☆外村大・東大教授への反論のページ
2018年7月16日~、今田真人
①拙稿「外村大・東大教授の一文について――〝振り上げたこぶしは自分の頭に置いたらどうか″」をアップしました。以下に拙稿を掲載しています。
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②satophoneさんが、みずからのサイト「旧満州への朝鮮人『慰安婦』連行資料集」で、今田と外村大氏との論争や拙著について、論評していただいています。
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③拙稿「外村大・東大教授への再反論――学者としての致命的な誤りを深刻に自覚せよ」を私のHPの別のページにアップしました。
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※なお、当初、拙稿には公文書等の写真を掲載していましたが、著作権法上の許諾が煩雑か困難なため、削除しました(PDF版も同様)。原本を照会したい方は、国会図書館など、それぞれの所蔵館に足をお運びください。(2021年5月21日)
◎外村大・東大教授の一文について――〝振り上げたこぶしは自分の頭に置いたらどうか″
2018年7月16日、フリージャーナリスト、今田真人
①はじめに
外村大・東京大教授が自らのホームページ「外村大研究室」に、研究ノートとして「『吉田清治証言』の再検証――史実との相違、語りの背景、失敗の教訓」(2018年4月13日付)と題する一文を公表している。
http://www.sumquick.com/tonomura/
A4の用紙に30頁という長大な論文だが、拙著『極秘公文書と慰安婦強制連行』(2018年2月15日、三一書房)や拙著『吉田証言は生きている』(2015年4月10日、共栄書房)など、今田(私)の著作がしばしば引用され、多くの箇所において、名指しで今田の見解に批判が加えられている。そのため、できるだけ簡潔に問題点や反論すべき点を述べていきたい。
②朝日の研究者取材の「核心部分」は外村氏のコメントだけ
日本の植民地だった朝鮮の済州島などで戦争中、「慰安婦」にするため女性を暴力を使って連れ出したと著書や集会で証言した、いわゆる「吉田証言」について、朝日新聞は、2014年8月5日付の特集紙面で「虚偽だと判断し、記事を取り消します」という検証記事を掲載した。その検証記事は、「虚偽と判断」した根拠として「済州島を再取材しましたが、証言を裏付ける話は得られませんでした。研究者への取材でも証言の核心部分についての矛盾がいくつも明らかになりました」と書いた。
その「研究者」とは、外村大・東京大准教授(当時)と河原典史・立命館大教授、永井和・京都大教授、姜貞淑・韓国挺身隊研究所元研究員の4人である。あと文献からの引用として秦郁彦氏と吉見義明・中央大教授の2人を挙げ、翌6日付で、2人の検証記事への感想的コメントを載せている。
しかし、「研究者への取材」で、吉田証言の核心部分について言及しているのは、外村大氏だけである。河原氏の指摘は、吉田氏らが済州島で「慰安婦狩り」をした際、その場所の一つの工場の屋根について、吉田氏が著作で「かやぶき」だと書いているが、当時の様子を記録した「映像資料」では「トタンぶきとかわらぶきだった」という内容である。屋根が「かやぶき」だったかどうかが「核心部分」でないことは明らかであろう。その「映像資料」なるものも、朝日新聞や河原氏がその後、公表したという事実は、今田は寡聞にして知らない。
永井氏の指摘も、吉田氏が著書で「慰安婦狩り」をした済州島は1943年5月当時、「事実上の軍政を敷いていた」(『私の戦争犯罪』P103)と書いていることに対して、旧陸軍の資料から、済州島に陸軍の大部隊が集結するのは45年4月以降だと指摘。「記述内容は事実とは考えられない」と言ったという内容である。吉田氏の「慰安婦狩り」に協力した陸軍兵士は10人である。こんな少数の兵士の協力を得るのに、済州島に陸軍の大部隊が集結していたかどうか、軍政が事実上敷かれていたかどうかなどを議論する必要はなかろう。吉田氏も著書で、〝済州島に陸軍の大部隊が集結していたから、あるいは、軍政が敷かれていたから兵士の協力が得られた“とは書いていない。ほとんど、言い掛かりの類である。
姜貞淑氏の指摘は「(済州島の)数カ所でそれぞれ数人の老人から話を聞いたが、記述にあるような証言は出なかった」という内容である。これは、秦郁彦氏や朝日新聞の済州島現地調査と同じ種類の話で、「慰安婦狩り」の目撃証言などが当時の済州島住民から一人でも出れば、意味のない指摘になる。「目撃証言などを見つけられない=吉田証言は虚偽である」という論法は、まともなジャーナリズムでは通用しない。実際に今田は、そうした目撃証言を得ている(共著『「慰安婦」問題の現在』〈2016年4月19日、三一書房〉所収の拙稿「『吉田証言』は本当だった――公文書の発見と目撃証人の登場」)。その他にも、いくつもの済州島での目撃・被害証言をこの間、さまざまな研究者が発見している。過去にも、不十分ながら済州島で「慰安婦狩り」があったとする目撃証言を取材したテレビ朝日の現地調査も存在する。調べる気があれば、証言は見つかるのである。
吉見氏の指摘は、吉田氏と面会した際、吉田氏が「回想には=朝日の検証記事はカッコ書きで「強制連行した」と改変している=日時や場所を変えた場合もある」と言ったとか、「(吉田氏が著書で言及した軍の)動員命令書を写した(妻の)日記の提示も拒んだ」とし、「証言としては使えないと確認するしかなかった」という内容だ。こうした理由で証言として使えないと考えるのは、それぞれの研究者の勝手かも知れないが、その考えを普遍的なものとして他の研究者に押し付けてはならない。
「日時や場所を変えた」ことや、「妻の日記の提示を拒んだ」ことについて、今田はそれぞれ正当な理由があると判断しているので、一次資料としての加害証言として十分信頼できると考えている。
吉見氏の著書『「従軍慰安婦」をめぐる30のウソと真実』(1997年6月24日、大月書店)の該当箇所(P26・27)には、「妻の日記の提示を拒んだ」理由として吉田氏は「日記を公開すれば家族に脅迫などが及ぶことになるので、できない」と述べている。「回想には日時や場所を変えた場合もある」の理由について、吉見氏の先の著作では明らかでないが、この面会に同席した研究者の上杉聡氏が明らかにしている。
上杉氏の論文「拉致事件としての『慰安婦』問題」(『季刊・戦争責任研究』2014年冬季号所収)は、当時の吉田氏への面会での問答の録音の起こしを公開している。そこでは、吉田氏が著作で「(労務報国会の関係者を)推定できる書き方はできない」理由について、戦後の朝鮮人側からの報復の恐れなどを心配していたことを具体的に述べている。
今田が1993年10月当時おこなった吉田氏へのインタビューでは、「本の中に書いてある年月日は事実か」との質問に、吉田氏は「だいたい、当時、書くときに相当部下と相談して書いているから、間違いないです」と述べている。さらに今田の「フィクションのところはどこか」との質問に、吉田氏は「宇部の労務報国会というのが宇部でないかもしれんし、…そういうのをつけると、わからんようになるから。私以外の(加害者側の)登場人物をフィクションにしているわけです。…被害者の、自分が連行された、その日時、場所なんかは、被害者側からみたら全部、事実だ。加害者側としてごまかしているが、連行された被害者側からみたら全部、どこもウソはない」とも述べている。(拙著『吉田証言は生きている』〈2015年4月10日、共栄書房〉P84・85)
これらの「日時や場所を変えた」ことや「妻の日記の提示を拒んだ」ことについての吉田氏の理由説明は、実に当然で説得力があると思う。少なくとも吉見氏の指摘は「証言の核心部分についての矛盾」ではないだろう。
その中で、唯一、吉田証言の核心部分について、異議を唱えたのが外村大氏であった。外村氏は朝日新聞の検証記事の中で「吉田氏が所属していたという労務報国会は厚生省と内務省の指示で作られた組織だ」とし、「(労務報国会について)指揮系統からして軍が動員命令を出すことも、職員が直接朝鮮に出向くことも考えづらい」とコメントした。
朝日新聞の検証記事で「証言の核心部分についての矛盾」らしきものに唯一言及した外村氏が、みずからのコメントについて、約4年間経過してやっと訂正めいた一文を書いたのである。
③外村氏が自身のコメントの誤り認める
外村氏は今回の一文で次のように言う。
「一方で『吉田清治証言』が虚偽ではないという見解も発表されている。生前の吉田清治にインタビューを行った経験を持つジャーナリストの今田真人による論著がそれである。…そして、今田真人は、吉田清治の証言の信憑性を否定した朝日新聞の検証記事の根拠は薄弱であり、その後も、歴史研究者による検証が発表されていないことを批判している。…今田真人が批判しているように、これまで吉田証言のどこがどのように信頼できないかについての、歴史学者による綿密な検討、見解の提示はなされてこなかった。これは確かに問題であり、歴史研究者は見解を表明する必要がある。そして、これは筆者にとっては義務かも知れない。というのは、筆者は、前述の朝日新聞による吉田証言に関する検証記事と無関係ではないためである。すなわち、この検証記事を担当した記者の取材に応じており、筆者の見解は『戦時中の朝鮮半島の動員に詳しい外村大・東京大准教授は、吉田氏が所属していたという労務報国会は厚生省と内務省の指示で作られた組織だとし、「指揮系統からして軍が動員命令を出すことも、職員が直接朝鮮に出向くことも考えづらい」と話す』という記事中の一文になっている。しかし、この一文では、吉田清治の証言がなぜ、どのように信頼できないかの十分な説明になっていない」(P2)
また、別の頁では、次のように、自らのコメントの誤りを率直に認めている。
「では、労務報国会は、朝鮮半島からの労働者の動員を何か担当していたのであろうか。この点について、筆者は、無関係であると考えていた。しかし、今田真人は、思想国策協会『決戦下の国民運動』1944に、『〔大日本労務報国会の理事会において〕外地労務の移入斡旋を労報〔労務報国会〕が担当することになった』との記述があることを発見した(今田真人『極秘公文書と慰安婦強制連行 外交史料館等からの発見資料』三一書房、2018年、36頁)。筆者も実際にそれを閲覧し、その記述があることを確認している。労務報国会が朝鮮半島からの労働者の動員に関りを持っていたことはこの記述から確実であり、これまでの筆者の認識は誤りであった。2014年8月5日の朝日新聞での筆者のコメントで、労務報国会の職員が朝鮮に赴くことはないとした点も間違いである」(P5・6)
また、「指揮系統からして軍が動員命令を出すことも…考えづらい」とした外村氏のコメントについては、外村氏は別の箇所で次のように言う。
「もちろん、労務報国会勤労挺身隊は、軍の要請を受けての出動を行うこともある(軍の命令ではなく、あくまで軍の要請であり、出動を命じるのは道府県労務報国会会長である)」(P8)
しかし、この外村氏の一文は、拙著『極秘公文書と慰安婦強制連行』P29での今田の指摘を踏まえていない。軍→県知事の指揮系統は、内務省警保局関連文書に、当時(1943年3月)、事実上横行していたことを示す記述があることを指摘している。拙著P28には、労務報国会勤労挺身隊は「地方長官(県知事)ノ要請」で県労務報国会が「出動指令」を出すとする公文書を引用している。県知事は県労務報国会の会長も兼任していた。(1942年9月30日、厚生省発の通牒「道府県労務報国会ノ組織竝ニ事業等ニ関スル件」)
「指揮系統からして軍が動員命令を出す」ことは事実であり、その公文書上の用語が「軍の要請」であろうが、「出動を命じるのは道府県労務報国会会長」であろうが、労務報国会に対する軍の動員の指揮系統があったことは、間違いないではないか。吉田氏も著作『私の戦争犯罪』(P100)の中で「山口県警察部労政課へ、西武軍の司令部付きの中尉が来て、山口県労務報国会会長(県知事兼任)あての労務動員命令書の交付が行われた。労政課長は労務報国会の事務局長を兼務していて、労務報国会下関支部動員部長の私を陪席させた。軍命令の受領に陪席させられることは、その動員命令の実行を命ぜられることであった」と書いている。
吉田氏は著書で、軍の命令が労政課に伝えられる際に、労務報国会下関支部動員部長が陪席するという、実態を書いたのである。それが官庁用語の「軍の要請」であったとしても、指揮系統の実態は変わらない。この問題でも、外村氏は自身のコメントの誤りを婉曲に認めていることになる。
本当は、外村氏の〝自己批判“は以上で十分である。外村氏のコメントは、朝日新聞の検証記事で「(吉田)証言の核心部分についての矛盾」を明らかにしたと評価されたが、それが「間違いである」と、明確に認めたのである。
外村氏の一文を受けて、朝日新聞がまず第一になすべきことは、あの検証記事を撤回することである。まともな新聞社であれば、だが。
④外村氏の居直り的な今田への批判について――「労務供給業者」の解釈
そして、〝自己批判″をした外村氏がなすべきことは、朝日新聞紙上のみずからのコメントの誤りを同新聞社に伝え、コメントの撤回措置を実現することである。それが誠実な研究者が最初になすべきことである。
ところが、外村氏は何を思ったのか、外村氏の誤りを指摘した今田に対して、その一文の頁のかなりのスペースを使って、〝今田の著書にもいくつも誤りがあるぞ“というような、居直り批判を展開している。その批判は、歴史修正主義者の秦郁彦氏らの主張にウリ二つのものも多い。
ここで主に反論するのは、男性の朝鮮人強制連行の専門家と自負する外村氏にしかできない今田への批判である。
まず、外村氏の一文のP7・8に次のような文章がある。
「4、労務報国会と慰安婦の動員との関係――次に労務報国会の組織や事業と慰安婦の関係を述べておく。そのためには、慰安婦という存在が戦時下に日本政府が行った法制度のもとでの動員、労働力統制のなかでどのように位置づけられていたかから述べる必要がある。まず確認すべき点として、各種動員の根本法である国家総動員法と慰安婦はなんらの関係もないことがある」
これは、拙著『極秘公文書と慰安婦強制連行』で今田が重大な発見として紹介している2つの公文書、「極秘通牒」(1941年12月16日、厚生次官→各地方長官「労務調整令施行ニ関スル件依命通牒」)と「生産増強労務強化対策」(1944年5月19日、朝鮮総督→内務大臣「朝鮮総督府部内臨時職員設置制中改正ノ件」)の存在を無視するという、学者らしからぬ論法である。
外村氏は、上記の独断をした理由として「国家総動員法では…総動員業務が何であるかは同法第3条に列挙されているが、そこには『兵士の慰安』やその類の業務は記されていない」など、延々と国家総動員法の条文解説をする。
しかし、今田が拙著で紹介した「極秘通牒」には、国家総動員法第6条に基づき制定された労務調整令(勅令)の「第7条第3号ノ認可方針」として「酌婦、女給」という業態を示し、その「認可標準」として「○(軍のこと)ノ要求ニ依リ慰安所的必要アル場合ニ厚生省ニ稟伺(りんし)シテ承認ヲ受ケタル場合ノ当該業務ヘノ雇入ノミ認可ス」と明記されている。「慰安所」の「酌婦、女給」とは「慰安婦」のことである。「極秘通牒」は、国家総動員法と「慰安婦」が関係していることを明確にしたのである。
また、同じく今田が拙著で紹介した「生産増強労務強化対策」は1943年10月に朝鮮総督府が制定した方針であるが、その中に「労務調整令ヲ改正シ接客業、娯楽業等ニ於ケル女子青少年(概ネ12年以上25年未満ノ者)ノ使用制限ヲ実施スルコト尚(なお)此ノ場合労務調整令ノ適用ヲ受ケザル女子青少年ニシテ警察取締ヲ受クル者ニ付テハ本件ニ準ジ之ガ取締ヲ強化スルコト」と明記されている。
「接客業」における「女子青少年」の使用とは、「慰安婦」の使用を暗に示す官庁用語である。12歳から25歳未満の未成年を含む朝鮮人女性を、労務調整令と警察取締の2つの方法で、「慰安婦」にしていたことを認めている。しかも、その後、「使用制限」を実施したという労務調整令の「改正」は、いまのところ確認されていない。この朝鮮総督府の方針は、労務調整令が朝鮮人女性を当時、「慰安所」の「酌婦、女給」にしていたことを明らかにしている。
外村氏の一文は、独断というほかはない。
この文章に続き、外村氏は当時の職業紹介法や朝鮮職業紹介令の解説を始め、これらの法令は「慰安婦」の募集・紹介周旋とは無関係であると強調する。
そして今田への名指しの批判である。
「この点について、吉田清治の証言の真実性を主張する今田真人は、まったくの誤解によって議論を進めている。今田は『「労務供給業者」とは戦前、若い女性を遊郭などに売り飛ばしたことで有名な「女衒」や「手配師」、「周旋業者」なども指す』と記しているのである。だが、法的用語としての『労務供給業者』は、売春を強いるために女性を集める『女衒』や『手配師』、『周旋業者』ではない。前述のように『労務供給業者』はむしろ、そうした仕事への関与を厳に禁じられていた人びとであった」
この外村氏の一文に出てくる「前述のように」とは、次のような直前の文書である。
「慰安婦は、慰安所が合法的に経営され、そこで仕事をしているという建前のもとでは、芸妓、娼妓、酌婦ということになる。そうであるとなるとこれらの職業の女性の募集や紹介周旋は、職業紹介法(日本内地に施行)や朝鮮職業紹介令(朝鮮で施行)が規定する、民間人による労務供給業や労働者募集とは無関係である。芸妓、娼妓、酌婦の募集や紹介周旋については、これらの法ではなく、各府県(朝鮮では各道)の警察部の取締規則に依って許可を受けた業者が、その規定のもとでのみ行いうることになっていた。そして、労務供給業者は芸妓、娼妓、酌婦の募集や紹介周旋を兼業することはできないとされていた(木村忠二郎『民営職業紹介事業労務供給事業労働者の募集関係法令解説』職業協会、1939年、156頁)」
ここで今田が批判された文章は、拙著『極秘公文書と慰安婦強制連行』の第2章「吉田清治氏が属した労務報国会を追う」に出てくるものである。そこでは1942年9月30日の厚生次官・内務次官通牒で設立された都道府県労務報国会の構成員について、「甲種会員(使用者)」に「労務供給業者」が含まれていることを指摘し、その「労務供給業者」に「女衒」などが含まれる可能性に言及したくだりである。なぜなら、「女衒」などは女性を遊郭などに売り飛ばす業者であり、一般的に「労務供給業者」と人的にも事業内容も類似し、重なる職種であるからである。
ところが、外村氏は、1942年9月末に設立された労務報国会の構成員「労務供給業者」について、その設立の3年以上前に発行された1939年の解説書で批判する。今田はジャーナリストなので、相手を批判する場合、相手が引用する文献を確認するよう努力している。今回も国会図書館でその文献のコピーをとった。確かに1939年1月発行の厚生事務官・木村忠二郎著の文献には、P156に「(労務)供給業についても営利職業紹介事業と同様の兼業禁止の規定が設けられた。即ち、供給業者…は…芸妓娼妓酌婦若は之に類するものゝ周旋業…を為し若は其の営業者の従業者となり又は…代理人若は其の補助員となることを得ざるものとし…」云々と解説している。その根拠法令としては「供則(労務供給事業規則)6条」とある。巻末にある同規則(1938年6月29日・厚生省令第18号)の第6条には「供給業者…ハ…芸妓娼妓酌婦若ハ之ニ類スルモノノ周旋業…ヲ為シ、又ハ其ノ営業者ノ従業者トナルコトヲ得ズ」云々とある。
ところが、今田は国会図書館で、木村忠二郎著の同名の文献の改訂版(1941年2月発行)があることを発見した。
そこには、次のような文章がある。
「(労務)供給業についても営利職業紹介事業と同様の兼業禁止の規定が設けられた。即ち、供給業者…は…芸妓娼妓酌婦若は之に類するものの周旋業…を為し若は其の営業者の従業者となることを得ざるものとし、又…代理人につき同様の禁止を適用することとしたのである(供則6条)」
これは改訂前の同名の文献とほぼ同じ文書である。しかし、この文章の後に続けて、次のような文章が加わっている。
「兼業禁止規定の免除については、営利職業紹介事業と同じく、地方長官特に支障なしと認めて認可した場合に其の特典を受ける(供則6条1項但書)」
改訂版の巻末にある「労務供給事業規則」(改正1940年11月15日厚生省令第49号、1941年2月1日・厚生省令第5号)の第6条には、次のように書かれている。
「供給業者…ハ…芸妓娼妓酌婦若ハ之ニ類スルモノノ周旋業…ヲ為シ、又ハ其ノ営業者ノ従業者トナルコトヲ得ズ但シ地方長官支障ナシト認メテ認可シタルモノハ此ノ限ニ在ラズ」。
地方長官の認可があれば、「労務供給業者」は「特典」として、「女衒」とも「兼業」できるようになったのである。
関連して、改訂版の巻末にある「営利職業紹介事業規則」(改正1940年11月15日厚生省令第48号、1941年2月1日厚生省令第4号)の第3条も紹介しておこう。同様な兼業禁止の免除規定が新たに入っている。
「(営利)紹介業者…ハ…芸妓娼妓酌婦若ハ之ニ類スルモノノ周旋業、労務供給事業…ヲ為シ若ハ其ノ営業者ノ従業者トナリ又ハ労務者ノ募集従業者トナルコトヲ得ズ但シ地方長官支障ナシト認メテ認可シタルモノハ此ノ限ニ在ラズ」
この「事業規則」は、「営利紹介業者」が、「芸妓娼妓酌婦若ハ之ニ類スルモノノ周旋業」(女衒)や、「労務供給事業」、「労務者ノ募集従業者」という3つの業種との「兼業」すべてにわたって、地方長官の認可があれば可能としている。まさに以前の「事業規則」の大幅「改正」である。
外村氏の今田への延々とした批判は、みごとに根本的根拠を失った。
外村氏の今田への批判は、これにとどまらない。外村氏は言う。
「さらに、今田は、朝鮮職業紹介令施行規則では、芸妓、娼妓、酌婦などの周旋を禁じているが、1940年1月27日付の朝鮮総督府内務・警務局長通牒『朝鮮職業紹介令施行に関する件』においてそれを可能としていた、と述べている(今田真人『極秘公文書と慰安婦強制連行』三一書房、2018年、24頁)。そのことで、朝鮮職業紹介令によって、慰安婦を集めることができた、というのであるが、これも史料の読み方が間違っている(今田自身も、法令の内容を通牒が否定しているのはおかしい、ということまでは気付き、その点に言及しているのであるが、それを無視した解釈を行っており、残念である)。『朝鮮職業紹介令施行に関する件』で記されているのは、『芸妓、娼妓、酌婦若くは之に類するものの周旋業…を為す者』であっても、当局が支障なしと認めたならば、『募集従事者』となることを許可するということである。ここで言う『募集従事者』とは、朝鮮職業紹介令第5条と朝鮮職業紹介令施行規則の第4章第38~59条で規定されている『労務者の募集』に従事する者(=労務者の募集を命じる者とは別に業務を担当する者。ただし両者が同一人物であってもかまわない)である。そこでいう『労務者の募集』とは『職工、鉱夫、漁夫、土工夫其の他人夫の募集』、わかりやすく言えば男性の肉体労働者に限定されている。つまり、前述の通牒で今田が言及している部分の意味するところは、芸妓、娼妓、酌婦の周旋業を行っている者でも、こうした男の肉体労働者を募集することは、許可があれば可能となる、ということであり、朝鮮職業紹介令に基づいて、芸妓、娼妓、酌婦の募集を行いうる、ということではない。付け加えれば、日本内地の職業紹介法、同規則でも『労務者の募集』を定めた部分があり、これも、やはり募集の対象は『職工、鉱夫、漁夫、土工夫其の他人夫』で、芸妓、娼妓、酌婦等とは無関係である」
外村氏は、1938年6月29日制定の「労務供給事業規則」の「労務供給業者」の兼業禁止規定を絶対不動なものとみなし、その後の1940年11月15日・1941年2月1日に「改正」された「労務供給事業規則」等に兼業禁止の免除規定が新設されていることを見逃した。そのために、本来の兼業禁止の意味も理解できず、混乱に陥っている。
地方長官が支障なしと認可すれば、「労務供給業者」が「芸妓娼妓酌婦の周旋業」を「兼業」できるとする規定の意味は、「労務供給業者」が男の肉体労働者の供給だけではなく、「芸妓、娼妓、酌婦の周旋(紹介・労務供給・募集)」も兼業できるという意味以外にない。「女衒」との「兼業」を地方長官に許された「労務供給業者」が、男の肉体労働者の供給だけしかできなくなるという解釈は、「兼業」の意味すら理解できない珍論である。
外村氏は、「国家総動員法と慰安婦はなんらの関係もない」という独断的な思い込みのため、さまざまな史料を読み違え、無理筋な解釈を行っている。まことに残念である。
そして、改めて言う。労務報国会は、甲種会員として「労務供給業者」も組織しており、それは「女衒」を兼業する「労務供給業者」(要するに女衒である)を法令的に含んでいたのである。
労務報国会の「甲種会員(使用者)」は、この「労務供給業者」と「日雇労務者を使用する作業請負業者」のほかに、労務報国会の職員もいた。(防衛省防衛研究所・所蔵の「昭和19年・勤労査察調査資料(其ノ1)」)
吉田清治氏は言う。
「私が業務連行した慰安婦は、ほとんどは、朝鮮半島の、私の場合は、いなかの僻地から…男の徴用のついでに、女の女子挺身隊も30人、50人という、そういうのをいっしょに、命令が出ていたわけです」(拙著『吉田証言は生きている』P22・23)
「昭和17年以降、終戦までの、朝鮮半島で、いわゆる民間人が、あそこから女性も男性も連れ出すには、何らかの官庁の証明書、許可書なし、命令書なしには絶対できない。…女たちを連れだして、それを釜山まで、どうして連れて行くか、…軍属という身分を前線でもらった連中しかいかれないんです。それも集団で。何人か、5人10人と。いわゆる軍服を着た、軍属でも軍服を着たら、わかりませんよ。そして、軍属のきちっとした徽章なんか、いりゃしませんよ。証明書をどこの部隊でも、慰安所要員はそれの募集に軍属としてですね、御用商人がたいていやっていた。日本中の暴力団が実は御用商人やら、そういうところにみんな、いっているんです。日本内地は、若者がどんどん、いれずみ入れたのが召集かかるでしょう。召集逃れもあって、親分がバーと連れて、大陸にみんないっているんですよ。そして御用商人と称して、これが大量に中国、満州から広東と、全部いっていたんですよ。そういう手合いのいれずみ入れたんが、この募集によくきていた。それは、私が下関で世話したときに、よく知っている。…(慰安婦狩りは)初めから、狩り出すときから、朝鮮半島で連れ出すときから、国家そのものの力です」(拙著『吉田証言は生きている』P37~39)
「復員軍人、傷痍軍人もいたし、それから、いろんな炭鉱やなんか、いろんな現場で労務監督をやった経験者ばかり。つまり、人間を扱い慣れた連中が職員だったんです。そんなんしか雇わなかった。荒っぽい連中ばかりがなった」(拙著『吉田証言は生きている』P41・42)
「(道府県労務報国会の)各支部に『事務局』を置き、数人から数十人の事務局職員には、官公吏、復員の傷痍軍人、各建設事業所の労務係、炭鉱の人事係などの労務監督の経験者の中から適任者を選んで、警察が半ば強制的に志願させて採用した。…『支部長』は警察署長が兼任であった。そのころの警察署は署員の『召集』で人員が不足していて、本来の警察業務のほかに労務動員業務を行なう余力がなかった。『支部』設立のはじめから、動員業務の実務は事務局で行ない、事務局責任者の『動員部長』が、事務局職員を指揮して実行した。…『山口県労務報国会』が行った数千人の朝鮮人強制連行は、すべて私が実務責任者であった。私のその所業は非人道的な戦争犯罪であって、私は朝鮮人に対して、戦犯の責めを負う者である」(吉田清治著『私の戦争犯罪』P10・11)
労務報国会の「甲種会員」の「労務供給業者」が地方長官の認可で、「女衒」などを「兼業」できたという法令上の事実は、これらの吉田証言をいっそう裏付けるものとなっている。女衒なども生業の一つとしてきた日本の暴力団・ヤクザが、労務報国会所属の「甲種会員」の一つ、「労務供給業者」として同会の職員になり、地方長官の認可も受けて朝鮮半島での「慰安婦狩り」をしていたわけである。
⑤外村氏の居直り的な今田への批判について――「挺身隊」の解釈
外村氏は、「挺身隊」を労務報国会が組織できることを示した今田発見の公文書をも批判してみせる。
「このほか、今田は労務報国会勤労挺身隊がすすめられたことから、『「挺身隊」の名で「慰安婦」を動員できるようになった』とも述べている(今田真人『極秘公文書と慰安婦強制連行』三一書房、2018年、28頁)。しかし、その解釈も成り立たない。労務報国会勤労挺身隊の趣旨は『土木建築並運輸事業等に於ける労務の非常動員に協力し、特に国家の緊急施策並空襲天災等の発生に際し直ちに動員配備につき危険困難な情勢のもとに挺身活動し労務報国会員たる職務の完遂を期する』というものである(1942年10月6日付、厚生省労働局労政課長等から各道府県警察部長宛『道府県労務報国会の組織竝事業等に関する件』に含まれる『勤労挺身隊整備要綱』)。あくまで、土建、運輸等であり、労務報国会の会員、事業中に慰安婦、慰安所の運営等は含まれていないわけであるから、『労務報国会の職分』とそれは無関係である」
この文章はまだまだ続くのだが、これもさきほど指摘した労務報国会「甲種会員」に含まれる「労務供給業者」が「女衒」などを「兼業」できた事実を考えれば、土台から崩れ去る主張である。
ところで、外村氏は『勤労挺身隊整備要綱』の出典について、1942年10月6日付の厚生省労政課長発の通牒だというが、拙著では1943年10月9日付の大日本労務報国会理事長発の通牒「勤労挺身隊ノ組織整備ニ関スル件」(拙著P215、《資料38》)としている。確かに、今田が以前確認しコピーで入手していた、東大駒場図書館所蔵の大日本労務報国会『労務報国会の組織とその運営』と題する著作(元本もコピーしたもの)にも、同じ内容の「勤労挺身隊整備要綱」が掲載されている。しかし、それをよくみると、その「勤労挺身隊整備要綱」の発出された年月日や機関名が欠落している。直前に並ぶ通牒は確かに1942年10月6日の厚生省労政課長発の通牒だが、その題名やその前文部分に「勤労挺身隊整備要綱」についての言及がない。おそらく、別物であろう。今田が入手して拙著で紹介したのは、帝京大学図書館(メディアライブラリーセンター)所蔵の「労務配置関係通牒集――大日本労務報国会(秘・昭和19年5月)」(コピーではなく原本)所収の通牒である。東大駒場図書館所蔵の「要綱」は各種申請書類の「様式」まで載っていて、庁府県労務報国会が厚生省勤労局長宛等に毎月提出される「勤労挺身隊出動実施状況報告」の「様式」もある。拙著で紹介した大日本労務報国会理事長発の通牒が実は、厚生省発の通牒でもあったことを示していて興味深い。
問題は、帝京大学図書館で入手した通牒の前文に「追テ既ニ此ノ種ノ隊ヲ組織済ノ地方ハ漸次(ぜんじ)本通牒ニ依ラルルヤウ致サレ度(たし)」(拙著P215)と書かれていることである
これは、外村氏が今田を大上段に批判する根拠にしているであろう東大駒場図書館所蔵の「要綱」にはないもので、「要綱」が1942年10月6日の厚生省労政課長発の通牒に載ったものでもないことをも示している。この前文の文章は、この「勤労挺身隊整備要綱」による「挺身隊」が、地方によっては、少し違った形で既に組織されていたことを示している。「要綱」とは違う「挺身隊」の組織の仕方がすでに地方にあったとすれば、吉田清治氏が属した山口県労務報国会が朝鮮半島で「挺身隊」の名で「慰安婦狩り」をしたということを否定できない。また、「要綱」にも労務報国会勤労挺身隊の出動先を「土木建築並運輸事業等に於ける労務の非常動員」と「等」をわざわざ付けていることにも留意すべきである。公開されるかもしれない一般通牒に戦時といえども公然とは「慰安所の酌婦・女給」が動員対象だとは書けなかったであろう。それは、あくまで「極秘」であり、軍事機密であった。
「女衒」などを会員とする「労務報国会」が「女子挺身隊」の組織運営に深く関与していたことを示す、山口県労務報国会の文書もある。今田が山口県文書館で発見し、まだ未発表なのだが、せっかくの外村氏の執拗な批判があるので、少し紹介したい。
「昭和20年度・重要文書綴」と題するファイルに収録されている、山口県労政課主任の水津警部が立案した通牒、山口県警察部長「女子挺身隊員ノ前収補給ニ関スル件」((各警察署長宛、施行1945年1月19日)である。
その通牒の中で「山口県労務報国会」と印刷された便箋に書かれている該当部分を抜き書きする。
「女子挺身隊員ノ就業後ノ賃金ガ前収入ヲ下ル場合ハ別紙準則ニ依リ事業主ヲシテ前収補給手当ヲ支給セシムルコト」
山口県労政課長は、山口県労務報国会事務局長を兼任していたと吉田氏は書いている(『私の戦争犯罪』P100)。山口県では警察組織と一体になって労務報国会は動き、「女子挺身隊」の給与の上げ下げまで指示していたことを示している。これ以上の説明は、研究者、外村氏には不必要であろう。
⑥その他の論点と「笑い話」1つ
外村氏の今田への批判は、男性の朝鮮人強制連行の研究で自分が収集している公文書だけを使って、専門外の朝鮮人「慰安婦」強制連行、とりわけ、国家総動員法による強制連行を否定しようと、拙速に決め付けをしているように見える。
東大教授の肩書を持つ研究者なら、相手を名指しし、その著作を一方的に批判するなら、まず、相手が根拠にしている公文書を直接閲覧するなり、コピーを入手してから、おこなうべきであろう。それがネトウヨや歴史修正主義者との決定的な研究姿勢の違いと考える。
外村氏の一文の9頁以下の文章は、もうほとんど秦郁彦氏らの著作による吉田証言への誹謗中傷の引き写しであり、めまいがするほど偏見と先入観に満ちている。「妻の日記」との関係で、吉田氏の結婚の年月をあれこれと批判しているが、これも秦郁彦著『慰安婦と戦場の性』P230・231の記述を少し薄めて書いているにすぎない。この公安まがいの個人情報の詮索については、今田の一連の著作(『吉田証言は生きている』P194など)で一応批判済みなので、これらの論点への反論は本稿では割愛したい。今後、必要あれば、反論していきたい。
ただ、一点だけ、笑い話のような外村氏の分析に触れたい。
それは、吉田氏の著作で紹介されている済州島等の「慰安婦狩り」についての軍の「動員命令書」についての批判である。外村氏は次のように言う。
「団体の名称を朝鮮人女子挺身隊とすること…も、その当時の状況に照らして奇妙である。当時、行政当局や報道機関等は、公的な場において、朝鮮人ではなく、半島人や半島同胞という語を普通用いていた」(P23)
こういう水準の指摘を並べて吉田氏の著作に「疑問」を投げかけている。
しかし、当時、「朝鮮人」という言葉を用いた公文書は、いくつも見つかる。
その具体例を拙著『極秘公文書と慰安婦強制連行』の巻末に抜き書きした公文書の中から、いくつか拾う。
「当地経由北支ニ赴ク婦女中醜業ヲ目的トスルモノヽ内ニハ朝鮮人相当多ク…」(P173、《資料20》1938年6月1日、在山海関副領事発「支那渡航婦女ノ取締ニ関スル件」)
「蓋(けだ)シ朝鮮人労務者ノ内地送出ノ実情ニ当ツテノ人質的掠奪的拉致等ガ朝鮮民情ニ及ボス悪影響モサルコト乍(なが)ラ…」(P221、《資料40》1944年7月31日、内務省管理局嘱託・小暮泰用氏の「復命書」)
その他、同拙著の第8章(P93~)で示した、朝鮮総督府警察署や台湾総督府の「慰安婦」に対する「渡支身分証明書」の発給数を示す統計報告書には、無数の「朝鮮人」という言葉が用いられている。
共著『「慰安婦」問題の現在』(三一書房)所収の拙稿に復刻写真で紹介した次の公文書の記述もある。
「昭和19年度内地樺太南洋移入朝鮮人労務者供出割当数調」(P161)
「昭和18年度・国民動員計画の解説」の「質問」に「それは男子朝鮮人だけですか。女子はをりませんか」の記述(P164)
復刻写真に写った「朝鮮人」という言葉を、しっかりとその目で確認していただきたい。
「慰安婦」問題の研究者なら、「朝鮮人」という言葉が出てくる公文書は、このように、いやというほど知っている。
では、男性の朝鮮人強制連行の文献ではどうだろうか。
外村氏が熟知しているはずの各年度の「国民(労務)動員計画」を見てみよう。
1939年度「労務動員計画」には「移住朝鮮人・男8万5千人」とある。
1941年度「労務動員計画」には「移住朝鮮人労務者ハ工場、鉱山…ノ要員ニ充ツルコトトシ供出ノ増加ヲ行フ」とある。
1942年度「国民動員計画」には「朝鮮人労務者・男12万人」とある。
1943年度「国民動員計画」には「内地在住朝鮮人ニ付テハ主トシテ都市在住ノ朝鮮人ヲ対象トシ之ガ計画産業ヘノ供出ヲ図ル」「朝鮮人労務者・男17万人」とある。
1944年度「国民動員計画」には「朝鮮人労務者・男29万人」とある。
外村氏は本当に、男性の朝鮮人強制連行の専門家なのであろうか。「奇妙」で「疑問」なのは吉田氏ではなく、外村氏の方である。
以上、外村氏の今田への批判に対して最低限の反論をした。外村氏の誠実な反応を期待して、この一文を終えたい。