☆第2弾・外村大・東大教授への再反論のページ
2019年3月24日~
フリージャーナリスト・今田真人
①外村大・東大教授が私の反論文を受けて、「『吉田清治証言』の再検討・補足」を公表したので、私は以下のような再反論文を公表します。併せて、このページを新設します。
→PDF版は、こちらからダウンロードしてください。
②前回の私の反論文はこちらをリンクして、ご覧ください。
※なお、当初、拙稿には公文書等の写真を掲載していましたが、著作権法上の許諾が煩雑か困難なため、削除しました(PDF版も同様)。原本を照会したい方は、国会図書館など、それぞれの所蔵館に足をお運びください。(2021年5月21日)
◎外村大・東大教授への再反論――学者としての致命的な誤りを深刻に自覚せよ
2019年3月24日、フリージャーナリスト、今田真人
①はじめに
外村大・東大教授は2018年9月7日付で、「『吉田証言』の再検証・補足」なる一文を同氏のホームページに掲載した。
http://www.sumquick.com/tonomura/
これは、拙著『極秘公文書と慰安婦強制連行』(2018年2月、三一書房)についての外村氏の前回の一文「『吉田清治証言』の再検証―史実との相違、語りの背景、失敗の教訓」(2018年4月13日付)に続き、私を名指しで批判するものである。
私は同年7月16日付で「外村大・東大教授の一文について――〝振り上げたこぶしは自分の頭に置いたらどうか″」と題する反論文を私のホームページで発表した。外村氏に対する批判の基本は、この反論文で一応言い尽くしている。
http://masato555.justhpbs.jp/newpage165.html
外村氏の今回の一文は、私が先の反論文で批判した指摘のいくつかをしぶしぶ認めながらも、「今田の批判は、筆者には気が付かなかった点もあり、有り難く受け止めたいが、しかし……結論は変わらない」などと居直るものである。往生際が悪いこと、この上ない。王様が詰んでいるのに負けを認めない、へぼ将棋指しのような人である。学者としての致命的な誤りを深刻に自覚し、反省しなければ、それ以後の主張は、なんら説得力を持たないことを知るべきである。
外村氏には、東京大学という日本を代表する国立大学の教授として、「誠実な反応を期待」(前反論文)したが、この無反省な態度にがっかりしている。初めは、このような一文を書いて恥じない学者に、これ以上関わりたくないと思っていた。ところが、市民団体関係者の要望もあり、意外にも最近、朝日新聞の他に、同氏を無批判に持ち上げるメディアも出てきた(「週刊金曜日」と「しんぶん赤旗」など)。これらのメディアは、彼のこの無反省ぶりを知らないのである。それで、思い直してこの再反論文を書くことにした。私の再反論文を長く期待していた方々には、大変遅くなり、申しわけないと思っている。
②しぶしぶ認めた私の批判点――労務供給業者の兼業禁止免除規定の存在
同氏の今回の一文も前回ほどではないが、難解で長い文章である。読み進めるには相当な忍耐がいる。しかし、私が反論文で指摘した誤りについて、外村氏は、いくつかの点を、しぶしぶ認めてはいる。
なかでも最も重要な誤りとその訂正は、以下の記述である。
「このようななかで、1940年11月15日付で規則の改正があり、労務供給業(付言すれば営利職業紹介事業も)と芸娼妓、酌婦等の周旋業との兼業が警察当局の許可があれば可能となった(筆者は気が付いていなかった。この点は筆者のミスである)」云々(今回の一文のP3。この一文にページ数の記載はないが、便宜上、順にページ数をつけた。以下同じ)。ここにいう「芸娼妓、酌婦等」とは、いわゆる「慰安婦」を指す。
要するに、外村氏は前回の一文で、「労務供給業者は芸妓、娼妓、酌婦の募集や紹介周旋を兼業することはできない」(P7)とか、「『労務供給業者』はむしろ、そうした仕事への関与を法律的に厳に禁じられていた」(同)などと、当時の厚生省の役人の法令解説書を根拠に、高らかに断言していた自説を、「気が付いていなかった」云々という表現で、いとも簡単に訂正したのである。
外村氏は、この自説を根拠に、「吉田清治の証言の真実性を主張する今田真人はまったくの誤解によって議論を進めている」(P7)とか、「史料の読み方が間違っている」(P7)とか、「残念である」(P8)とかいうように、私への「上から目線」の説教を得意げに行った。
これに対して私は反論文で、同じ当時の厚生省の役人が約2年後に書いた法令解説書の改訂版(再訂版)を国会図書館で発見したことを紹介した。そこには、その法令(「労務供給事業規則」)がその後、改訂され、この「兼業」について「地方長官特に支障なしと認めて認可した場合に其の特典を受ける」(P168)と解説されている事実を指摘した。つまり、「労務供給業者」が地方長官(内地の庁府県知事を指す)の認可で、「特典」として、いわゆる「女衒」を「兼業」できるようになったことを示した。
「労務供給業者は……そうした仕事(女衒のような仕事)への関与を法律的に厳に禁じられていた」などという断定が根本から間違いであったことが判明した。外村氏の主張の根拠は、総崩れになったのである。
付け加えれば、この訂正文でもミスをしている。「兼業が警察当局の許可があれば可能となった」は誤りで、「兼業が地方長官の認可があれば可能となった」が正しい。地方長官は、当時は公選ではなく、内務省が事実上任命・派遣した地方の政府出先機関代表であった。その認可は、日本政府の認可と同様に重い意味を持つ。女衒などの営業は当時、担当地域の警察署の個別の許可があれば可能であり、この規則が「改正」される以前から存在していた。
いただけないのは、これに続けて外村氏がまた居直ることである。
それを紹介する。
「問題はこの措置(兼業禁止の免除規定)をどう解釈するか、ということになる。この点、人身売買を行おうとする者がより活動の自由を得た、という解釈がありうるわけであるが、筆者はそうではないと考える」(外村氏の今回の一文のP3)
自分の決定的なミスを勝手な「解釈」によって、180度反対の結論に結び付けようとする。一次資料を明示しない妄想のような考察は、外村氏の文章上の手品である。
いわく「(大日本労務報国会の表向きの『目的』を長々と紹介して)これを見る限り、どう考えても、労務報国会の職掌として慰安婦の募集が含まれると見ることは不可能である」(同上P4)
ついには、「慰安婦とすべき女性を確保したいとする軍が、労務報国会に話を持っていくことはあり得ない」(同上P5)という断定にまで至ってしまう。
このほか、私が反論文で指摘した誤りとその訂正を列挙する。
一つ。
私は反論文P12・13で、労務報国会と「挺身隊」の関係にかかわって、「勤労挺身隊整備要綱」は、外村氏の言うような、1942年10月6日付の厚生省労政課長発の通牒『道府県労務報国会の組織竝に事業等に関する件』(実物はカタカナ・漢字まじり文)に含まれるものではなく、1943年10月9日付の大日本労務報国会理事長発の通牒「勤労挺身隊ノ組織整備ニ関スル件」に含まれるものではないかと指摘した。外村氏が私に対する批判論文で、公文書の元本に当たることなく、安易に自分が属する東大の駒場図書館所蔵のコピー文献を利用しているのではないかと疑い、問いただした重要な指摘である。
これについて、外村氏は今回の一文で、次のように、そっと他人には分からないように誤りを訂正している。
いわく、「労務報国会の組織との関係でもう一つ、(今田が理解していないようなので)説明が必要なこととして、女子挺身隊との関係がある。……今田が注目するのは、『勤労挺身隊整備要綱』を通知した文書である『勤労挺身隊ノ組織整備ニ関スル件』(1943年10月9日付の大日本労務報国会理事長から各都道府県労務報国会長宛通牒)における『追テ既ニ此ノ種ノ隊ヲ組織済ノ地方ハ漸次本通牒ニ依ラルルヤウ致サレ度』という文章である」云々。
この一文だけ見ると、外村氏が誤りを訂正したようには見えない。しかし、前回の一文にあった「1942年10月6日付、厚生省労働局労政課長等から各道府県警察部長等宛『道府県労務報国会の組織竝事業等に関する件』に含まれる『勤労挺身隊整備要綱』……」(P8)云々の記述は、今回の一文で、みごとに削除され、訂正されている。
こんな失礼な訂正が、東大教授なら許されるのか。しかも、訂正なのに、私に対して「今田が理解していないようなので」という、「上から目線」の言葉をもう一度投げつける感覚が理解できない。みずからの誤りの反省がまったくないのである。
もう一つ。
私は反論文P15で、外村氏の前回の一文の次のくだりを、いろいろな当時の文献も例示して、誤りであると批判した。
「団体の名称を朝鮮人女子挺身隊とすること…も、その当時の状況に照らして奇妙である。当時、行政当局や報道機関等は、公的な場において、朝鮮人ではなく、半島人や半島同胞という語を普通用いていた」(外村氏の前回の一文のP23)
これに対して外村氏は、今回の一文で次のように誤りを訂正する。
「筆者が言いたかったのは、『朝鮮人○○隊』という団体の名称はつけられないのではないかということと(全羅南道女子勤労挺身隊、朝鮮農業報国隊、といった団体はあるが、朝鮮人○○隊はないのでは)、日本内地では「半島人」「半島同胞」という用語法が多かったのではないか、という点である(言葉が不足していた点は認める)」(外村氏の今回の一文のP6)云々。
しぶしぶの訂正だが、みずからの誤りを率直に認めるのではなく、「言葉が不足していた点は認める」とは、なんとも意味不明な文章である。
この外村氏の前回の一文は、吉田氏の著作で紹介された「慰安婦」の「動員命令書」の信ぴょう性を問う「分析」の中で書かれたものである。私は外村氏の語彙が少ないなんて批判していない。外村氏の一文が誤りである、と批判したのである。批判を逸らしてはならない。私は、極秘公文書である軍の「動員命令書」の記述に、民族差別も意味する「朝鮮人」という言葉が書かれていたことについて、「当時の状況に照らして奇妙である」という方が、「奇妙」であると批判したのである。
「半島人」「半島同胞」などという言葉は、それは「内鮮一体」と叫び、植民地・朝鮮の差別支配強化をごまかし、なんとか対等な装いで、朝鮮人に日本の侵略戦争への犠牲的な協力をさせようとした、当時の日本政府の対外的な欺瞞的な言葉づかいである。本音を書いた機密公文書で「朝鮮人」云々と書くのは当たり前である。
外村氏は今回の一文で、このようなしぶしぶの訂正を書いたすぐ後に、次のようにとんでもない居直りをまた続ける。
「吉田が実際に慰安婦の動員を命じる文書を実際持っていたかどうか、やはりこの点からも疑問である。細かい部分にこだわるように思えるかもしれないが、なぜこの点を述べるかというと、吉田の著書を読んでいくと、ほかにも当時の法令、部署名などで、それらしい用語ではあるが、当時の行政に通じていた(の=抜け=)であれば使わないであろう言葉が散見されるためである」(外村氏の今回の一文P6)
そして、「吉田清治の著作の史料的価値」に言及し、「事実を語った部分は少ないと考えるほかない。要するに歴史史料として活用できないのである」(P6)と断定してしまう。
もう、これにはついていけない。いくら東大教授の専門家だからといって、戦後世代の1966年生まれの研究者がいう言葉ではないだろう。あたかも戦中戦後を生きた吉田氏より、外村氏の方が「当時の行政に通じて」いるといわんばかりの傲慢さである。外村氏は研究者として必要な謙虚さに欠けているのではないか。
③外村氏の一文への4つの忠告
この外村氏の居直り的な考察に、もう、一つ一つ付き合って批判するつもりはない。
「馬に念仏」、「猫に小判」かもしれないが、ここでは、外村氏の今回の一文で気づいた問題点を4つの忠告としてまとめておきたい。
第一の忠告は、歴史研究とは歴史科学でありたいということである。一次資料に基づかない妄想は、歴史科学とはいえない。むしろ、歴史科学を破壊し、歴史修正主義に陥る危険がある。科学的な研究である以上、たとえ立証上の仮説だとしても、一次資料さえない命題を断定的にのべ、叙述を展開してはいけない。もちろん、私は少なくとも一次資料である加害証言、吉田証言に基づいている。外村氏が基づいている一次資料はまったくない。
第二の忠告は、当時公表されていた国家総動員法などの公文書類をいくら解釈しても、軍事機密であった国家犯罪は、証明されないということである。
朝鮮人「慰安婦」強制連行は軍事機密であり、それを示す公文書は、極秘中の極秘であったはずである。だからこそ、日本敗戦時に徹底的に焼却されたのである。朝鮮人男性の強制連行を示す公文書も軍事機密である場合があった。外村氏も知っているように、軍機機密であった各年度の「労務(国民)動員計画」では、朝鮮人男性の戦時動員は人数が記載されているのに、朝鮮人女性のそれはない。ここにも、朝鮮人女性の戦時動員の対象職種が、男性のような半ば公然とした軍需産業などではなく、機密文書でもなお隠さざるを得ない、特殊な職種が主なものであったことを示唆している。
公文書類を分析して真実に迫ろうというのなら、当時の当局の本音を示す極秘公文書の発見の努力と、それに基づく分析こそ、大切である。
この点に関して、外村氏は今回の一文でも国家総動員法の条文をあれこれと教条的に解釈し、「国家総動員法と慰安婦とは無関係である」(今回の一文のP1、P8)と繰り返す。そんな解釈は、私が拙著で暴露した労務調整令に関する「極秘通牒」の存在だけで、まったく成り立たない。労務調整令は国家総動員法第6条に基づいて出された勅令(天皇が直接決めた法令)である。もう、意味不明の屁理屈はやめてほしい。
第三の忠告は、吉田氏の「妻の日記」問題は、極右勢力の共通した攻撃ポイントであり、それに加担していることを自覚せよ、ということである。
そもそも、この「妻の日記」に動員命令書が書いてあったという吉田氏の証言をとらえて、1993年5月に吉田氏を訪ね、「その部分を公開したらどうか、もしそれができないのなら訂正すべきではないか」と要求をしたのは、吉見義明氏である=同氏編著『「従軍慰安婦をめぐる30のウソと真実」(1997年、大月書店)のP26~=。
この要求は、私から言わせれば、学者らしくない乱暴なものである。加害証言をする当事者に対して、あなたの証言はそれだけでは信用できないから、それを裏付ける証拠として、妻の書いた日記を出せ、というものである。これでは、吉田氏に対する露骨な侮辱になる。こういう要求をすれば、吉田氏は逆に吉見氏を信頼できない学者と思ったのではないか。
裏どりをするのは、学者や記者として当然だが、その材料の提出を証言者に要求するのは、虫が良すぎる。裏どりは、取材者側がやるものである。同時期、吉田氏にインタビュー取材した私は、別の点で裏どりをし、吉田証言を信頼できるものと判断した。
また、「プライバシーに問題がある部分は紙を貼って提示することもできたであろうし……」云々は、ピント外れもはなはだしい。吉田氏は「日記を公開すれば家族に脅迫などが及ぶことになる」(前出の吉見氏編著P26)と言って公開を拒否したのである。脅迫を防ぐという問題は、プライバシーの配慮という問題ではない。日記を公開した後に起こる右翼からの家族への脅迫について、吉見氏が責任を持てるかどうかの問題である。持てるはずもない。
ところで、「妻の日記」の公開要求は、吉見氏が初めてではない。吉見氏の編著でも書かれているように、吉田証言を信頼できないとしている秦郁彦氏の見解を、吉田氏にそのままぶつけたものである。
「(吉田氏の)証言自体の信頼性はどうか。これに疑問をいだいた秦郁彦教授は、済州島にいって調査したが、現地で得られた証言は否定的なものばかりだといっている。そのほか、この証言にたいする多くの疑問がだされているが、吉田さんは反論していない」(前出の吉見氏編著P26)。
驚くのは、吉見氏が秦氏の研究を高く評価していることである。しかも吉田氏が「反論」しなければ、それを認めたことになる、といわんばかりの論法も、いただけない。
秦郁彦氏は雑誌『正論』1992年6月号で、「彼(吉田氏のこと)の申し立てには、本名や経歴をふくめ、他にも不審の点が多い。たとえば――」として次のように指摘している。吉田氏の第一作に1944年2月結婚とあるが、第二作には済州島での「慰安婦狩り」(1943年5月)の計画が「妻の日記」に書いてあったということである。つまり、済州島での「慰安婦狩り」の時点では結婚していないのだから、妻として日記に書けるはずはない、というイチャモンをつけているのである。
これは、秦氏の著作『慰安婦と戦場の性』(1999年、新潮社)のP231に詳しい。吉田氏は「その頃は事実上の結婚と入籍届出がずれるのは常識だった」などと説明したという。吉田氏を「詐話師」と決めつける秦氏は、このまともな説明を受け入れれば、自説の根拠が崩れるので、あくまで納得しないふりをしただけのことである。
それなのに、吉田証言を「証言としては使えない」と判断した吉見氏は、残念ではあるが、極右文筆家の秦氏の悪影響から、免れていないというべきであろう。
付け加えれば、「妻の日記」云々は秦郁彦氏の専売特許ではない。かつて出版されていた極右雑誌『諸君!』で当時、板倉由明氏(同1992年7月号)や上杉千年氏(同1992年8月号)が、同様な「分析」をしている。上杉氏は「『南京大虐殺』は作り話」(反共公安雑誌『ゼンボウ』(1992年4月号)などと主張する極右文筆家である。「妻の日記」云々は、当時の極右勢力が組織的に仕掛けた吉田証言への共通した攻撃ポイントであった。
それから30年近く経って、それに加担する外村氏の態度は、あきれるほかない。
第四の忠告は、今回の一文の最後の方に縷々書かれている、外村氏の「歴史観」のひどさを自覚すべきだということである。
「〝物理的強制があったのだ″と強調することは…は、この問題についてよく知らない市民に〝慰安婦問題でもめている原因は強制性があったかなかったであるらしい″という印象を与えることになろう。これまでも何度も市民運動関係者自身が言ってきたように、物理的暴力の有無は問題でないのであり、そこにこだわって議論する必要はない」(外村氏の今回の一文P7、8)
いったい、「物理的暴力の有無は問題でない」と主張する市民運動家が、どこにいるのか。外村氏のこの記述は、大ウソである。恥を知れと言いたい。
金学順さんはじめ、多くの「慰安婦」被害者は「物理的暴力があった」と証言し、それを支援する韓国や世界各国の市民運動家も、そう主張し続けてきた。日本政府は「慰安婦」を強制連行したという事実を認めよ、そのうえで、「慰安婦」被害者に謝罪し賠償をせよ、これが、市民運動家の基本的主張である。
確かに、一部市民運動家の中には最近、「強制連行は本質ではない」として、「慰安婦」問題は女性に対する性暴力こそが本質だと強調する人はいる。しかし、それは「強制連行」や「物理的暴力」の存在を認めないというものではない。外村氏の解釈は、曲解である。私は「強制連行」も「女性に対する性暴力」の一環であり、両者は対立する概念ではなく、両立するものだと思っている。
さらに外村氏は「法的根拠を持つ行政施策としての日本帝国の動員は、動員対象者に名誉を与え、国家がある種の責任を持つことを保証するものである。…慰安婦の動員が、法的行政施策としては行われなかったことの意味をとらえ、それを可能とした社会構造の理解を深めていくことこそが、慰安婦問題、植民地支配の歴史の本質を把握するカギであると筆者は考える」と言う。
「法的根拠を持つ行政施策」なら、「慰安婦」強制連行は「名誉」になるとか、「国家が責任を持つことを保証するもの」になるとかの主張は、「慰安婦」被害者を冒涜する暴論である。こんな考えを持つ学者が、「慰安婦」強制連行の一次資料などを発見できるはずもない。むしろ、客観的には、こうした歴史研究を妨害する「陣営」にいることを自覚すべきである。
外村氏のこの「歴史観」は、これまで多くの「慰安婦」被害者らが証言してきた強制連行の事実をいっさい無視し、多数の歴史研究者が積み重ねてきた公文書類の発見や研究成果を全面否定するものである。「強制連行された『慰安婦』の存在は、これまでに多くの史料と研究によって実証されてきた」(2015年5月25日、歴史学関係16団体の声明)のである。
とりわけ、「慰安婦の動員が、法的行政施策としては行われなかった」との断言は、見逃せない。外村氏が「強制連行はなかった」と主張する極右勢力、あるいは安倍政権や歴史修正主義者と通底する思想の持ち主であることを図らずも示している。
④新しい極秘公文書の発見――労務供給業者が妓女(慰安婦)を供給
ところで、ここに、労務供給業者が「慰安婦」の供給を扱ったことをずばり示す公文書がある。厚生省職業局業務課長が1942年(昭和17年)2月9日、各道府県学務部長に宛てた「労務調整令関係質疑応答等ノ件」と題する極秘公文書である。
拙著『極秘公文書と慰安婦強制連行』(P17)では、この極秘公文書が、「公娼」を戦時労務動員対象業務としていることを紹介した。
その後、外村氏の一文を受けて、もう一度、この極秘公文書を精査した。その結果、同じ「労務調整令関係質疑応答」で、次のような文章があることを発見したのである。
「労務調整令関係認可方針ニ関スル質疑応答……妓夫、妓女、調理師、菓子職人、印刷工等ヲ労務供給業者ヨリ供給ヲ受ケテ使用スルハ認可セサル方針ナリヤ――答 規則第11条ハ常時供給ヲ受ケテ使用スル場合ノミ制限スルモノナルヲ以テ之等ノ職種ノ供給ニ於テモ臨時ノ場合ハ適用ナシ 之等ノ者ヲ常時供給ヲ受ケテ使用セントスル場合ハ認可セザル方針ナリ」
妓女(ぎじょ)とは「芸妓や遊女」(『岩波国語辞典』)のことである。1938年5月31日当時、中国の芝罘(しふう)に駐在していた領事が外務大臣に宛てた機密公文書「支那渡航婦女ニ関スル件」(拙著『極秘公文書と慰安婦強制連行』P87、171)では、日本軍向けの中国人「慰安婦」のことを「支那妓女」と呼んでいる。つまり、「妓女」とは、当時の官庁用語で「慰安婦」を指していた。
また「(労務調整令施行)規則第11条」とは次のような条文である。
「労務供給事業ヲ行フ者ヨリ常時国民学校修了者及一般青壮年タル従業者ノ供給ヲ受ケ之ヲ使用セントスル者ハ其ノ使用員数ニ付従業者ヲ使用セントスル場所ノ所在地ノ所轄国民指導所長ノ認可ヲ受クベシ」
1942年に、法令で、労務供給業者の仕事として、「臨時ノ場合」との限定付きで、「妓女(慰安婦)」の供給を認めていたことがわかる。労務供給業者は、「慰安婦」の供給もしていたのである。「兼業」とは、まさにこういうことである。
これは、外村氏の妄想的な「解釈」に対する、一次資料による、だめ押し的な反論ともなっている。極秘公文書の説得力はやはり高い。
ちなみに、「妓夫(ぎゅう)」とは「遊女屋の客引き。また、遊女屋で働く男」(『岩波国語辞典』)のことである。いわゆる「慰安所」の「経営者」といわれた男性は、こうした労務供給業者によって軍隊に動員された朝鮮人男性だったのかも知れない。
⑤労務供給事業規則の改定についての戦中の解説書から
前項でのべたように、1942年2月の極秘公文書は、労務調整令が極秘に、労務供給業者の「妓女(「慰安婦」)」動員の方針を打ち出していることを明らかにした。
そして、こうした仕事を担う日本内地の労務供給業者を組織したのが、半官半民を装う警察の別動隊、労務報国会である。いうまでもなく、労務供給業者の活動範囲は、認可を受けた内地の都道府県各所にとどまってはいない。県境を越え、あるいは、内地・外地(当時、植民地などのことを外国と区別してこう呼んでいた)の境を越え、国境も越えて労務者を移動させ、必要な職場に配置するのが、労務供給業者である。
日本の国家総動員・戦時労務動員に果たした労務供給業者や労務報国会の重大な役割は、国会図書館に所蔵される戦時中の当局の解説書が詳しい。
その一つが、1943年6月5日発行の、厚生省勤労局関清・川島順一郎共編『労務供給必携』(藤井書店版)である。
その解説を以下に紹介する。
「昭和15年(1940年)11月其の(労務供給事業規則の)一部を改正して、……従来単に警察署長の取締権限とせられてゐたものを職業紹介所長(当時この名称を用いた)の主管に移し、地方長官の認可に依り兼業禁止の緩和をなし得る規定を新たに追加した」
「第3の(労務供給事業規則の)改正は、昭和16年(1941年)12月8日労務調整令が発布されて、人の雇入及就職に関し強度の統制を加えることとなつたのに鑑み、民間に於ける労務を取扱ふものに対しても、之に従つて統制を強化したのである。その改正された主要点を挙げると次の通りである。
一、常時10人以上の労務者を供給する事業を許可を受ける事業と為していたのを撤廃し、供給人員の多い少いに拘らず許可を要すること。
……
四、国民職業指導所長は、労務調整上必要ありと認むるときは供給業者に対して、その所属労務者の供給先、供給人員其の他供給に必要な事項を指示することが出来ること。
以上各項に亘る重大改正を断行し、労務の重点配置に極力協力せしめることとして今日に至つたのである」
「労務供給事業が、労務配置の重要役割を担ってゐる以上、其の所属労務者に付無統制に放任することは許されない。即ち、国家の労務統制の線に副つて、之に必要な制限を加へられることは当然と云はなければならない。……尚、供給業者の協力なくして労務統制の運営を期せられないことは冒頭にも云つたのであるが、……之に関しては、現に全国各府県に其の結成を見つゝある労務報国会(後述参照)の活発なる活動に俟つ所が大きい。」
「高度国防国家体制の整備、国家生産力の増強は国民勤労の充実発揮を基調とするものなるに鑑み、……厚生省に於ては先般来之等の実情に鑑み、日傭労務者と不可分の関係にある労務供給業者竝に作業請負業者とを打つて一丸とする労務報国会の結成を図り、其の組織の撥剌(はつらつ)たる活動に依つて、国家の基礎労務たるの実を挙げ勤労動員の完璧を期せしめようとし、昭和17年(1942年)9月30日付を以て庁府県長官宛労務報国会設立に関して通牒を発したのである」
こうした「労務供給事業規則」改訂の歴史を概観すると、「国家総動員体制」下の「勤労動員」推進のために、労務供給業者とそれを組織する労務報国会が重大な役割を果たしていたことがわかる。日本軍の最大の〝必需品中の必需品″とされた「慰安婦」の動員は、まさにこうした「勤労動員」を担う労務供給業者の「兼業」として極秘に実施されたのである。
「国家総動員法と慰安婦とは無関係である」(今回の一文P1、P8)と繰り返す外村氏の教条は、まったく根拠がないことが浮き彫りになっている。
⑤むすびにかえて――年表
そもそも、外村氏は前回の一文で、『決戦下の国民運動』(1944年11月、思想国策協会、国会図書館所蔵)の記述を読んで、2014年8月5日付の朝日の「吉田証言」等の訂正記事に寄せたみずからのコメントの誤りを認めた。
その情報誌は次のように書いている。
「大日本労務報国会では現下緊急の問題たる労務確保、戦力増強に留意し今回中央本部機構の改革を断行、理事会で左の如く決定したが、改革のねらいの主なものは……外地労務の移入斡旋を労報が担当することになったので配置部新設…因に総務局には総務、経理両部、厚生局には管理、福利両部、動員局には配置、防衛両部、指導局には指導、編成両部が夫々設置」云々。
ちなみに「外地」とは、当時の日本帝国領土内の朝鮮や台湾などの植民地のことであり、元来の日本領土の「内地」と区別してこう呼んだ。だから、「外地労務の移入」とは、植民地・朝鮮等の労務者の「内地」への連行という意味になる。「移入」というモノ扱いの言葉からして、その連行が強制的なものであったことを示唆している。
そして、以下のように、これまで紹介した法令の制定・改訂などを年表にして概観すれば、次のような重大な意味があることが判明する。
つまり、日本軍がアジア各地への侵略戦争を拡大し、必然的に日本軍の「慰安婦」に対する「需要」が高まっていく時期と、国家総動員法等による「勤労動員」体制の強化の時期が重なっているということである。その両者を結び付けるのが、労務供給事業規則等の改定による、労務供給業者の「女衒」との「兼業」の認可であった。この労務供給業者を組織し、税金を投入する「政府の代行機関」(「労務報国会の組織とその運営」=1944年ごろの発行、大日本労務報国会作成=P14)として設置されたのが、労務報国会なのである。
「政府の代行機関」との位置づけは、「勤労動員」の実行部隊としての労務報国会が、「国」として行動する側面もあったことを示す。年表でも紹介したが、朝鮮職業紹介令などでの労務供給業者の規制について、「本令ハ国ニハ適用ナキ趣旨ナルニ付 為念」「国ノ行フ労務者ノ募集ニ対シ便宜本令ヲ適用セザル趣旨」などの通牒が度々発出されているように、「国」として振る舞えば、労務報国会は「自由」に植民地・朝鮮などでの「勤労動員」が出来たことも示している。
その延長線上に、大日本労務報国会が「外地労務の移入斡旋を労報が担当することになった」と決定したのである。つまり、植民地・朝鮮での「慰安婦狩り」を本部機構として正式に認めたものとして重大な意義がある。
ところで、外村氏の詭弁には「もともと法的にできなかった時期(労務供給業者の女衒との兼業禁止の免除規定以前のこと)には許可されず」云々(今回の一文のP3)というものがある。現実はすべて法令に従って動くという幻想だ。この論法が誤りだということは、内務省警保局の一片の極秘通牒で「慰安婦」向け女性の拉致・連行が行われた1938年の事態を想起するだけで十分であろう。この極秘通牒は法令ではなかった。
しかし、一部論者はこの外村氏の詭弁に影響され、この大日本労務報国会の決定の発令が1944年10月2日であったこと(朝日新聞同年10月3日付1面など)を調べたのか、「この資料から、労務報国会は、1944年9月までは、外地労務の移入斡旋をしていなかったことが分かる」と乱暴に断定する。そして、1943年5月に済州島で「慰安婦狩り」をしたという吉田証言の誤りを逆に証明する資料だと、触れ回っている。あきれるしかない。
法令や組織の方針の決定は、何もない現状から突然、策定されるのではなく、部分的地域的に先取りされていることを追認し、合法化・一般化することも多い。とくに戦中の軍部の独断専行は有名で、後で政府がそれを追認するというのが特徴だったといわれる。この大日本労務報国会の決定もそういうものであろう。植民地・朝鮮に最も近い山口県の労務報国会などは、軍命令による先行的な実績があったと思う方が自然である。
労務供給事業規則の「兼業禁止の免除規定」をめぐる本論の説明でも分かるように、労務報国会の朝鮮人「慰安婦」強制連行は、何かの法令が決定されて突如、本格的に実施されたものではない。当時の侵略戦争の進行過程で、徐々に法令が改訂され、先行する現実を追認していったのである。
外村氏の一文もそうだが、何でそこまで吉田証言を誹謗中傷し、不信をあおり立てたいのだろうか。私は、こういう人たちは、客観的には自分が極右陣営にいるという自覚がないのだと思う。別の言い方をすれば、こういう人たちは、敵を間違えていると言わざるをえない。
吉田証言はどっこい、生きているのである。
なお、前回の私の反論文で少し言及した労務報国会と挺身隊との関係などについては、これも興味深い、いくつかの関連資料を発見したので、追って、別の形で発表するつもりである。
〈労務供給業者に関する法令の制定・改定の年表〉
(重要部分に下線をした。出典は煩雑になるので省略したが、拙著『極秘公文書と慰安婦強制連行』で紹介しているものが多数)
★1937年(昭和12年)8月31日 外務次官通牒「(機密)不良分子ノ渡支取締方ニ関スル件」
「日本内地及各植民地ヨリ支那ニ渡航スル日本人(朝鮮人及台湾籍民ヲ含ム)ニ対シテハ当分ノ間居住地所轄警察署長ニ於テ甲号様式ノ如キ身分証明書ヲ発給スルモノトス」
★1938年(昭和13年)2月23日 内務省警保局長通牒「支那渡航婦女ノ取扱ニ関スル件」
「醜業ヲ目的トスル婦女ノ(中国への)渡航ハ……北支、中支方面ニ向フ者ニ限リ当分ノ間之ヲ黙認スルコトトシ昭和12年8月……外務次官通牒ニ依ル身分証明書ヲ発給スルコト…之ガ募集周旋等ニ従事スル者ニ付テハ厳重ナル調査ヲ行ヒ正規ノ許可又ハ在外公館等ノ発給スル証明書等ヲ有セズ身許ノ確実ナラザル者ニハ之ヲ認メザルコト」
★1938年(昭和13年)3月4日 陸軍省副官通牒「軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件」
「支那事変地ニ於ケル慰安所設置ノ為内地ニ於テ之ガ従業婦等ヲ募集スルニ当リ……将来是等ノ募集等ニ当リテハ派遣軍ニ於テ統制シ之ニ任スル人物ノ選定ヲ周到適切ニシ其実施ニ当リテハ関係地方ノ憲兵及警察当局トノ連携ヲ密(ひそか)ニシ次デ軍ノ威信保持上並ニ社会問題上遺漏ナキ様配慮相成度依命通牒ス」
★1938年(昭和13年)3月31日、国家総動員法公布
★1938年(昭和13年)11月8日施行 内務省警保局長通牒「南支方面渡航婦女ノ取扱ニ関スル件」
「醜業ヲ目的トスル渡航婦女ノ募集ハ営業許可ヲ受ケタル周旋人ヲシテ陰ニ之ヲ為サシメ……」
★1940年(昭和15年)1月11日 朝鮮総督「朝鮮職業紹介令」公布
「第1条 政府ハ労務ノ適正ナル配置を図ル為本令ニ依リ職業紹介事業ヲ管掌ス
……
第5条 労務供給事業ヲ行ハントスル者又ハ労務者ヲ雇用スル為労務者ノ募集ヲ行ハントスル者ニシテ朝鮮総督ノ定ムルモノハ朝鮮総督ノ定ムル所ニ依リ朝鮮総督又ハ道知事ノ許可ヲ受クベシ」
★1940年(昭和15年)1月27日 (朝鮮総督府)内務、警務局長通牒「朝鮮職業紹介令施行ニ関スル件」
「…尚本令ハ国ニハ適用ナキ趣旨ナルニ付 為念
(別記)
……
5 募集従事者ニ付テハ其ノ素行及身許ヲ厳重調査シ不適当ナル者ヲシテ募集ニ従事セシメザルコト就中左ノ各号ノ1ニ該当スル者ハ許可官庁ニ於テ特ニ支障ナシト認メラルル場合ノ外之を従事者タラシメザルコト
……
(2)宿屋、料理屋、飲食店、貸座敷、芸妓屋、遊戯場、芸妓、娼妓、酌婦若ハ之ニ類スルモノノ周旋業、婚姻媒介業、信用告知業、質屋、古物商、金銭貸付業其ノ他之ニ類スル営業ヲ為ス者若ハ其ノ従業者又ハ之ト同居スル者
(3)労務供給事業ヲ行フ者……」
★1940年1月31日、青少年雇入制限令公布
「第4条 女子タル青少年(以下女子青少年ト称ス)ハ左ノ各号ノ1ニ該当スル場合ヲ除ク外厚生大臣ノ指定スル業務(以下指定業務と称ス)ニ使用スル為之ヲ雇入ルルコトヲ得ズ
1.指定業務ニ使用スル女子青少年ノ雇傭数ガ命令ヲ以テ定ムル員数ニ満タザル場合ニ於テ其ノ員数ニ満ツル迄之ヲ雇入ルル場合
2.指定業務ニ使用スル女子青少年ヲ雇傭シ得ベキ総員数ニ付命令ノ定ムル所ニ依リ職業紹介所長ノ認可ヲ受ケタル場合ニ於テ其ノ員数ニ満ツル迄之ヲ雇入ルル場合
3.其ノ他命令ヲ以テ定ムル場合」
★1940年(昭和15年)2月9日 (朝鮮総督府)内務、警務局長通牒「労務者募集許可処分ニ関スル件」
「1月27日付朝鮮職業紹介令施行ニ関スル件依命通牒中労務者ノ募集従事者ノ素行及身許調査ニ付相当時日ヲ要スル向アル処時局産業ノ要員ノ充足特ニ急ヲ要スル折柄ニ付募集主ノ社員其ノ他ノ従業員又ハ募集主タル法人ノ職員ニシテ其ノ身許確実ナルコトヲ認定シ得ル者ハ一応之ガ調査ヲ省略シタル上許可シ爾後ニ於テ調査ヲ遂グルコトトセラレタシ」
★1940年2月15日、厚生省告示第29号、青少年雇入制限令第4条の業務に「藝妓(見習中ノ者ヲ含ム)、酌婦其ノ他之ニ類スル業務」などを指定
★1940年(昭和15年)3月2日 (朝鮮総督府)内務、警務局長通牒「朝鮮職業紹介令ノ適用ニ関スル件」
「主題ノ件ニ関シテハ1月27日附内秘第16号朝鮮職業紹介令施行ニ関スル件ヲ以テ国ニハ之ガ適用ナキ趣旨ヲ依命通牒致シタルガ右ハ国ノ行フ労務者ノ募集ニ対シ便宜本令ヲ適用セザル趣旨ナルニ付過誤ナキヲ期セラレ度尚道ノ行フ労務者ノ募集ニ付テモ右ニ準ジ運用スルコト決定致シタルニ付併セテ御了知相成リタシ」
★1940年(昭和15年)3月12日 朝鮮総督府内務局長通牒「労務資源調査ニ関スル件」
「内地ニ於ケル労務動員計画ノ実施ニ伴フ労働者供出ノ関係モアリ之ガ需給調整ハ刻下喫緊ノ要務タル處在来尋常ノ手段ヲ以テシテハ到底所期ノ政果ヲ期待シ得ザル事態ニ直面スルニ至レリ而シテ今後之等所要労働力ノ大部分ハ農村ノ人的資源ニ需充ノ外ナキ実情ニ在ルヲ以テ速ニ之ガ過剰労力ノ所在及ビ量ヲ究明シ以テ戦時労務対策ノ資ニ供シ度ニ付テハ今年度ヨリ別紙要綱ニ依リ農村ニ於ケル労務資源調査ヲ行フコトヽ相成リタルニ付右御了知ノ上之ガ実施上萬遺憾ナキヲ期セラレタシ
(別紙)労務資源調査要綱
……
同上別紙添付資料の「記入注意」
……
3.労働出稼又ハ労働転業可能者ハ左ノ標準ニ依リ認定スルコト
男子年齢20才以上45才未満ノモノニシテ健康状態普通以上ノモノ
女子年齢12才以上20才未満ノモノニシテ健康状態普通以上ノモノ」
★1940年(昭和15年)3月12日 (朝鮮総督府)内務、警務局長通牒「募集ニ依ル朝鮮人労働者ノ内地移住ニ関スル件」
「内地ニ於ケル労務動員実施計画ニ基ク募集ニ依ル朝鮮人労務者ノ内地移住ニ付テハ……今般朝鮮職業紹介令ノ施行ニ依リ労務調整ノ基礎的法規ノ確立ヲ見タルニ付テハ爾今左記御留意ノ上本件取扱ニ遺憾ナキヲ期セラレタシ
追テ内地以外ノ鮮外ニ対シ集団的ニ朝鮮人労働者ヲ供出スル場合ニ於テモ本件ニ準ジ取計ハレ度尚朝鮮人労働者ノ募集竝ニ渡航取締ニ関シテハ別途警務局長ヨリ通牒セラルル予定ナリ為念
記
一 朝鮮人労働者内地供出ニ付テハ内地庁府県ニ於テ其ノ募集雇人ニ関シ承認済ノモノト雖モ鮮内労務調整上又ハ内地渡航ノ指導取締上ノ見地ヨリ支障アル場合ハ其ノ募集ヲ制限シ又ハ許可セザルコトアルベキコト
……
三 募集ニ依リ内地ニ移住スル朝鮮人労働者ハ産業戦士トシテ時局産業ニ従事スベキモノナルヲ以テ之ガ選定ハ特ニ慎重ヲ期スルノ要アリ従テ単ニ募集ヲ申請者ノ自由ニ委スルコトナク出来得ル限リ官ニ於テ之ニ協力スルコト
……」
★1940年(昭和15年)5月7日 閣議決定、内閣総理大臣指令「(極秘)渡支邦人ノ暫定處理ニ関スル件」
「支那渡航取扱手続
(内容)
1.日本内地及外地ヨリ支那ニ渡航スル日本人(朝鮮人及台湾籍民ヲ含ム)ニ対シテハ当分ノ間居住地所轄警察署長ニ於テ甲号様式ニ依ル身分証明書ヲ発給スルモノトス
渡支邦人暫定處理ノ件」打合事項
第1. 内務省提案
……
(2)在支接客業者ノ婦女募集ニ当リ現地軍部隊長ヨリ証明書ヲ受ケタルモノト領事ヨリ受ケタルモノトアリ判断ニ迷フ場合アリ、現地ニテ御連絡願度
……
第2. 台湾外事部提案
軍慰安従業婦カ開館シ居ラサル領事館管轄区域ニ渡支セシメントスル場合ニハ軍ノ証明書ヲ最寄領事館ニ提出シ右領事館ノ警察署ヨリ渡支事由証明書ヲ発給スルコト(台湾ニ回答スミ)」
★1940年(昭和15年)6月1日 内務省警保局長通牒「渡支邦人暫定處理ニ関スル件」
「……在支接客営業者(えんぴつで書き込み→「周旋業者ノ内地ニ於ケル周旋ハ認メス」)ニ於テ在支帝国領事発給ノ身分証明書ヲ所持皈国(きこく)シ婦女(藝妓、酌婦、女給等)ノ雇入ヲナス場合ニ於テ該証明書ニ雇入人員数ヲ明記シアルトキハ被傭者各個人ニ対シ在支帝国領事館警察署ノ証印ヲ押捺シタル文書(以下渡支事由証明書ト称ス)ヲ取付ケシムル要ナシ但シ所轄警察署長ノ身分証明書ハ各人毎ニ発給スルコト……」
★1940年(昭和15年)8月30日発 漢口総領事の外務大臣あて暗号電報
「……軍トシテハ現地ノ状況ニ鑑ミ作戦上同地方ニ邦人ノ復帰進出ハ好マサル處ナルニ依リ軍ニ於テ必要ヲ認メ特ニ許可シタル者以外ハ当分ノ間事情ノ如何ヲ問ハス容認セサル方針ナリ尚同地ニハ目下時計修繕商3、写真業6、特殊慰安所関係者約40居住シ居ルモ右ハ現地軍憲ニ於テ必要ヲ認メ許可シタルモノニシテ是等ハ日常生活必需品ノ補給ニモ困リ大部分軍ノ世話ヲ受ケ居ル状態ナルカ故ニ外務官憲ノ進出モ時機尚早ナルヘシトノ意見ナリ……」
★1940年(昭和15年)11月15日、厚生省令第48号で改正された「営利職業紹介事業規則」
「第3条 (営利)紹介業者…ハ…芸妓娼妓酌婦若ハ之ニ類スルモノノ周旋業、労務供給事業…ヲ為シ若ハ其ノ営業者ノ従業者トナリ又ハ労務者ノ募集従業者トナルコトヲ得ズ但シ地方長官支障ナシト認メテ認可シタルモノハ此ノ限ニ在ラズ」
★1940年(昭和15年)11月15日、厚生省令第49号で改正された「労務供給事業規則」
「第6条 供給業者及其ノ同居ノ戸主、家族ハ宿屋、料理店、飲食店、貸座敷、待合、芸妓娼妓酌婦若ハ之ニ類スルモノノ周旋業、質屋、古物商、金銭貸付業其ノ他之ニ類スル営業ヲ為シ又ハ其ノ営業ノ従業者トナルコトヲ得ズ但シ地方長官支障ナシト認メテ認可シタルモノハ此ノ限ニ在ラズ」
★1941年(昭和16年)12月8日、労務調整令公布
「第1条 国家ニ緊要ナル事業ニ必要ナル労務ヲ確保スル為ニスル国家総動員法(……)第6条ノ規定ニ基ク従業者ノ雇入、使用、解雇、就職及退職ノ制限ハ別ニ定ムルモノヲ除クノ外本令ノ定ムル所ニ依ル
……
第7条 年齢14年以上40年未満ノ男子又ハ年齢14年以上25年未満ノ女子ニシテ技能者及国民学校修了者タラザルモノ(以下一般青壮年ト称ス)ノ雇入及就職ハ左ノ各号ノ1ニ該当スル場合ヲ除クノ外之ヲ為スコトヲ得ズ
……
3.命令ノ定ムル所ニ依リ特定ノ一般青壮年ノ雇入及就職ニ付国民職業指導所長ノ認可ヲ受ケタル場合
……」
★1941年(昭和16年)12月16日、厚生次官依命通牒「労務調整令施行ニ関スル件」
「……
令第7条第3号ノ認可方針
……
第3章 令7条第2号ニ掲グル者以外ノ者ニ対スル認可方針
1.左ニ掲グル方針ニ依ル但シ雇入レントスル特定人ガ身体又ハ家庭ノ状況上第1種又ハ第2種事業ニ従事セシムルヲ適当トスルモノハ極力之ヲ抑制シナルベク不適当ナル者ヲ雇ハシムル様指導ス
[業態] ―― [認可標準]
……
(3)芸妓 ―― 本令施行ノ際現ニ14年未満ノ仕込中ノモノノ14年トナリタル場合ノミ認可ス
(4)酌婦、女給 ―― ○ノ要求ニ依リ慰安所的必要アル場合ニ厚生省ニ稟伺(りんし)シテ承認ヲ受ケタル場合ノ当該業務ヘノ雇入ノミ認可ス
……」
★1942年(昭和17年)1月10日、台湾総督府外事部長の外務大臣宛て電報「南洋方面占領地ニ於ケル慰安所開設ニ関スル件」
「南洋方面占領地ニ於テ軍側ノ要求ニ依リ慰安所開設ノ為渡航セントスル者(従業者ヲ含ム)ノ取扱振リニ関シ何分ノ御指示相煩度シ」
★1942年(昭和17年)1月14日、外務大臣の台湾総督府外事部長宛て電報「南方方面占領地ニ対シ慰安婦渡航ノ件」
「此ノ種渡航者ニ対シテハ、軍ノ証明書ニ依リ渡航セシメラレ度シ」
★1942年(昭和17年)2月9日、厚生省職業局業務課長通牒「労務調整令関係質疑応答等ノ件」
「……
労務調整令関係認可方針ニ関スル質疑応答ハ外部ニ発表ゼザル様致度為念(ねんのため)
……
内務省ノ公娼廃止方針ニ基キ公娼ヲ廃止シ従来ノ貸座敷ニ於ケル娼妓ヲ指定料理店酌婦ニ改メタルモノハ実質上何ラ公娼ト異ナル点ナキヲ以テ其ノ雇入ハ本令ノ適用外トシテ差支(さしつかえ)ナキヤ」
答 本令のノ適用ヲ受クルモノトス
……
妓夫、妓女、調理師、菓子職人、印刷工等ヲ労務供給業者ヨリ供給ヲ受ケテ使用スルハ認可セサル方針ナリヤ
答 規則第11条ハ常時供給ヲ受ケテ使用スル場合ノミ制限スルモノナルヲ以テ之等ノ職種ノ供給ニ於テモ臨時ノ場合ハ適用ナシ 之等ノ者ヲ常時供給ヲ受ケテ使用セントスル場合ハ認可セザル方針ナリ
……」
★1942年2月13日、「朝鮮人労務者活用ニ関スル方策」を閣議決定。
「……本方策ニ依ルノ外労務者ノ内地渡航ニ付朝鮮総督府ニ於テハ内地関係官庁ニ認可ノ有無ヲ確ムル等労務ニ関スル統制法令運用ノ方針ニ即応スル如ク必要ナル措置ヲ講ズルモノトス」
★1942年3月12日、台湾軍司令官が陸軍大臣に電報
「陸軍第63号ニ関シ『ボルネオ』行キ慰安土人50名為シ得ル限リ派遣方南方総軍ヨリ要求セルヲ以テ陸密電第623号ニ基キ憲兵調査選定セル左記経営者3名渡航認可アリ度申請ス
左記――愛媛県越智郡波方村1236台北州基隆市日新町2ノ6村瀬近市42歳、朝鮮全羅南道済州島輸林面挾才里10台北州基隆市義重町4ノ15豊川晃吉35歳、高知県長岡郡介良村370高雄州潮州街267浜田ウノ51歳」
★1942年(昭和17年)9月30日、厚生省労働局長・厚生省職業局長通牒「道府県労務報国会ノ組織竝ニ事業等ニ関スル件」
「……労務供給業者ノ団体ノ結成促進ニ関シ客年(1941年)12月29日発職第896号労務供給事業規則中一部改正ニ関スル件通牒ヲ以テ指示致置候処……付テハ従来ノ労務供給業者ノ団体タル労務供給業連合会又ハ労務報国会等ハ発展的解消ヲ為サシムル様御取計度……」
★1943年(昭和18年)1月25日、山口県労務報国会設立
★1943年(昭和18年)5月15日、西部軍司令部が、西部軍管区の各県の労務報国会へ朝鮮半島南部の各道を割り当て、総数2000人の「慰安婦」を動員するように命令を出す。うち200人を済州島で動員するよう、山口県労務報国会会長(県知事兼任)あての命令書が交付された。これに、同下関支部動員部長の吉田氏が陪席させられた。=(吉田証言)=
★1943年(昭和18年)5月18日 厚生省勤労局長通牒「道府県労務報国会ノ労務配置ニ対スル協力方指導指針ニ関する件」
「……国民動員実施計画ニ即応シ、国家労務配置機関ノ行フ労務配置ニ協力セシムルモノトナルコト……」
★1943年(昭和18年)6月2日、大日本労務報国会が創立宣言
★1943年(昭和18年)10月9日、厚生省が大日本労務報国会理事長名の通牒「勤労挺身隊ノ組織整備ニ関スル件」
「……既ニ此ノ種ノ隊ヲ組織済ノ地方ハ漸次本通牒ニ拠ラルルヤウ致サレ度……勤労挺身隊員ハ…軍ノ緊急要員、…等非常ノ場合ニ於テ緊急出動スルモノトス」
★1944年(昭和19年)2月8日 朝鮮総督府警務局長など3局長通牒「日傭労務者ノ統制ニ関スル件」
「…全鮮主要ナル都市ニ左記ニ依リ労務報公会ヲ設立スルコトトス」
★1944年(昭和19年)4月3日、山口県知事が陸軍部隊の「要請」(山口県知事の動員命令書の記述)に基づき、山口県労務報国会下関支部長に、「皇軍慰問・朝鮮人女子挺身隊」の名で、在日朝鮮人慰安婦100人の「労務動員」(同)命令を出す=(吉田証言)=
★1944年(昭和19年)5月19日 朝鮮総督「朝鮮総督府部内臨時職員設置制中改正ノ件」の説明資料
「……
生産増強労務強化対策
……
(8)女子遊休労力ノ積極的活用ヲ図ル為左ニ依リ措置スルコト
……労務調整令ヲ改正シ接客業、娯楽業等ニ於ケル女子青少年(概ネ年齢12年以上25年未満ノ者)ノ使用制限ヲ実施スルコト尚此ノ場合労務調整令ノ適用ヲ受ケザル女子青少年ニシテ警察取締ヲ受クル者ニ付テハ本件ニ準ジ之ガ取締ヲ強化スルコト
……
第6.経済統制ニ伴フ警察事務ニ従事スル者ノ増員説明
……
翻テ鮮内ニ於ケル労務事情ヲ観ルニ……加速度的ニ労務ノ量的逼迫ヲ来タスト共ニ一面半島ニ於ケル民衆ハ民度低キ為ニ戦時下ニ於ケル労務ノ重要性ニ対スル認識猶浅ク勤労報国隊ノ出動ヲモ斉シク徴用ナリト為シ一般労務募集ニ対シテモ忌避逃走シ或ハ不正暴行ノ挙ニ出ズルモノアルノミナラズ未婚女子ノ徴用ハ必至ニシテ中ニハ此等ヲ慰安婦トナスガゴトキ荒唐無稽ナル流言巷間ニ伝ハリ此等悪質ナル流言ト相俟ツテ労務事情ハ今後益々困難ニ赴クモノト豫想セラル……」
★1944年(昭和19年)7月31日 内務省管理局長宛の同省嘱託・小暮泰用氏の復命書
「……動員ノ実情
徴用ハ別トシテ其ノ他如何ナル方式ニ依ルモ出動ハ全ク拉致同様ナ状態デアル
其レハ若シ事前ニ於テ之ヲ知ラセバ皆逃亡スルカラデアル、ソコデ夜襲、誘出、其ノ他各種ノ方策ヲ講ジテ人質的掠奪拉致ノ事例ガ多クナルノデアル、何故ニ事前ニ知ラセバ彼等ハ逃亡スルカ、要スルニソコニハ彼等ヲ精神的ニ惹付ケル何物モナカツタコトカラ生ズルモノト思ワレル、内鮮ヲ通ジテ労務管理ノ拙悪極マルコトハ往々ニシテ彼等ノ心身ヲ破壊スルコトノミナラズ残留家族ノ生活困窮乃至破滅ガ屢々(しばしば)アツタカラデアル
……更ニ最近ニ至リ非職業的労務、即チ徴用、学徒、女子挺身隊ノ如キモノガ混入サレ朝鮮ニ於ケル勤労管理ハ其ノ困難性ヲ益々加加重シテ来タ感ガスル……」
★1944年(昭和19年)10月5日 次官会議決定「労務統制ニ伴フ取締機構ノ整備強化ニ関スル件」
「……労務統制ニ関スル事務ト之ニ伴フ警察事務トノ緊密ナル一体化ヲ図ル為厚生省及軍需省ノ労務統制ニ関スル事務ニ従事スル職員ト内務省警保局ノ労務統制ニ伴フ警察ニ関スル事務ニ従事スル職員トヲ相互兼任セシム」
★1944年(昭和19年)11月(情報誌に掲載)、大日本労務報国会の理事会決定
「(……大日本労務報国会では現下緊急の問題たる労働確保、戦力増強に留意し今回中央本部機構の改革を断行、理事会で左の如く決定したが、改革のねらいの主なるものは
……
一.外地労務の移入斡旋を労報が担当することになったので配置部新設」
(以上)