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(2025年7月28日からの閲覧回数)
☆2025年7月26日、市民団体「哲学カフェ」での報告
「朝鮮人『慰安婦』強制連行は本当にあったのか
――『慰安婦』問題を哲学的に考える」
フリージャーナリスト、今田真人
筆者は2025年7月26日(土)の、東京・国分寺市の市民団体「哲学カフェ)で、以下のレジュメに基づく報告をしました。それを紹介します。(ここに掲載するレジュメは、集いで配布したものに、プライバシー保護などのため、さらに少し修正を加えています)
PDF版のレジュメは、ここからリンクできます。
集会は、30歳代の3人の女性から80歳代の男性まで、6人が参加しました。
参加者は「慰安婦」問題をほとんど知らない世代でもあり、いまの「歴史修正主義」が支配的な日本の世論状況になる以前の、TBSのテレビ番組(1991年11月15日放映の「証言・従軍慰安婦」と題する番組)をプロジェクターを使って視聴しました。
この番組は、生前の吉田清治氏の証言や、朝鮮人「慰安婦」の強制連行にかかわった下関警察署の警察官の証言、同強制連行を目撃・体験(未遂)した韓国人の男女の証言など、重要な証言が多数盛りこまれています。このテレビ番組については、次の私のHPのページ「官製『人狩り部隊』~続・労務報国会の隠された役割」(ここをクリックしたら同ページにリンクします)の後半にその解説やテレビ番組へのリンク方法を掲載しています。
また、「吉田証言と河野談話をめぐる年表」(このレジュメの最後尾でも掲載しています)もプロジョクターで上映し説明しました(PDF版はここをクリックすればダウンロードできます)。
あわせて、以下の「週刊金曜日」掲載のリポート記事2つのコピーを配布しました。(著作権上の問題があり、今田のリポート記事だけ、ここで参照できるようにしました。タイトルをクリックしたらダウンロードできます)
➀吉方べき「『慰安婦狩り』を現地はどう受け止めたのか――知られざる済州島地元紙の『吉田証言』報道の中身」(「週刊金曜日」2015年6月26日号)
②今田真人「朝鮮人女性『年間1万人』強制連行の動かぬ証拠」(『週刊金曜日』2015年12月11日号)
さらに、秦郁彦氏が吉田証言否定の「決定的証拠」とした韓国・済州島の地元紙「済州新聞」の記事(1989年8月17日付)〈注〉のコピーと、その記事のプロの翻訳業者による翻訳文も配布しました。なお、この記事と翻訳文は別途、出版物などで公開する予定なので、ここでは紹介しません。
〈注〉この記事は、今田が済州島の業者を通じて有料で入手したもの。秦郁彦氏は自著『慰安婦と戦場の性』などでその記事の日付を一貫して8月14日付と誤記しています。吉方べき氏が上記リポートで初めて間違いを指摘しました。これも研究者が秦郁彦氏の主張の根拠となる韓国語の記事を確認できないようにするための、秦郁彦氏流の「歴史修正主義」の手法だと思われます。
「哲学カフェ」用のレジュメ、2025年7月26日、フリージャーナリスト・今田真人
◎朝鮮人「慰安婦」強制連行は本当にあったのか――「慰安婦」問題を哲学的に考える
☆基本文献
・吉田清治著『私の戦争犯罪――朝鮮人強制連行』(1983年、三一書房)
・吉田清治著『朝鮮人慰安婦と日本人』(1977年、新人物往来社)
・拙著『吉田証言は生きている』(2025年、共栄書房)
・今田含む共著『「慰安婦」問題の現在——「朴裕河現象」と知識人』(2016年、三一書房)
・拙著『極秘公文書と慰安婦強制連行』(2018年、三一書房)
・今田の講演録パンフ『嫌韓ナショナリズムと植民地主義——「慰安婦」「徴用工」問題の研究を踏まえて』(2020年、研究所テオリア)
➀「歴史修正主義」の典型、秦郁彦氏の否定論(裏づけ証言がなければ、歴史事実は存在しないのか)
・『慰安婦と戦場の性』(1999年、新潮社)
→拙著『吉田証言は生きている』P157~「第四章 秦郁彦『慰安婦と戦場の性』の検証」で詳しく反論している。
~私(今田)の中心的な反論「第3節 裏どり証言がないだけで、証言を「ウソ」と断定する手法——(秦氏の済州島の現地調査を報じた産経新聞92年4月30日付は)秦氏が『貝ボタン組合の役員をしていたなどという何人かの老人たちと会い、確かめたところ、吉田氏の著作を裏づける証言は得られなかった』ということや、『吉田証言』について、済州島現地の新聞記者(許栄善氏)が一部の地元民を調べ、裏づけ証言をする人が『ほとんどいない』という結果だったということだけである。いわば、歴史研究者として証拠(被害・目撃証言)が見つからなかったといった、あまりニュース価値のない研究失敗の『発表』である」(P164~)
→この否定論の手法は、朝日新聞の「検証記事」(2014年8月5、6日付)でも同じ。「『済州島で連行』証言、裏付け得られず虚偽と判断」「読者のみなさまへ——吉田氏が済州島で慰安婦を強制連行したとする証言は虚偽と判断し、記事を取り消します。当時、虚偽の証言を見抜けませんでした。済州島を再取材しましたが、証言を裏付ける話は得られませんでした。研究者への取材でも証言の核心部分についての矛盾がいくつも明らかになりました」
→哲学的には、この論法は唯物論(史的唯物論・唯物史観)に反する。歴史的事実は、それを語る被害証言や目撃証言、あるいは加害証言、また公文書がなくても、存在する。それを実証的に示す仕事が本来の研究者やジャーナリストの仕事である。
②否定論への反証(政府は隠しているが、歴史的事実を裏付ける政府公表の公文書が存在する)
・「河野談話」発表当時に政府が公表した関連公文書(1993年8月4日に第2次調査結果)――Wam(アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」のHPから閲覧可能
「いわゆる従軍慰安婦問題の調査結果について」(公文書リスト)の中の「国立公文書館関係」の№16、19、20。とくに№20が重要。
→№20「朝鮮総督府部内臨時職員設置制中を改正す」(昭和19年7月12日)
~この内容などは、後に復刻本が発行されたが、それに注目し、他の関連公文書と合わせて暴露したのが、拙稿「朝鮮人女性『年間1万人』強制連行の動かぬ証拠」(『週刊金曜日』2015年12月11日号)。
~これら公文書の復刻写真を掲載したものが今田を含む共著『「慰安婦」問題の現在——「朴裕河現象」と知識人』(2016年、三一書房)
~№20の公文書は内務省提出の公文書を当時の東條英機内閣が「閣議了解」したもの。その元になっているのは、朝鮮総督府が作成した公文書(今田が外交史料館で発見したもの)であり、内容は同じであり、それを昭和19年6月20日に当時の担当省庁である内務省に送り、内務省が内閣に送る形をとった。つまり、この文書は植民地・朝鮮を管轄していた朝鮮総督府自身が作成したものであり、信憑性が高い。拙著『極秘公文書と慰安婦強制連行』(2018年、三一書房)などに収録。
・その中には以下の一覧表があり、これが決定的である。
・さらに以下の記述もある。
「第五 国民徴用ニ関スル事務ニ従事スル者ノ増員説明……生産増強労務強化対策……女子遊休労力の積極的活用ヲ図ル為左ニ依リ措置スルコト(イ)女子ノ特性ニ適応スル職種ヲ選定シ新規学校卒業者及年齢14年以上ノ未婚者等ノ全面的動員体制ヲ確立スルコト 右ノ措置ニ関連シ之ガ勤労管理其ノ他諸施設等ニ付特別ノ考慮ヲ為スコト(ロ)労務調整令ヲ改正シ接客業、娯楽業等ニ於ケル女子青少年(概ネ年齢12年以上25年未満ノ者)ノ使用制限ヲ実施スルコト尚此ノ場合労務調整令ノ適用ヲ受ケザル女子青少年ニシテ警察取締ヲ受ケル者ニ付テハ本件ニ準ジ之ガ取締ヲ強化スルコト」
「第六 経済統制ニ伴フ警察事務ニ従事スル者ノ増員説明……本年度(19年度)以降ハ徴兵令ノ実施ニ伴フ壮丁ノ徴集アル等加速度的ニ労務ノ量的逼迫ヲ来タスト共ニ一面半島ニ於ケル民衆ハ民度低キ為ニ戦時下ニ於ケル労務ノ重要性ニ対スル認識猶ホ浅ク勤労報国隊ノ出動ヲモ斉シク徴用ナリト為シ一般労務募集ニ対シテモ忌避逃走シ或ハ不正暴行ノ挙ニ出ズルモノアルノミナラズ未婚女子ノ徴用ハ必至ニシテ中ニハ此等ヲ慰安婦トナスガ如キ荒唐無稽ナル流言巷間ニ伝ハリ此等悪質ナル流言ト相俟ツテ労務事情ハ今後益々困難ニ赴クモノト予想セラル」
③否定論への反証(秦郁彦氏らは認めようとしないが、済州島現地の「慰安婦」強制連行については、多数の目撃証言・被害証言がある)
・吉方べきリポート週刊金曜日2015年6月26日号「『慰安婦狩り』を現地はどう受け止めたのか――知られざる済州島地元紙の『吉田証言』報道の中身」
・共著『「慰安婦」問題の現在——「朴裕河現象」と知識人』の中の拙稿「『吉田証言』は本当だった——公文書の発見と目撃証人の登場」
この目撃証言をした在日コリアンAさんのさらに詳しい証言内容は以下の通り。
~在日コリアンAさん「(1931年生まれ、現在生存であれば91歳)の証言(2014年7月5日に1回目を証言、1回目は来日した4・3事件を取材する韓国・済州島の研究者によるインタビューなので韓国語で証言。通訳と聞き手は在日コリアンBさん。2回目以降は在日コリアンBさんが在日コリアンAさんの在所に訪問し聞いた内容。おそらく会話は日本語だと思われる)
・「故郷の済州道●●村で、小学5・6年の頃、ある結婚式の進行中、日本人が車で来て、新婦を強引に連れ去った事件があった」「その後の行方は分からないし、どうなったのか分らない。日本人は一団としてトラックで来ていたので(被害者側は)何も言えなかった」、「(質問者=来日した韓国・済州島の研究者●●さん=が「警察に訴えればよかったのに」と言うと)そういうことを言える時代ではなかった」(以上が1回目)
「(在日コリアンAさんは、個人宅の庭で開かれた)結婚式に座っていた。母親は1カ月、泣き通しだった。連れ去られるので早く結婚させたかった。(連行の)対象者であったので、毎日のように日本人のヤクザがきた。集団で来る。自分(在日コリアンAさんのこと)が12歳か13歳のときのことである。連れ去られた新婦は(在日コリアンAさんの)遠縁のお姉さんで、(在日コリアンAさんは)いろいろとかわいがってくれた。お菓子をもらったりした。これ(共著『「慰安婦」問題の現在』(三一書房、在日コリアンBさんを通じてを在日コリアンAさんに贈呈))だけで十分だ。いまの情勢を見ると、よくない。反対派の言うこと(差別発言)がわずらわしい」「結婚式で新婦が連れ去られたことは、目の前で見た。新婦の名前は知らない。それによって、いろいろな余波が起きるといけない。済州島の中では、連れ去ら去られたことは、みんな知っている。1965年以後、過去のことには一切口をつむごう。そうしないと日本人観光客は一切こなくなるだろう。おコメもできない島、4・3事件もあった。そういうことがあったと被害をさらけ出さないでいいのでは、そういう雰囲気が島にある。恥ずかしいという気持ちがある」
《吉田証言と河野談話をめぐる年表》
★1953年4月1日 同日発行の『朝鮮総論』第7号(朴慶植編『在日朝鮮人関係資料集成〈戦後編〉第9巻』2001年2月23日発行・所収の復刻からで、高成浩論文「忘れ去られた歴史は呼びかける——日朝親善を念願するが故に」が掲載される。「戦争が一層熾烈となってくると、あり余る筈であった日本の人的資源も、ようやく底をついてきたので、政府は、朝鮮の都市や農村から青壮年の狩り出しを行った。すなわち、政府の出先機関は、警察や憲兵を先立てて、トラックでもって、通行人や田畑で働いている朝鮮人を、うむをいわさず、狩り集めてこれに乗せ、各地の収容所に、厳重な銃剣による監視をつけて収容し、一定の数に達すると、これを集団奴隷のようにして、日本に運び込んだ。故にかれらは、その愛する父母や妻子達と顔をあわせ、別離の言葉をかわす余裕すらなく、田畑に出た人も、用をたしに出た人も、出掛けたきり、帰らなかったのである。…その上一層あわれなのは婦女子の場合である。設営隊や労働力補充のために青壮年の狩り出しをするのと同時に未婚の女子や、子のない人妻も狩り出された。その中の何千人かは、勤労奉仕という名で日本に送った。ところが、この勤労奉仕が、大変な奉仕で、軍は彼女らを、慰安婦として、南方に送るための輸送船に積み込んだ」
★1963年8月23日 吉田清治著「当選手記私の8月15日」発表(『週刊朝日』1963年8月23日号所収)、吉田東司(下関)との名で佳作、本文は中野好夫の「『私の8月15日』を読んで」が引用した部分だけ、明らかになっている。~「…加害者の立場から——以上、特選から佳作までの各編は、すべて、戦争の被害者としての立場から、8月15日を想起したものばかりであった。しかしただひとりだけ、下関市の会社員吉田東司(49)は、加害者の立場からあの日を回想する。「私はこのころ山口県労務報国会動員部長をしていて、日雇労務者をかり集めては、防空壕堀りや戦災地の復旧作業に送っていた。労務者といっても、あのころはすでに朝鮮人しか残っていなかった。私は警察の特高係とともに、指定の部落を軒並み尋ねては、働けそうな男を物色していった」「奴隷狩りのように」と吉田氏自身もいう。その最中に入ったのが終戦のニュースだった。朝鮮人の報復への恐れは、直ちに頭に浮んだ。帰宅した吉田氏の家の前には、案の定、20人ばかりの朝鮮人が集っていた、動員された朝鮮人の行先を教えろという。問いつめられた吉田氏はついに捨てばちになった。「私は靴ばきのまま座敷かけ上がると、床の間の軍刀をつかんで玄関へとび出してさ叫んだ。『どうせ戦争に負けたんだから、いまここで死んでやる。おれのしたことに文句がある奴は、殺して道づれにするから前へ出ろ!』私は気ちがいのように逆上し、軍刀を抜いて彼らに近づいた。彼らはわめきながら逃げ散った。私はこれまでにしてきたことも、これからしなければならないこともわからなって、真夏の太陽の下でむなしく軍刀をふりまわしていた」
★1965年5月31日 朴慶植著『朝鮮人強制連行の記録』(未来社)を発行。名前はないが、1963年8月23日号の『週刊朝日』に掲載された吉田清治氏の手記を引用して紹介。このときの手記は「一日本人は警察特高係とともに指定部落を軒並みたずね、働けそうな男を物色し、奴隷狩りのように連行した」と書いている。しかし、朴慶植氏は同著のその他の箇所で、「朝鮮人女性が軍需工場、被服廠で働くのだといわれて狩りだされた17—20歳前後のうら若い娘たち」が2千数百人、「南方各地の戦線に送られ軍隊の慰安婦としてもてあそばれた」という王致守氏の証言も紹介している(P122)。
★1968年6月30日 同日付発行の医療文芸集団(全医労会館内)『白の墓碑銘』
に収録の手記・江川きく「撃沈」
——従軍看護婦として海南島の三亜海軍病院に派遣された江川さんが、そこでみた日本人、朝鮮人、台湾人の「慰安婦」の検診の様子を驚きをもって書いている。「毎日夕方になると、大勢の兵隊さんが6時5分前に病院玄関前に整列し、いっせいに街に出て行くことであった」「ふと衛生兵の机の上を見ると、慰安婦の名前の上に、『将校用』『兵隊用』『軍属用』と書かれてある。『これ、どういうこと?』『ああ、これか。将校用は日本人、兵隊用は朝鮮人、軍属用は台湾人だとよ——』その衛生兵は、なりやげな言い方でそう言った。『まあ、まるで品物!』私は顔をしかめ、ぶるぶるっと身ぶるいした」「部隊の移動にともなって、これらの施設(慰安所など)もついてまわっているということ、慰安所は、将校が『海南荘』と呼ばれる立派な建物なのに、それ以外はバラック建ての、カーテンで仕切られただけの粗末な部屋だということなど、私にとっては驚くばかりが、次つぎとわかってきた。将校は、〝おめかけさん″と呼ばれるオンリーをつくって海南荘の一室に住まわせ、従兵に世話をさせたりしていた」「ある日、…一人の〝おめかけさん″が、子宮外妊娠の手術を受けた。(手術中に空襲があり、江川さんらが不安な顔をしたのをみて)軍医が興奮してどなった。『重要な患者だ。手を放すな』そして『お前たち看護婦が無事でいられるのは、こういう人たちのおかげなんだ。それを忘れるな』と、付け加えた。彼女たちは、遊郭制度廃止後かくれて営業をしていたところを連れてこられた人が多く、ほかに、『特殊看護婦』という名目で、本人も看護婦をするつもりで知らずにやって来たという人もいた。九州、四国の人がほとんどで、アクセントの強い方言がわからずに困った。月給は250円程度。私たちの90円をはるかに超し、志願すれば、支度金として1000円ぐらいはもらえたという話もあった」
★1973年10月20日 千田夏光著『従軍慰安婦——"声なき女"八万人の告発』(双葉社)の発行
★1976年1月31日 金一勉『天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦』(三一書房)の発行。戦後の「慰安婦」問題の証言・手記などを網羅して分析・紹介。「参考文献・資料」に吉田清治氏の名前はないが、本の中には、吉田氏が書いたのと同じような「慰安婦狩り」の様子が詳しく書かれている。吉田氏の著作が発表される前に出版された著作であることが重要である。
★1977年3月1日 吉田清治著『朝鮮人慰安婦と日本人』(新人物往来社)の発行」
★1980年3月7日 同日付で朝日新聞が吉田証言を初めて報道(川崎・横浜東部版)~「連載 韓国・朝鮮人 命令忠実に実行 抵抗すれば木剣」(のちに取り消し)
★1982年9月2日 同日付で朝日新聞が吉田証言を報道(大阪本社版)~「朝鮮の女性 私も連行 暴行加え無理矢理」(のちに取り消し)
★1982年9月30日 サハリン残留韓国人・朝鮮人の帰還請求裁判の東京地裁の弁論で、吉田清治氏が同日と11月30日の2回にわたって証言。おもに朝鮮人男性の強制連行の話だったが、その中で従軍慰安婦の強制連行の話も飛び出した。(高木健一著『従軍慰安婦と戦後補償』〈三一書房、1992年7月31日発行〉P115~)、(平林久枝編『強制連行と従軍慰安婦』〈日本図書センター、1992年5月25日発行〉P214~証言全文を収録)
★1983年7月31日 吉田清治著『私の戦争犯罪』(三一書房)の発行
★1983年10月19日 同日付夕刊の朝日新聞で吉田証言を報道~「韓国の丘に謝罪の碑 『徴用の鬼』いま建立
★1983年11月10日 同日付の朝日新聞で吉田証言を報道~「ひと 吉田清治さん」(のちに取り消し)
★1983年12月15日 吉田清治氏が韓国の「望郷の丘」に「謝罪の碑」を建立。
★1983年12月24日 同日付の朝日新聞で吉田証言を報道~「たった一人の謝罪 韓国で『碑』除幕式」(のちに取り消し)
★1984年1月17日 同日付夕刊で朝日新聞が吉田証言を報道~「連載 うずく傷跡 朝鮮人強制連行の現在⑴ 徴用に新郎奪われて」(のちに取り消し)
★1986年7月9日 同日付で朝日新聞が吉田証言を報道~「アジアの戦争犠牲者を追悼 8月15日、タイと大阪で集会」(のちに取り消し)
★1987年2月27日 川田文子『赤瓦の家——朝鮮から来た従軍慰安婦』(筑摩書房)の発行。その中で吉田証言を肯定的に引用している。
★1987年6月29日 韓国の盧泰愚大統領候補(民主正義党代表委員)が「民主化宣言」を発表
★1988年2月25日 韓国の大統領に盧泰愚氏が就任。(現在の民主制になる)
★1989年8月30日 同日付で、林えいだい著『消された朝鮮人強制連行の記録』(明石書店)発行。その中に吉田証言あり。吉田氏による「謝罪の碑」を建立についても言及。
★1989年11月 ベルリンの壁の崩壊など、東欧諸国の民主化
★1990年1月4日 同日付の「ハンギョレ新聞」を1回目として、同月中、4回にわたる連載で尹貞玉著「挺身隊(怨念の足跡)取材記」を掲載。その中で「吉田清治さんの戦争犯罪の告白」という見出しで、吉田証言を詳しく紹介している。(尹貞玉他著『朝鮮人女性がみた『慰安婦問題』〈三一書房、1992年8月15日発行〉で日本語訳を収録』
★1990年5月30日 参院予算委で竹村泰子議員(社会党)が、従軍慰安婦の調査要求
★1990年6月1日 参院内閣委で吉岡吉典議員(共産党)が朝鮮人強制連行、朝鮮人慰安婦14万人以上犠牲になった事など追及(新舩講演や、名前は出さないが、吉田証言にも言及)
★1990年6月6日 参院予算委員会で本岡昭次議員(社会党)が、強制連行の中に慰安婦がいたとのべ、調査を要求。清水職安局長「民間業者が軍とともに連れ歩いた」と答弁し、調査を拒否(当時は海部俊樹首相)
★1990年6月8日 同日付の「済州日報」(韓国語)で、「慰安婦」に徴用された3人の女性の目撃証言(住所・名前を明記)を紹介。「戦争末期に済州島の住民たちが日帝によって受けた苦痛は一つや二つではなかった。若者たちは、すでに強制徴用されたり、徴兵されたりして、サハリンや北海道の炭鉱、そして南洋群島の戦場に、送られていった。村ごとに違いはあったが、この頃、徴兵・徴用でかりだされた青年たちは、村当たり20~30人くらいになる。旧左面のある村でも、18~30歳の青年25人が徴用されているが、このなかには18~19歳の娘3人も含まれていたという村民の証言もある(12)。おそらくその娘たちは、いわゆる『挺身隊』と呼ばれた従軍慰安婦として送られたようである」「(注12)林基秋(67歳、旧左邑東金寧里)の証言」(「済民日報」四・三取材班著・文京洙など訳『済州島四・三事件』第一巻、1994年4月3日発行、P27、P509から。注は新聞連載では省略されていたという)
★1990年6月19日 同日付(大阪本社版)で、朝日新聞が吉田証言を報道~「名簿を私は焼いた 知事の命令で証拠隠滅」(のちに取り消し)
★1990年10月17日 韓国の遺族、女性団体が従軍慰安婦問題で総理あて公開書簡出す
★1991年5月22日 同日付(大阪本社版)で、朝日新聞が吉田証言を報道~「女たちの太平洋戦争 従軍慰安婦 木剣ふるい無理矢理動員」(のちに取り消し)
★1991年8月14日 金学順氏が「慰安婦」被害を公開で初めて証言
★1991年10月10日 同日付(大阪本社版)で、朝日新聞が吉田証言を報道~「女たちの太平洋戦争 従軍慰安婦 乳飲み子から母引き裂いた」(のちに取り消し)
★1991年11月5日 宮沢内閣発足
★1991年12月 ソ連邦の崩壊
★1991年12月6日 金学順氏ら韓国の「慰安婦」被害者らが日本政府に謝罪と賠償を求めて東京地裁に提訴
★1991年12月12日 政府が6省庁による従軍慰安婦に関する実態調査を開始
★1992年1月11日 同日付の朝日新聞が朝刊1面で「慰安所 軍関与示す資料」の記事を報道
★1992年1月13日 加藤紘一官房長官(宮沢内閣)が、日本軍の「慰安婦」募集への関与を認め、謝罪の談話発表
★1992年1月17日 同日付の「赤旗」日刊紙が「どうする宮沢首相 この事実 従軍慰安婦の徴集 在日朝鮮人からも——軍の要請で地方官庁が命令」と題する記事を掲載(のちに取り消された記事)
★1992年1月23日 同日付夕刊で朝日新聞が吉田証言を報道~「窓 論説委員会室から 従軍慰安婦」(のちに取り消し)
★1992年1月26日 同日号の「赤旗」日曜版が「衝撃の証言 軍の命令で私が狩り集めた 死ぬまで語り続ける」と題する吉田清治氏のインタビュー記事を掲載(のちに取り消された記事)
★1992年3月3日夕刊 同日付夕刊で、朝日新聞が吉田証言を報道~「窓 論説委員室 歴史のために」(のちに取り消し)
★1992年3月12日 参院内閣委で吉川春子議員(共産党)が加藤官房長官に従軍慰安婦の「強制連行」を認めるよう迫る
★1992年3月29日 同日から、秦郁彦氏が済州島の現地調査
★1992年4月 同月号の雑誌『ゼンボウ』に、上杉千年著「作り話『南京大虐殺』の数的研究」が掲載される
★1992年4月1日 参院予算委で吉川春子議員が従軍慰安婦の「強制連行」問題について加藤官房長官などに質疑。林えいだい著『消された朝鮮人強制連行の記録』(1989年8月30日発行)に記載の吉田証言も紹介しながら追及。現在調査中と答弁
★1992年4月30日 同日付の産経新聞で、秦郁彦氏の済州島の現地調査の要点が紹介される
★1992年5月24日 同日付の朝日新聞で、吉田証言を報道~「今こそ 自ら謝りたい 連行の証言者、7月訪韓」(のちに取り消された)
★1992年6月 同月号の『正論』で秦郁彦氏が済州島の現地調査のリポートを発表
★1992年7月6日 政府、「慰安婦」問題第1次実態調査結果発表、「強制連行」に関する資料はないという。同時に、加藤官房長官(宮沢内閣)が談話を発表、「慰安婦」問題で旧日本軍の関与を認め、「補償に代る措置」の検討を表明
★1992年7月 同月号の雑誌『諸君』に板倉由明著「朝日新聞に公開質問!阿鼻叫喚の強制連行は本当にあったのか? 検証『慰安婦狩り』懺悔者の真贋」が掲載される
★1992年8月 同月号の雑誌『諸君』に上杉千年著「吉田『慰安婦狩り証言』検証第2弾 警察OB 大いに怒る」が掲載される
★1992年8月13日 同日付の朝日新聞が吉田証言を報道~「元慰安婦に謝罪 ソウルで吉田さん」
★1992年9月 同月号の雑誌『自由』に上杉千年著「総括・従軍慰安婦奴隷狩りの『作り話』――元・共産党員、吉田清治氏の従軍慰安婦狩りの証言は、真実か。その証言を検証しつつ、その『偽証』を明確にする」が掲載される
★1992年11月6日 吉川春子参院議員(共産党)が質問主意書(宮沢首相宛)提出し、従軍慰安婦の強制連行の調査等を要求(吉田清治氏にも聞き取り調査をおこなうように要求)
★1992年11月27日 吉川氏への宮沢首相の答弁書 「(吉田証言などは)調査に当たり十分に参考にしてきている」とするものの、聞き取り調査は「均衡を欠く」「プライバシーの問題に触れかねない」「証言の真偽の判定が極めて困難」などの理由で、「(聞き取り調査を)行うことは考えていない」とした。
★1992年12月12日 宮沢改造内閣発足。官房長官に河野洋平氏就任。
★1993年4月5日 宋神道さんが「謝罪文交付」と「国会における公式謝罪」を求めて東京地裁に提訴
★1993年5月24日 吉見義明、上杉聰、川瀬俊治の3氏が吉田清治氏にインタビュー。上杉氏の経歴「部落解放研究所近現代部会」(1993年当時の著書の奥付から)。川瀬氏の経歴「1947年三重県生。大谷大学仏教学科卒業後奈良新聞入社、工務部勤務をへて編集記者、84年退職、84-99年解放出版社編集部員、99年退職、以降嘱託」(ネットから)。吉田清治氏の説明「産経新聞の攻撃への反論について——大阪に人権博物館があるが、あのグループで、元・奈良新聞編集長をやっていた人と吉見教授が、3、4カ月前にここにきて反論してほしいといってきた。私は『そんなことはやめなさい』と断った。そんなことやったって外務省や外政審議室にとってはなんともないんだよ…」(『吉田証言は生きている』P48)、「私のことが朝日新聞なんかに出ているころ、済州島のことを産経新聞の秦教授とかいうものが書いた、去年の春ですか、それ以後は朝日新聞が私の記事掲載を取材しなくなったんです」(『吉田証言は生きている』P53)
★1993年6月18日 宮沢首相が国会を解散。
★1993年7月18日 同日開票の衆院選で、自民党が過半数割れ。安倍晋三氏が初当選(旧山口1区・定数4)
★1993年7月30日 宮沢首相が自民党総裁を辞任。それを受けての自民党総裁選で、官房長官だった河野洋平氏が新総裁に選ばれる。
★1993年8月4日 宮沢内閣の河野洋平官房長官が談話(河野談話)を発表。あわせて、「慰安婦」問題での第2次調査結果を発表。河野談話(河野洋平内閣官房長官談話)「…慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、弾圧による等、本人たちの意志に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。…なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意志に反して行われた」
★1993年8月5日 宮沢内閣が総辞職
★1993年8月9日 非自民非共産の細川内閣が発足(社会党が与党に)
★1993年8月25日 衆院本会議で河野洋平自民党総裁が前日の細川首相の所信表明演説について代表質問。「(細川)総理は8月10日の記者会見で、さきの戦争について、私自身は侵略戦争であったと認識していると明言されました。この発言は明らかに、これまでの社会党などが主張するような戦後補償問題に対する見直しを前提にしたものと受け取られかねない発言であります。ところが、総理は所信表明演説では、一転してこの点について明言を避けられました。一体あなたの本音はどこにあるのでしょうか、明確にしておいていただきたいと思います」と追及。細川首相は「先ほど河野総裁も、自分自身、過去の歴史から決して目をそらせてはならないと考えているという趣旨の御発言がございましたが、私の発言は、いずれも、さきの戦争についての私の認識をお示しをしたもので、いわゆる戦後補償問題を前提とした発言ではございません。ちなみに我が国は、いわゆる戦後処理の問題につきましては、サンフランシスコ平和条約等関連条約に従って誠実に処理してきているところで、このような法的立場について見直しを行うことは考えておりません」と答弁した。
★1993年9月 同月号の雑誌『ゼンボウ』に上杉千年著「日本人として『教育を受ける権利は』何処へ――『従軍慰安婦』が教科書に!」が掲載される
★1993年10月4日~10月25日 今田真人が赤旗記者として、吉田清治氏に3回(対面2回、電話1回)にわたってインタビュー。細川内閣が「慰安婦」の戦後補償に否定的な国会答弁をしたことに吉田氏が怒る。以下、吉田氏の発言の引用。
「1993年8月末ごろになって、(社会党も入った内閣が、慰安婦の戦後補償を)絶対に出さんということを国会で。そういう基金も作らないと。しかも野党になった自民党の新しい総裁が、本会議で質問で戦後補償をやるのかやらんのかと、やりませんとはっきりね。それをいわせて、いわゆる日本の全政党(共産党をのぞく)が『やらない』と、世界中に明言した」(拙著『吉田証言は生きている』P70)
「(今田が『本の中に書いてある年月日は事実か』と質問し、それに対して)だいたい、当時、書くときに相当部下と相談して書いているから、間違いないです」(同P84)
「(今田が『フィクションのところはどこか』と質問し、それに対して)私以外の登場人物をフィクションにしているわけです。ところが、これは強制連行そのもの、被害者側からみたとき、それはだれであろうが、本人であろうが別の人間くっけてやろうが、いっさいの被害者の、自分が連行された、その日時、場所なんかは、被害者側からみたら全部、事実だ。加害者側としてごまかしているが、連行された被害者側からみたら全部、どこもウソはない。被害者側からの記述は全部。これだけは事実です」(同P84)
★1993年11月14日 同日付の「赤旗」日刊紙が今田が執筆した「国家の権力で『慰安婦狩り』 全羅道(南朝鮮)での実態リアルに 部落急襲 日本人警官が指揮——元山口県労務報国会下関支部動員部長 新証言」と題するインタビュー記事を掲載。(のちに取り消された記事)
★1994年1月25日 同日付の朝日新聞が吉田証言を報道~「政治動かした調査報道」(取り消された記事はこれで最後。合計18本を取り消し)
★1994年4月3日 同日発行の「済民日報」4・3取材班著『済州島四・三事件』(新幹社)第1巻で、「済民日報」1990年6月8日付の内容として、「慰安婦」にされたらしい徴用された娘が3人いたとの証言を日本語に翻訳して紹介している。
★1994年4月28日 非自民非共産(ただし社会党は発足直後に離脱)の羽田内閣が発足
★1994年6月30日 村山内閣(自民・社会・さきがけ連立)が発足。「社会党が政権に参加して、安保、自衛隊、小選挙区制問題などとともに、従軍慰安婦問題の個人補償などについての態度も、180度かわってしまった。侵略戦争とは認めず、個人補償は拒否し、『従軍慰安婦は商行為』などと公然と主張する議員を抱える自民党と足並みをそろえようとすれば、当然の帰結だろう」(吉川春子著『従軍慰安婦——新資料による国会論戦』1997年11月発行のP101)
★1994年8月31日 「戦後50年に向けての村山富市内閣総理大臣の談話」。
★1994年12月8日 吉川春子参院議員が村山富市首相に質問主意書。「政府は、国家責任による個人への謝罪と補償を行うべきである」「従軍慰安婦の強制連行について警察は重要な役割を果たしていることを示す報告すらある」と指摘し、「慰安婦」関連資料に警察庁保存分がないことについて「全く納得できない」とのべ、追及。
★1994年12月22日 村山富市首相が吉川氏に対する答弁書を提出。「いわゆる従軍慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であり、政府は心からの深い反省とおわびの気持ちを重ねて申し上げてきた。御指摘の『従軍慰安婦政策』について、引用された政府文書等から一般的に判断して国際法違反であったとすることは困難であると考える」「いわゆる従軍慰安婦の問題を含め先の大戦に係る賠償並びに財産及び請求権の問題については、我が国としては、サンフランシスコ平和条約、二国間の平和条約及びその他の関連する条約等に従って誠実に対応してきたことであり、政府として元慰安婦に対して個人補償を行うことを考えていない」「平成4年(1992年)7月6日及び平成5年(1993年)8月4日に発表したいわゆる従軍慰安婦問題に関する調査からは、所論のような認識を当時の政府が持っていたことを示す資料は見当たらない」。また、警察庁が「関係資料について誠実に調査したが、該当する資料はなかった」とのべる。
★1995年7月19日 「女性のためのアジア平和国民基金」(アジア女性基金)発足
★1995年8月15日 村山談話(閣議決定)
★1995年11月13日 吉川春子参院議員(共産党)ら4名の国会議員が質問主意書。警察関係の資料を公表せよと追及。「報道によると、自治省がビル建て直しのため民間ビルに引っ越しをするに当たり膨大な旧内務省関係資料がある事が判明した(1994年11月6日)。積み上げると1万5千メートルもあるというこの資料の中には警察関係、台湾総督府、朝鮮総督府関係の貴重な資料もあると思われる」と指摘している。
★1995年12月1日 村山富市首相が吉川氏らに答弁書提出。河野談話時(1993年8月4日)時の調査発表資料に警察庁からの発見資料はなかったが、「その後も、鋭意調査を続けてきたところであるが、発見に至っていない」とし、「事柄の性質上、その後も新しい資料が発見される可能性はあり、引き続き十分な関心を払ってきている」とのべた。
★1996年1月 社会党が社民党と改称
★1996年1月4日、クマラスワミ氏が国連人権委員会に最終報告書を提出(いわゆる「クマラスワミ報告」)。
★1996年1月11日 橋本内閣(自社さ連立)が発足
★1996年2月16日 参院予算委で吉川春子議員(共産党)がクマラスワミ報告の受け入れを橋本首相に迫る。橋本首相は「受け入れる余地がないものだ」と拒否答弁(吉川春子著『従軍慰安婦――新資料による国会論戦』P122)
★1996年3月10日以前 クマラスワミ報告に対して、吉見義明氏が書簡。「吉田氏の著書の『慰安婦』徴集の部分は、多くの疑問が出されているにもかかわらず、吉田氏は反論していません。…吉田氏が反論することは困難だと思われます。吉田氏の本に依拠しなくても、強制の事実は証明することができるので、吉田氏に関連する部分は必ず削除することをお勧めします」と削除まで要求している。(以上は1996年3月10日発行、日本の戦争責任資料センター『ラディカ・クマラスワミ国連報告書』の解説(荒井信一氏によるもの)
★1996年4月19日 国連人権委員会がクマラスワミ報告を採択(テーク・ノート)
★1996年5月2・9日 同日号の週刊新潮の記事に吉田氏がコメント(のちに、極右勢力がこれを、吉田氏自身が証言をフィクションと認めたとされるもの。実際はそんなものではないが)
★1996年9月27日 衆院解散。初の小選挙区制の総選挙を実施。
1996年11月7日 自民単独の第2次橋本内閣発足(社民・さきがけは閣外協力)
★1996年12月19日 警察庁が吉川春子参院議員の事務所に「慰安婦」問題の公文書を持参
★1996年12月20日 同日付「赤旗」の記事で、吉川春子参院議員が入手した、官憲による「慰安婦」強制連行を示す警察庁提出資料を報じる。
★1997年1月 上杉聰氏が論文の中で、クマラスワミ氏宛の吉見氏の書簡の内容について「吉田証言は根拠のない嘘とは言えないものの、『時と場所』という歴史にとってもっとも重要な要素が欠落していて、歴史証言としては採用できないというのが私の結論であるし、吉見教授も同意見と思われる。国連人権委員会のクマラスワミ特別報告者に対して吉見氏が、その報告書の価値を守るため、吉田証言を採用しないよう手紙を送ったのはそのためであった」と書いている。(『歴史地理教育』1997年1月号)
★1997年1月11日 「アジア女性基金」が韓国で7人の元「慰安婦」に償い金を支払う
★1997年1月15日 柳宗夏・韓国外相(金泳三大統領)が訪韓中の池田行彦・外相(橋本第2次内閣)に「アジア女性基金」の償い金の支給手続き開始について「きわめて遺憾」と批判し、開始の撤回と手続きの中断を求める
★1997年2月3日 同日号の「赤旗評論版」で、八木絹著「旧内務省資料でわかった『従軍慰安婦』の実態」を掲載
★1997年2月27日 「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」(代表・中川昭一、事務局長・安倍晋三)が設立される
★1997年3月9日 産経新聞「強制連行の証拠なし」キャンペーン。河野談話を「作成」した石原元官房副長官の証言を根拠に。(吉川春子著『従軍慰安婦——新資料による国会論戦』1997年11月発行のP238)
★1997年3月20日 アジア女性基金編『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』➀、②、③巻同時発行。同➀巻に警察庁が吉川春子参院議員に提出した内務省警保局関係の復刻資料を掲載する。
★1997年3月26日 「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」の第5回の勉強会に、吉見義明氏(中央大学教授)が講師として出席、以下のように発言。
「強制連行はなかったかどうかということが非常に大きな焦点になっております。しかし、私は何が問題かということを考える場合に、強制連行ということだけを取り上げるのは少し問題を狭くするのではないかというふうに考えております。3つぐらいの問題があると思いますが、一つはどういう形で女性たちが連れてこられたにせよ、慰安所で強制があったということが問題になるのではないかと思います。資料の一番目で見ていただきたいと思いますが、平成5年(1993年)8月4日の河野洋平官房長官の談話をここに引用させていただきました。…『当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行なわれた』というふうに広くとっているわけであります。…元にもどりますけども、もっと広くとらえることが必要であるということだろうと思うんですね。慰安所における強制が問題であるということです」(本P180・181)
「徴募時の強制はどうであったのかということです。朝鮮半島や台湾では、『官憲による奴隷狩りのような連行』があったかどうかということは資料では確認できないのが現状であるということであります。私どもはこういう『官憲による奴隷狩りのような連行があった』ということはこれまでずっと言ってきておりません。問題は、それでは戦争中の朝鮮半島や台湾での状況はどうであったのかということですけれども、実は政府所管の資料の中にそういうものがたくさんあると思いますが、それが公開され、調査されていないからいろんな議論が出てくるということだと思うんですね。もしそれが公開され、調査されればこの点は非常にはっきりすると思います。その結果、あったかなかったかということがはっきりするのではないでしょか。なかったということがはっきりする可能性も非常にあるわけでありまして、これは調査してみる必要があるのではないかというふうに私は思います。それから狭い意味の強制連行ではなくて広い意味での強制連行はあったということは、ほぼ意見の相違はないのではないかと思います」(本P184)
「教育内容について政治が介入するということについては、できるだけ自制をしていただきたいというふうに私は思います。と申しますのは、何が事実であるのか、何が真理であるのかということは、多数決になじみませんので、その点はぜひ慎重にしていただければというふうに思うわけであります」(本P191)
「私どもも吉田証言が正しいというふうには言っていないわけですね。私の書きました本『従軍慰安婦』でも吉田証言は一切取り上げておりません。それから元慰安婦の証言でも信用できないというものについては、一切取り上げていないわけです。そのうえで実証していくとどういうことになるかということを先程のとおり申し上げた」(本P224)
「その点については『いま分かっているのはここまでです』ということをちゃんと教えていく必要があると思うんですね。それで吉田清治さんのような事態が実際にあったのかどうなのかということについては、まだなかったというふうに完全に断定できるところまではいかないと思うんですね、一件もなかったかということにすると、そのへんが非常にあいまいではっきりしないというのは、政府がもっているはずの総督府関係の資料にあるかもしれない。警察関係の資料の中にもそういうものがあるかもしれないと思うんです。これまで警察庁には1点もないというふうな答弁だったわけですが、去年幾つか出てきたわけですから。ですから、それはどういう立場に立つにせよ、事実関係をはっきりさせるという意味で、こういうものを含めて調査してみたらどうでしょうかというのが私のご提案したいことなんです。その結果、吉田清治さんが言っていることはないということがはっきりする可能性もあるわけですよね。あるいは、幾つかの例でそういうことがあったという例が出てくるかもしれないですけれども、それはどちらになっても仕方のないことであって、あいまいに放置するよりも、事実関係をきちんと調査することが大事なんじゃないかなというふうに私は思っています」(本P243)
★1997年3月26日 「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」(代表・中川昭一、事務局長・安倍晋三)の第5回の勉強会に、藤岡信勝氏(東京大学教授)が講師として出席、以下のように発言。
「(吉田清治著の『私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行』の記述の一部を読み上げたあと)こういう劇画タッチの本が出版されたわけであります。そしてこれが朝鮮人の慰安婦の女性が東京地裁に提訴したという報道と前後して、急速にクローズアップされてまいりました。そして朝日新聞はこの本を論説委員が勇気ある証言として繰り返し紙面で褒める。そういうふうな状況で、これは完全にオーソライズ(正当化)されてしまう。新聞によって事実として通用するようにされてしまったわけであります。ところで実際にはどうであったか。千葉大学の秦郁彦先生が済州島に調査にでかけましたら、これは真っ赤な嘘だった。まったく事実でないということが暴露されてしまったわけであります。そして秦先生が調査にお出掛けになる前にこの本が——こういう表紙ですが——韓国語に翻訳されましたので、この翻訳書を読んだ済州島の地元の済州新聞の記者が独自に調査をしておりました。そして、そんな事実はまったくない、これは日本の悪徳商法ぶりを示す道徳心に欠けた本だという結論を下して記事を書いていたわけであります。実は吉田清治という人物は、昨年(1996年)の5月に週刊誌のインタビューに答えて、これがフィクションであるということをほとんど認めております。本人も認めているつくり話、これが韓国語に翻訳されて済州島の人は嘘であることを知っている。しかし、韓国本土の人はこの本を読んで、未だにこれを丸ごと信じきっているわけです。そして、日本人は朝鮮人の女性を凌辱したといって拳を振るって糾弾している」(本P198)
★1997年3月31日 同日付の朝日新聞の特集記事で、吉田証言が虚偽だという確証がなかったため、「真偽は確認できない」と書く
「(吉田証言は)慰安婦訴訟をきっかけに再び注目を集め、朝日新聞などいくつかのメディアに登場したが、間もなく、この証言を疑問視する声が上がった。済州島の人たちからも、氏の著述を裏付ける証言は出ておらず、真偽は確認できない。吉田氏は『自分の体験をそのまま書いた』と話すが、『反論するつもりはない』として、関係者の氏名などデータの提供を拒んでいる」
★1997年4月 同月号の『噂の真相』が、藤川四郎著リポート「教科書批判派の支柱・秦郁彦の知られざる破廉恥な過去の行状――大蔵官僚時代に女性問題で『週刊新潮』(1973年5月24日号)のスキャンダルになった過去が…。」を掲載
★1997年4月1日 4月から使用の中学校の教科書全てに「従軍慰安婦」載る
★1997年6月24日 吉見義明氏が共著『「従軍慰安婦」をめぐる30のウソと真実』を発行、その中で「(1993年5月に吉田清治氏にインタビューしたことを紹介し、吉田氏に動員命令書が書かれた妻の日記を公開したらどうか、日記がないのであれば、著書を訂正せよ、と迫ったが、拒否されたとし、また吉田氏が『回想には日時や場所を変えた場合もある』と述べたとして)そこで、私たちは、吉田さんのこの回想は証言として使えないと確認するしかなかった。なお、私は、1991年から慰安婦問題の研究を始めたが、この間、吉田さんのこの証言はいっさい採用していない。証言としてかんじんな点となる場所や前後関係に変更が加えられているとしたら、済州島での慰安婦『徴用』にかんする吉田証言を、事実として採用するには問題が多すぎる、というほかない」などと全面否定している。
★1997年11月1日 吉川春子『従軍慰安婦——新資料による国会論戦』発行。この中で警察庁から提供された新資料を紹介
★1998年7月20日 アジア女性基金編『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』④、⑤巻同時発行。これで全5巻発行が完結。同④巻に、1944年度の「内地樺太南洋移入朝鮮人労務者供出割当数調」という、朝鮮13道ごとの供出割当数の一覧表が掲載される。男女合計30万人の内訳の1万人が朝鮮人女性であり、「樺太南洋」向けの人数も同じ1万人となっているので、この1万人が「慰安婦」にされた朝鮮人女性と考えられる。(週刊金曜日2015年12月11日号の拙稿「朝鮮人女性『年間1万人』強制連行の動かぬ証拠」や、共著『「慰安婦」問題の現在』(2016年4月)の拙稿で紹介)
★2000年7月 吉田清治氏が死去(朝日新聞などがのちに調査した結果であるが)
★2000年10月 参院に共産・民主・社民が「戦時性的強制被害者問題の解決促進に関する法律案」提出(以後、7回提出)
★2000年12月8日~10月12日 女性国際戦犯法廷開廷
★2001年1月30日 NHKのETVが大幅に改変した女性国際戦犯法廷の特集を放送(改変して削除した時間枠に秦郁彦氏のインタビューを入れる)
★2001年7月24日 VAWW-NETジャパンがNHKなどを相手に、上記の番組改編で東京地裁に提訴
★2004年3月24日 NHK番組改編裁判の第1審判決、一部勝訴。
★2005年1月12日 同日付の朝日新聞が、NHK番組改編で自民党の中川氏や安倍氏らの事前圧力があったとする記事を掲載
★2005年9月1日 月刊現代9月号 魚住昭氏の記事掲載「衝撃スクープ、証言記録を独占入手!NHKvs.朝日新聞『番組改変』論争——『政治介入』の決定的証拠——中川昭一、安倍晋三、松尾武元放送総局長はこれでもシラを切るのか」
★ 2006年9月26日 第1次安倍内閣発足
★2007年1月29日 NHK番組改編裁判の控訴審で原告勝訴
★2007年3月16日 安倍政権が「軍や官憲による強制連行を直接示す証拠はない」などと主張する政府答弁書を閣議決定(辻元清美衆院議員の質問主意書に対するもの)
★2008年6月12日 NHK番組改編裁判の上告審(最高裁)で不当判決
★2009年9月16日 非自民非共産の鳩山内閣発足
★2011年8月 韓国憲法裁が、「慰安婦」被害者の賠償請求権をめぐり、韓国政府が日本側と交渉する努力をしないのは違憲と判決
★2011年12月14日 韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)が在韓日本大使館前に少女像を建立
★2012年11月16日 民主党の野田首相が衆議院の解散を決定
★2012年11月30日 日本記者クラブ主催の党首討論で、朝日新聞の星浩(ほし・ひろし)記者が「従軍慰安婦問題についての河野談話についての河野談話の見直しを掲げられておりますが、この問題は法律事項でもありませんので、やろうと思えば、政権発足後すぐにでも内閣の閣議で、ある程度の了解がとれればできるわけですが、河野談話の見直しのスケジュールについて聞きたい」と質問。安倍晋三・自民党総裁が次のように答えた。「河野談話については閣議決定されたものではない。安倍政権においてそれを証明する事実はなかったということは閣議決定しています。そもそも星さんの朝日新聞の誤報による、吉田清治という、詐欺師のような男がつくった本が、まるで事実かのように、これは日本中に伝わっていったことで、この問題がどんどん大きくなっていきました。その中で、はたして人さらいのように連れて来た事実があったかどうか、ということについては、それは証明されていない、ということを閣議決定しています。ただ、そのことが内外にしっかり伝わっていないということを、どう対応していくか。ただ、これも対応の仕方については真実いかんとは別に、残念ながら外交問題になってしまうんですよ。ですから、新聞社のみなさんにも、そこは慎重になってもらわなければならないと思いますよ。そこで、われわれはこれをどう知らしめていくかということについては、有識者のみなさま方の知恵も借りながら考えて行くべきだろう、と思っています」
★2012年12月4日 衆院選挙の公示
★2012年12月16日投開票の衆院選挙で、自民党大勝、民主党大敗
★2012年12月26日 第2次安倍内閣発足
★2013年8月28日 同日付夕刊の毎日新聞で、河野談話と村山談話の作成に内閣外政審議室長として関わった谷野作太郎氏(当時77歳)にインタビュー。「私の韓国の友人。この人は日本の学校を出た人で私と同じ年ですが、彼は『子供のころ、自分の村では年ごろの娘を外に出すなと言われたものだ。それでも彼女らが横付けされたトラックに乗せられ、泣き叫びながら連れ去られていくのを目にしたことがある。そこにはオマワリやヘイタイもいた…』と。竹島(韓国名・独島)の話では冷静さを保つ彼も、この話になると大変感情的になります」と話し、吉田清治型の「慰安婦狩り」があった話を肯定的に紹介している。
★2013年10月16日 同日付の産経新聞が、河野談話の根拠になった政府の韓国人元「慰安婦」16人の聞き取り調査報告書を入手したとする暴露報道
★2014年2月28日 菅義偉官房長官は28日午前の衆院予算委員会で、従軍慰安婦問題をめぐり旧日本軍の関与を認めた1993年の河野洋平官房長官談話の作成経緯を調べるチームを政府内に新設する方針を表明した。「政府内に秘密の中で検討チームをつくり、もう一度掌握する」と述べた。談話を作成する根拠となった元慰安婦の証言の検証に関しては「極めて難しいが、どんな状況だったのか、秘密が保持されるなかで政府として確認する」と語った。日本維新の会の山田宏氏への答弁。
★2014年3月15日 同日付「しんぶん赤旗」に共産党の志位和夫委員長名の論文「歴史の偽造は許されない——『河野談話』と日本軍『慰安婦』問題の真実」を発表。「政府であれ、軍であれ、明々白々な犯罪行為を指示する公文書などを、作成するはずがありません」などとし、「慰安婦」の強制連行を示す公文書は存在するはずがないと断言している。一方、「『強制連行を直接示す記述はなかった』とする政府答弁書は、事実と違う」という小見出しの項で、強制連行を示す証拠として、オランダ女性の強制連行にかかわる公文書と、中国南部の桂林での強制連行を示す東京裁判の判決文をあげているが、植民地・朝鮮での朝鮮人女性の強制連行を示す公文書の存在を逆に否定するものになっている。のちの吉田証言否定につながる記述としては、一部メディアが入手した16人の元「慰安婦」の聞き取り調査の文書について「政府は真正なものと認めていません。…私たちの見解では、真偽がさだかでない文書をもとにした『河野談話』の攻撃は、相手にしておりません。相手にするだけの値打ちもないということです」と言明している。あやうい認識である。
★2014年4月25日 政府の「「河野談話作成過程等に関する検討チーム」が準備会合を開催。以降、同メンバーで4回の会合をもつ。
★2014年6月20日 安倍政権の内閣官房と外務省が事務局となっている「河野談話作成過程等に関する検討チーム」が報告書を発表。チームの5人のメンバーの1人に秦郁彦氏がいる。同メンバーは「秘密保全の確保の観点から…非常勤の国家公務員」とされ、「(河野談話作成の際)当時の政府が行った元慰安婦や元軍人等関係者からの聞き取り調査も検討チームの閲覧に供された」と報告書に明記されている。「(河野談話作成の際の韓国側との事前調整で)日本側は…いわゆる『強制連行』は確認できないという認識に立ち…河野談話の文言を巡る韓国側との調整に臨んだ」(報告書P12)とのべ、河野談話や同談話の発表(1993年8月4日)時の河野官房長官の記者会見との矛盾を事実上批判。河野官房長官が記者会見で、「強制連行の事実があったという認識なのかと問われ、『そういう事実があったと。結構です』と述べている」(報告書P13)とし、暗に河野官房長官が政府の方針に反して、韓国側に妥協したかのような報告になっている。なお、のちに市民団体のメンバーの一人が明らかにした河野談話発表時の内閣外政審議室の「想定問答集(調査結果発表)」(確認必要な文書、現時点では出せない)では、その「問15」に「加害者側からの話を聞いたのか。その内容いかん」というものがあり、答えとして「元軍人や元慰安所経営者といった人々の話は聞いたが、その個々の内容を公表することは差し控えたい。しかし、うかがったお話については、当方としても十分に参考にさせていただいた」としている。また、「更問」として「吉田清治氏から話を聞いたのか。その内容をどのように判断したか」があり、「答」として「吉田清治氏からもお話を聞いたが、その内容を公表したり、コメントしたりすることは避けたい」と書いている。
★2014年8月5日 同日付の朝日新聞が吉田証言を取り消す「検証記事」を発表
★2014年8月6日 同日付の朝日新聞に、前日の同紙の「検証記事」を肯定する2人の識者、秦郁彦氏と吉見義明氏の談話を載せている。
★2014年8月10日 フジテレビ「新報道2001」、朝日新聞の吉田証言の「検証記事」を受けて討論。共産党の小池晃副委員長が出演。小池氏「吉田証言はまったく信ぴょう性がない」「クマラスワミ報告は…確かに吉田証言は出てきます。そのあとで、何が出てきているかというと、千葉大学の秦郁彦博士が吉田証言を否定しているということもちゃんと紹介されているわけです。紹介してそれを踏まえて、結論出している」「河野談話には、ああいう暴力的な連行などということは書いてないじゃないですか。吉田証言を河野談話は採用していないんですよ」
★2014年9月11日 同日付の毎日新聞は、朝日新聞の「検証記事」を受けて「『吉田証言』のような軍の組織的強制連行があった」というのは「誤解」などとのべ、事実上、同証言を虚偽とする特集記事を掲載。また、秦郁彦氏の談話を掲載し、「朝日新聞が『吉田清治氏の「慰安婦狩り」証言は虚偽だった』と認め、記事を取り消した点は、遅きに失したとはいえ、評価すべきだと思います」といわせることで、毎日新聞が吉田証言を否定する立場であることを明らかにしている。ただ、談話のとりまとめにあたった当時の内閣外政審議室長、谷野作太郎氏(元駐中国大使)のコメントを取っており、谷野氏は「(吉田清治氏は)当時有名人になっていて、外政審議室の若い人たちが2回ほど会ったが、興奮して話にならなかったので採用しなかった」とのべたとしている。谷野氏は吉田証言が「信ぴょう性がない」から、河野談話に採用しなかったのではなく、吉田氏が政府の聞き取りにたいして「興奮して話にならなかったので採用しなかった」と事実を明らかにしたのは重要である。
★2014年9月27日 同日付の「しんぶん赤旗」が吉田証言を取り消す論文「歴史を偽造するものは誰か——『河野談話』否定論と日本軍『慰安婦』問題の核心」を発表
★2014年11月17日 同日付の北海道新聞が吉田証言を取り消す特集記事を発表
★2014年12月15日 同日付発行の『季刊 戦争責任研究』2014年冬季号に上杉總氏の論文「拉致事件としての『慰安婦』問題」を掲載。吉見・上杉氏らによる吉田清治氏のインタビュー内容の文字起こしを公表、吉田証言全面否定した朝日新聞「検証記事」を批判。
★2015年4月10日 今田真人著『緊急出版・吉田証言は生きている』発行
★2015年6月16日 日本共産党書記局から、今田真人に対して同日、除籍確定通知がくる
★2015年6月26日 同日号の「週刊金曜日」で、「『吉田証言』は本当に『虚偽』なのか!?」と題する、西野瑠美子氏と今田真人の対談の記事が掲載される
★2015年6月26日 同日号の「週刊金曜日」で、吉方べき著「知られざる済州島地元紙の『吉田証言』報道の中身」が掲載される
★2015年6月27日 バウラックセミナーが開催され、拙著『吉田証言は生きている』について今田が報告
★2015年12月11日 同日号の「週刊金曜日」で、今田著「朝鮮人女性『年間1万人』強制連行の動かぬ証拠」が掲載される
★2015年12月28日 「慰安婦」問題で日韓合意。日本の外務大臣の岸田文雄(安倍内閣)と韓国の外交部長官の尹炳世(朴槿恵大統領)による外相会談後に記者会見で発表
★2015年12月29日 日本共産党の志位和夫委員長が日韓合意について「問題解決に向けての前進と評価できる」とする談話を同日付「赤旗」日刊紙に掲載。与党の自民党や公明党、野党の民主党、維新の会も評価する見解を発表
★2016年4月19日 今田真人著「『吉田証言』は本当だった——公文書の発見と目撃証人の登場」を発表(同日発行の前田朗編『「慰安婦」問題の現在——「朴裕河現象」と知識人』所収)
★2016年9月18日 『新潮45』9月号で、大高未貴著の記事「『吉田清治』長男、衝撃の告白『慰安婦像をクレーン車で撤去したい』 慰安婦問題を作った男の肖像」を掲載。大高氏はのちに、この内容を単行本にして出版。
★2017年6月7日 大高未貴著『父の謝罪碑を撤去します——慰安婦問題の原点「吉田清治」長男の独白』(産経新聞出版)発行
★2017年11月24日 同日号の「週刊金曜日」で、今田著「外交史料館から新たな「慰安婦」文書12点発見」が掲載される
★2018年2月15日 今田真人著『極秘公文書と慰安婦強制連行——外交史料館等からの発見資料』を発行
★2019年12月14日 「嫌韓ナショナリズムと植民地主義」と題して今田の講演会が開かれる(研究所テオリア主催)
★2021年4月27日 菅義偉首相の「衆議院議員馬場伸幸君提出『従軍慰安婦』等の表現に関する質問に対する答弁書」。
——「政府としては、慰安婦が御指摘の『軍より「強制連行」された』という見方が広く流布された原因は、吉田清治氏(故人)が、昭和58年(1983年)に『日本軍の命令で、韓国の済州島において、大勢の女性狩りをした』旨の虚偽の事実が、大手新聞社により、事実であるかのように大きく報道されたことにあると考えているところ、その後、当該新聞社は、平成26年(2014年)に…『吉田清治氏の証言は虚偽だと判断した』こと等を発表し、当該報道に係る事実関係の誤りを認めたものと承知している