣国の光州事件や最近のミャンマーのクーデターなど、平和革命必然論はあやうい。
㉛党の現在の基本方針は、議会を通じた平和革命であり、公安のいうような武器を隠し持っているなどのデマは成り立たない。しかし、戦中の日本のように平和革命の道が閉ざされた時期もあった。党も参加した植民地や被侵略国の人々の武器をもった活動もあった。99年余の党史を戯画化してはいけない。
㉜日本共産党の平和革命方針を、武力やクーデターをしてでも妨害したいというのが、反動勢力の願望だ。もちろん共産党が暴力革命を準備しているというのは、公安の為にするデマである。しかし、共産党が平和革命をしたいという方針だけで、クーデターを防ぐことはできない。あらゆる警戒が必要である。
㉝退陣直前にもかかわらず、近く菅首相が訪米するという。アフガニスタンの前政権を想起するまでもなく、自民党政府が政権維持のため、アメリカに軍事的なコミットを依頼する可能性もある。日本はいまだに、米軍基地を置かれた半従属国の側面があることを忘れてはならない。
㉞八代氏の暴言を軽く見てはいけない。日本の歴史でも、三・一独立運動(1919年)直後の関東大震災での朝鮮人虐殺事件(1923年)がある。反動勢力はいつの時代でも、抵抗する罪もない人々が「暴力革命」を起こすとデマを流し、弾圧するのである。
〈参照〉ウィキペディア「関東大震災朝鮮人虐殺事件」
㉟関東大震災時の内務省の下達内容で「混乱に乗じた朝鮮人が凶悪犯罪、暴動などを画策しているので注意すること」という事実に基づかないデマが流された。これが朝鮮人虐殺の引き金を引いた。矢代氏は自分の暴言を閣議決定で合理化したが、それをまだ訂正していない。
〈参照〉日刊スポーツ「八代英輝氏が共産党に触れた発言で2度目の謝罪『多大なご迷惑おかけした』」
㊱矢代暴言の背後には、あきらかに自民党の極右や公安筋がいる。反動側の以下のサイトを見ても、彼らが矢代暴言を大歓迎し、通じ合っているのがわかる。矢代氏の2度目の「謝罪」などで矛をおさめてはいけない。共産党は99年余の歴史に責任を持ち、攻勢的な反論をすべきだ。
〈参照〉【日本共産党】暴力革命(政府見解・公安庁・警察庁の見方)
㊲共産党は「相手の出方によっては非平和的方針をとるかのような、ねじ曲げた悪宣伝に使われる」といって「敵の出方」論の表現の廃棄を決めた。しかし、相手が暴力的な弾圧やクーデターをしかけて来たときに、正当防衛的な反撃を準備するのは当然だ。香港の例を想起したい。
㊳例えば、自衛隊の一部や在日米軍がクーデターを準備しているとしよう。それを事前に察知し合法的に防げない場合、自衛隊や警察権力を使って、政府がそれを鎮圧する場合もある。流血の事態だ。それは政権交代以前でもありうる。それが、いわゆる「暴力革命」になるからといって否定してはいけない。
㊴最近「日本のいちばん長い日」という映画をテレビで見た。終戦直前の陸軍将校のクーデター未遂事件を描いている。昭和天皇や軍人を美化した描き方には賛成できないが、クーデターを鎮圧することが、いかに綺麗ごとではない流血的なものであるかを示している。
〈参照〉ウィキペディア「日本のいちばん長い日」
㊵第二次世界大戦で、中国の人たちが武器を持って立ち上がったのは、日本帝国が武器を持って侵略戦争を仕掛けたからである。だから、中国共産党の「暴力革命」路線は、当時の日本帝国の出方に対応した、正当防衛的な選択肢の一つであった。平和革命必然論は歴史的に見れば、ナンセンスである。
㊶平和革命必然論への批判は、現代日本では必要がない、という意見が散見される。しかし、自衛隊のいまの体質から考えれば、政権交代前後のクーデター的な動きは当然、考えられる。だからと言って武器を隠し持つなどは単なるバカだが、クーデターを警戒するのは当然である。
㊷日本共産党に言いたい。「ねじ曲げた悪宣伝に使われる」という理由で、正確で歴史的な言葉を廃棄するなら、「革命」とか「階級闘争」とか「共産党」とか誤解を招く言葉も、この際、廃棄したらどうか。「敵の出方」論という表現の廃棄決定は、間違ってもいないものを廃棄する、敵に乗じられる愚挙だ。
戦中、日本の平和革命の道は閉ざされた。「過去は暴力革命を採用」という単純な話ではない。日本帝国政府・軍が内地や植民地、満州国、占領地などで、侵略戦争に抵抗する人々を暴力で弾圧。その「敵の出方」に対応して、正当防衛的な手段として暴力革命(武力革命)がある。中国共産党はその一つ。
日本人も占領地などで中国共産党とともに八路軍で活動した人もいる。その人たちも戦後、日本に帰り、日本共産党員になった。戦前・戦中は、現在の組織方針とは違い、党員は属地主義的だった。内地では、敵の弾圧の口実になる暴力的挑発はやらないが、日本軍占領地では逆に、暴力的抵抗は当然である。
戦前の活動は、まさに敵の出方に対応した活動であり、1945年の日本帝国の敗北という社会変革を勝ち取った。1922年創立の日本共産党の活動は、戦前のこうした活動も含んでいる。戦後の米占領下の一時期、分派が武力革命必然論の方針を取ったが、その後の7・8回党大会でその誤りを是正した。
「敵の出方」論は、敵の暴力・弾圧が先行し、それに対応する正当防衛的な選択肢一つとして、暴力革命(武力蜂起)を位置づけている。反動勢力が平和的統治をしているときに、暴力革命を起こすのは、それ自体、犯罪であり、敵の暴力的弾圧を招く極左冒険主義である。
戦前、占領地で、放火や強奪、強姦など、侵略行為をする日本軍に対し、有効な場合は、武力蜂起もゲリラ活動も共産党はしただろう。植民地・朝鮮でも、暴力的な拉致や食料収奪をする官憲に対して、やむなく暴力で立ち向かった党員もいただろう。時空を超えて暴力革命一般を否定する人間にヘドが出る。
戦前、日本は二院制。衆議院では女性に選挙権はなく、男性の選挙権も長く制限された。貴族院は、貴族出身者で占められ、選挙で選出されなかった。日本人とされた植民地の人々は男女とも選挙権すらなかった。このような時代に活動した日本共産党の活動に「暴力革命」だったのかと問う神経がわからない。
「帝国のぼかさちゃん」様。私は不勉強で、伊田助男氏の業績を知りませんでした。ご教示、ありがとうございます。以下、ウイキペディアの解説を参考にしました。(「帝国のぼかさちゃん」名のツイートで、私の「戦前、占領地で…」で始まる、2つ前のツイートに「伊田助男?」との返信があったのに対して)
〈参照〉ウィキペディア「伊田助男」
「帝国のぼかさちゃん」様の指摘を受けて、ウィキペディアにリンクされている勝部元氏の論文「中国東北(満州)における二つの記念館と三人の日本人烈士」に学ぶ。以下、論文に紹介された伊田助男氏の遺書(日本兵の死体の近くにあった紙切れだったという)を引用する。
〈参照〉勝部元「中国東北(満州)における二つの記念館と三人の日本人烈士」
「親愛なる中国の遊撃隊の同志達へ 私はあなたがたが谷に撒いた宣伝物をみて、あなたがたが共産党の遊撃隊であることを知りました。あなたがたは愛国者であり、国際主義者でもあります。私はあなたがたと会って、ともに共同の敵を打ち倒すことを強く願っておりました。(つづく)」
「(承前)しかし、私はファシストに包囲されており、道はふさがれています。私は自殺することにしました。私の運んで来た10万発の弾薬を、貴軍に贈ります。それは北側の松林の中に隠してあります。どうか、日本のファシスト軍をよくねらって射って下さい。私の身は死んでも、(つづく)」
(承前)革命の精神は滅びません。神聖なる共産主義の事業が一日も早く、成功することを祈ります。 関東軍間島日本輜重(しちょう)隊 日本共産党員 伊田助男
1933年3月30日」。
この伊田さんの遺書を読んで、私は大変、感動した。こういう生き方をした日本共産党員もいたのである。
この伊田助男氏の事件の概要は、勝部元氏の論文に詳しいので、ぜひ、PDFでダウンロードして読んでほしい。ようするに、こうした戦前戦中の日本共産党の活動について、暴力革命を目指していたと単純に非難できるのか、ということである。当時、中国に攻め入って侵略行為をしていたのが日本軍である。
場所は、中国から日本軍が謀略と侵略戦争で奪い取った満州国(日本の傀儡国家)であった。そこを占領支配していた日本軍(関東軍)と中国共産党の軍との戦闘で、中国側に弾薬10万発を、日本兵である伊田さんが自らの命を絶ちながら、贈ったのである。こういうことがまさに敵の出方論の実践である。
この伊田さんの偉業は、戦後の日本共産党は一時期、『日本共産党の60年』(1982年発行)で以下のように紹介した。「中国大陸で戦争にかりたてられていった兵士のなかには、関東軍間島輜重隊に所属していた伊田助男のように、1933年3月、銃弾10万発を積んだトラックを(つづく)」
「(承前)中国遊撃隊におくりとどけ自分は死んでいった日本共産党員もいた。この党員兵士の英雄的行動は、コミンテルン第7回大会において中国共産党の代表から報告され、大きな感動をよんだ」。また『写真記録集・日本共産党の60年』(1983年発行)のP62には、次のように紹介している。
「『輝かしい国際主義の戦士――伊田助男』を掲載した『人民日報』(1965年8月22日) 関東軍間島輜重隊に所属していた日本共産党員伊田助男が、1933年3月、銃弾10万発を積んだトラックを中国遊撃隊に送って死んだことを紹介した記事。この伊田助男の行動は、コミンテルン(つづく)」
「(承前)第7回大会で中国代表から報告され、大きな感動をよんだ」。この写真えときには、中国語の人民日報の記事(李延禄の署名あり)の写真の一部が掲げられている。伊田さんの遺書は日本語だった。勝部元論文中の「伊田助男 李延禄」と題された東北烈士記念館の説明で入手した資料と符合する。
『日本共産党の60年』など、日本共産党側による伊田助男氏の偉業の記述は、発表年月をみると、この勝部元氏の調査がネタ元のようである。日本共産党の歴史記述の仕方は、根拠にした資料や学者の見解が明示されていないことが多く、学術的検討に困る場合が多い。この際、注意しておきたい。
勝部元論文には、伊田助男氏について「彼の具体的な名前は知らなかったがコミンテルン第7回大会で中国代表王明の報告の中に引用され、前々から調べたいと思っていた人物であった」とある。さっそく同7回大会の資料を探してみた。
一つは、村田陽一編訳『コミンテルン資料集』の第6巻(1983年発行)である。資料集には王明の報告はない。しかし、うしろの方にある「注解」(P555)に次のような村田氏の文章がある。「彼(王明)は、日本の対華侵略戦争のなかで、日本の一(いち)共産主義者が示した国際連帯の(つづく)」
「(承前)感動的なエピソードを紹介した。1935年ん6月22日、吉林省東部の安寧で、1日本兵が、6万発にのぼる弾丸、手榴弾、爆弾を満載した軍用トラックを中国抗日遊撃部隊に届けようとして運んできたが、遊撃部隊と会うことができず、日本軍の接近をまえにして、抗日遊撃部隊の(つづく)」
「(承前)同志へのあいさつを述べた遺書を残して自殺した事件があった。死体とトラックは、日本軍の攻撃を撃退した遊撃隊によって発見された。この報告を聞いた大会の代議員は、全員起立してこの日本の同志に敬意を表した」。年月日や場所、弾薬の数など微妙に違うし、伊田助男氏の名前は報告にない。
もう一つ、村田陽一編訳『資料集・コミンテルンと日本』の第3巻(1988年発行)のP96~には、王明の報告の該当部分が詳しく訳出されている。しかし、年月日や場所、弾薬数などは、同氏編訳の『コミンテルン資料集』の「注解」と同じで、やはり、伊田助男氏の名前はない。これをどう考えるか。
『資料集・コミンテルンと日本』第3巻の王明の報告の訳出は全文ではない。同巻の注解によると、勁草書房刊『中国共産党史資料集』第7巻のP527~560に全文が訳出されているという。同7巻は1973年発行。時間があれば調べるが、王明報告に伊田氏の業績があったかどうかまだ判然としない。
いまの段階で言えるのは、1935年の大会での王明の報告は、日本軍憲兵隊などによる伊田助男氏の関係者の捜索・追及が進行中のため、あえて時間と場所を隠したのか、または、同様な事例がほかにあったのか、あるいはその両方であろう。でも、尹田氏の業績が、偉業であったことに変わりはない。
関連して、吉田清治氏の済州島での「慰安婦狩り」の証言の時間と人物名が微妙に違うのではと非難して「信ぴょう性がない」と論断する学者がいる。しかし、近現代の歴史的事実は、現在まで続く脅迫や利害関係から、真実であっても、当事者は隠さざるをえないこともある。考えさせられる問題である。
〈関連ツイート〉薮ちゃん @qoib08EbfZXR4cY から(2021年9月23日)
戦前、戦中の日本共産党の対軍隊工作については、1980年出版、大月書店「資料 日本現代史1」 軍隊内の反戦運動に詳しく書かれている。月報で、秋山良照が延安の日本兵と言う短い文章を寄せている。44年4月迄に13支部の反戦同盟が結成されている。また、それはより広い意味の解放同盟へ改組された。
ご指摘、ありがとうございます。調べて見ます。
〈関連ツイート〉薮ちゃん @qoib08EbfZXR4cY から(2021年9月23日)
伊田助男については記述はありませんです。60年史は確認しました。
そうですか。残念です。お手数をかけました。
このほど、勁草書房刊『中国共産党史資料集』第7巻を国会図書館で調べた。コミンテルン第7回大会での王明報告に伊田助男氏の名前はないが、中国側に武器弾薬を残して自殺した共産主義者の日本兵士の紹介はあった(下記の添付写真)。これが本当は伊田氏のことだったことを、戦後の『人民日報』が明らかにしたのである。
1935年のコミンテルン第7回大会は、各国共産党に反ファッショ統一戦線の方針を採用させる画期となった。中国代表の王明の報告は「中国共産党の抗日統一戦線政策への転換のうえで重要な意味をもつもの」(同資料集P527)だった。侵略戦争をやめさせる上での統一戦線の重要性が確認できる。