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(2016年4月12日からカウント)


☆論評「『賃金の下落がデフレの原因』論の荒唐無稽」

 (2012年8月5日初稿、何回かの改定後の8月8日に確定)
           経済ジャーナリスト 今田真人

 「賃金の下落がデフレの原因」とする主張が最近、横行しています。
 その代表的な主張が、富士通総研がホームページで発表した「米国は日本のようなデフレにはならない」という論文(2010年8月13日発表)です。
 ここでは、この論文を取り上げる形で批判していきたいと思います。理論的な考察のための論評であり、この論文筆者の名誉を傷つけることが目的ではないので、ご了承ください。

 
〈賃金と価格は連動しない〉

 富士通総研の論文は、「賃金が下がれば、勤労者は購買力を失う。そのため企業は価格を下げて販売量を維持しようとする。価格が下がれば生産性の向上がない限りコストを下げるための賃金のカットが避けられない。こうしてデフレと賃金下落のスパイラル(悪循環)が続いている」と主張します。
 この主張の1番目の因果関係「賃金が下がれば、勤労者は購買力を失う」は、そのとおりです。
 ただし、労働者の賃下げは、同時に企業(資本家)の収入の増加になります。この主張は、この因果関係を意図的に隠しているだけに、強調しておきます。この問題は、あとでも取り上げます。
 問題は、2番目の因果関係「そのため企業は価格を下げて販売量を維持しようとする」です。
 率直にいって、勤労者の購買力が失われると(国民の需要が減少するということでもありますが)、企業が、その商品価格をそのまま下げるという因果関係は、現実には、あまりありません。
 一見、そういうふうに見える商品もありますが、それは、実質的に商品の中味を少なくしているのです。
 あるいは、格安バスの料金などのサービス商品の場合、安全確保のための支出を削るなど、サービス内容の質を落としているのです。
 例えば、ある企業が、たこ焼きを100箱売りたいとしましょう。
 1箱を200円で売っていたけれども、勤労者の購買力が少なくなると、なかなか1箱200円では売れません。
 そこで、1箱を150円に値下げして売ることにしました。
 この企業は、100箱を売るという計画ですから、こういう値下げをすれば、販売量もおそらく維持できるでしょう。
 しかし、この企業は、価格を値下げする際に、いままで1箱20個のたこ焼きが入っていたのを、そっと1箱15個入りに減らしたとします。これは、箱の外からは見えません。
 つまり、表面的に価格を下げたけれども、たこ焼き1個の価格は据え置いています。
 この例で示した、たこ焼き1個の価格こそ、マルクス主義経済学でいう、商品の価値なのです。
 この商品の本当の価値は下がっていないのです。
 一般的に、勤労者・消費者の購買力が弱くなる場合、企業、とりわけ、大企業が行うのが、こうしたトリック的な「商品価格の引き下げ」です。
 マルクス主義経済学では、商品の価格は基本的に、労働者が生産時に投入した平均的な労働の量(価値)で決まると考えます。
 この仕組みを、一般的ないい方でいうと、商品の価格は基本的に、適正に計算された生産コスト(以下、適正価格という)で決まるということです。
 そして、商品の価格は、その適正価格を中心に、需要と供給の力関係で若干上下するだけです。
 いくら需要が少ないからといっても、企業が、商品の適正価格を考えずに、商品価格を継続的に下げ続けるということはありません。
 あるとすれば、需要が少ないからではなく、先のたこ焼きの例のような、別の原因があるからです。
 いまだに流布されている俗論に、物価(商品の価格)は需要と供給で決まるというものがありますが、これはすぐに見破ることができる誤った理論です。詳しくは、マルクス『賃金、価格および利潤』〈注1〉をお読みください。
 もし、需要が少ないからといって、企業が商品価格を下げ続けるなら、その商品はすぐにコスト割れになり、企業は赤字になります。売れば売るほど赤字になる商売をする企業は、ありません。
 そういう場合、その企業は商品の販売を中止し、商品の中身の構成を変えるなど、いろいろな別のやり方を試みるでしょう。
 現実問題として、勤労者のふところが冷えているからといって、トヨタ自動車などの大企業が、1台100万円もする自動車を、「モデルチェンジ」(商品の中身を事実上変えること)もせずに、どんどん、90万円、80万円と、継続的に値下げをしてくれるでしょうか。
 日本の大企業は、コスト無視の値下げサービスをするほど、勤労者・国民に、やさしく甘かったでしょうか。
 大企業の利潤本位の姿勢に苦しめられてきた多くの日本国民は、そんな理屈を信じるほど、お人よしではありません。


 〈賃金カットは何の根拠もない〉

 では、3番目の因果関係「価格が下がれば…賃金のカットが避けられない」は、どうでしょうか。
 そもそも、労働者が生産する商品の価格(価値)の変動と、労働者の賃金(労働力の価値)のアップ・ダウンとは、直接的な関係はありません。このことは、マルクス主義経済学のイロハです。〈注1〉
 商品の価格(価値)=売上高=は、その商品の生産に投入された労働の量(労働時間で測る)で決まります。
 一方、労働者の賃金は、「総売上高」が「労働者の賃金」と「資本家の収入(株主配当・役員報酬・銀行への支払い利息など)」にどう分配されるかという問題であり、労働者と資本家のたたかい、いわば階級闘争で決まるものです。
 需要不足で商品価格が若干下がっても、その商品の価値は変わりません。
 この商品1単位を生産する労働者の労働の量も、変わりません。
 需要不足で1単位の商品価格が下がり、総売上高が若干減ったとしても、労働者の賃金(労働力の価値)を下げる根拠はなく、資本家の収入を若干減らせばいいだけのことです。
 先の1番目の因果関係「賃金が下がれば、勤労者は購買力を失う」のところで触れたように、賃金を引き下げた際に、資本家は収入を増やしています。
 今回、総売上高の減少で資本家の収入が若干減っても、それをあてればいいはずです。
 このように考えれば、商品価格の下落を理由にした賃金の引き下げは、何の根拠もなくなります。


 〈「スパイラル」は虚構〉

 次に、最後の因果関係「こうしてデフレと賃金下落のスパイラルが続いている」を考えましょう。
 ちなみに、この論文は、「デフレ」を「物価下落」と同じ意味で使っていますが、これは正確な用語法ではありません。
 この点は、筆者の別の論評「日本の物価下落をなぜ、デフレと呼んではいけないか」で指摘していますので参照ください。
 したがって、ここでは、最後の因果関係を「こうして物価下落と賃金下落のスパイラルが続いている」に言い換えます。
 第2と第3の因果関係が成り立たないことがわかったいま、最後の因果関係も、根拠のない、まったくの虚構となります。
 いまの日本で、物価が下落している本当の原因は、賃下げではなく、中国などからの超低価格の輸入商品の影響にあります。
 価格が下落している商品の種類をよく見ると、中国など海外から輸入(逆輸入)される日本の大企業の商品であり、それと競合する同種類の国産商品であることがわかります。
 そうした逆輸入商品と競合する国産商品は、再生産が困難になり、生産を縮小せざるをえなくなっています。
 この構図が、農産物の場合では、「食料自給率の低下」という深刻な事態を引き起こしています。
 同じように、工業製品の場合では、「産業の空洞化の進行」という事態を引き起こしています。
 筆者の新著『円高と円安の経済学』で詳しく解明していることですが、中国などの海外で生産した商品の、逆輸入後の価格が低価格なのは、外国為替の「市場レートと購買力平価の乖離」によるものです。
 これによって、海外進出している日本の大企業・多国籍企業は、巨大な利益を手にし、史上空前の内部留保を蓄えています。〈注2〉
 労働者の賃下げなど、とんでもありません。
 日本の大企業・多国籍企業は、その巨額の内部留保を取り崩し、最低水準ぎりぎりで生活する日本国内の労働者の賃金を、すぐにでも大幅にアップすべきです。
 それなのに、「価格が下がれば、…賃金カットが避けられない」と平然という、この主張は、まったくいただけません。
 この論文の筆者の立場が、日本の大企業・多国籍企業の経営者(資本家)と同じなのではないかと疑いたくなります。


 〈逆輸入の影響をGDP比で測るインチキ〉

 ところで、この論文の特徴は、中国からの逆輸入商品との競合など、いまの日本の多国籍企業の国際的な活動を、まったく考慮に入れていないことです。あたかも、日本一国内で、賃下げと物価下落の悪循環が起こっているかのような主張です。
 この論文の筆者は、なぜ、これを考慮に入れないか、その理由を次のように説明しています。
 いわく、「(日本の物価下落が続いていることについて)よく聞かれる説明に、グローバリゼーションが進行して中国やアジアの国々から安い輸入品が入ってくるとか、…ということが挙げられる。だがこのようなことは日本だけで起こっていることではない。米国でも欧州でも中国やアジアからの安物は溢れかえっている。これらの国における中国からの輸入品はGDP(国内総生産)比で概ね2%で、日本と大差ない。したがって日本のデフレはグローバリゼーションの影響と結論付けることは出来ない」。
 この論文は2010年8月時のものですから、こういう説明でも、あるいは、経済の素人をだますことができたかもしれません。
 しかし、2011年から2012年にかけての欧州経済危機の進行は、欧州の多国籍企業が自国経済にもたらしている中国など途上国からの逆輸入の打撃が、どんなに深刻なものであったかを明らかにしつつあります。〈注3〉
 また、中国からの輸入品の打撃をGDP比で比較するやり方も、乱暴な分析です。
 農水産物や食料品などの多様な逆輸入品が、とりわけ日本市場で、異常な価格競争力を持つのは、同種の国産品と比べて、10分の1、20分の1といった超低価格だからです。
 中国と日本、中国と欧州の地理的距離を考えてください。日本にとって中国は、国内の各都市間の距離とそんなに違いがないほど、近距離です。
 そうすると、輸入商品の輸送費は、日本の場合、格段に安くなります。また、輸送時間も格段に短くなります。
 安い輸送費と短い輸送時間で価格競争力や鮮度を持つ、生鮮野菜や鮮魚といった逆輸入品が、欧州と比べて、はるかに日本経済・農業に打撃を与える理由がわかります。
 また、中国からの逆輸入商品が低価格であればあるほど、日本のGDPに対する比率が小さくなることは、小学校の算数でもわかることです。
 こうした金額ベースのGDP比が、日本と欧州で同じだからといって、その影響がないと断定するのは、あまりに荒唐無稽な分析ではないでしょうか。 


 〈サービス価格は賃金に連動するか?〉

 話は少し横道にそれますが、富士通総研の論文は、「賃金が下がれば…価格が下がる」という因果関係の説明で、「勤労者は購買力を失う」云々という経路とは違う、別の経路「サービスの価格は直接的に賃金と連動する。人件費が下がればサービスの価格は下がる」という独特の主張をしています。
 消費者物価統計では、このサービス価格が大きな割合を占めているので、日本のように賃金(人件費)が下がるような国は、米国のように賃下げをしない国と比べて、物価下落がより加速するというのです。
 この「サービスの価格は直接的に賃金と連動する」という理論は、本当でしょうか。
 先に紹介したように、サービスであろうが、モノ(財)であろうが、あらゆる商品の価格は、その商品に含まれる「労働の量」、すなわち価値で決まるというのが、マルクス主義経済学の基本的見地です。
 サービスという商品が、例外ということはありません。
 このことを、サービスという抽象的な言葉でなく、消費者物価統計の分類品目で、具体的に考えましょう。
 その分類品目の一覧表を見ると、「サービス」の中に「医療・福祉関連サービス」とか、「外食」、「運輸・通信関連サービス」、「教育関連サービス」などの業種が並んでいます。
 例えば、運輸でいえば、JRの運賃が身近な例でしょう。
 1区間の乗車料金の変動が、直接的にJR労働者の賃金の変動に連動しているでしょうか。
 サービスという商品も、企業が労働者を雇って提供している以上、企業がサービスのコスト計算をし、「適正価格」を決めています。
 労働者の賃金は、乗車料金の変動とは別の論理、つまり、労働組合などによる経営者との賃金交渉などで決定されています。
 「サービスの価格は直接的に賃金と連動する」という富士通総研の理論は、実態とは違う暴論といわざるをえません。
 それだけでなく、富士通総研の論文は、最後の方に、次のような文が出てきます。
 いわく、「中小企業の多い流通、サービス業では、非効率的な企業が低賃金に支えられて市場に残り、わが国産業全体の生産性向上と産業構造の革新を遅らせる元凶になっている」。
 つまり、この論者は、「賃金の緩やかな上昇」を主張するようにみせかけて、実は、サービス業などの中小企業を「産業構造の革新を遅らせる元凶」とみなし、その市場からの排除(淘汰)の必要性を訴えているのです。
 しかし、勤労者の購買力を本当に高めようと思うなら、中小企業の淘汰など論外です。
 いまの中小企業に、商品価格の下落を強いているのは、中国などに進出して低価格の逆輸入商品を持ち込んでいる日本の多国籍企業です。
 サービス業などの中小企業も例外ではありません。
 ここでは、もう多くは説明しませんが、サービス業の一つ、航空業界にも同じ構図があります。
 航空運賃の値下げ競争は有名な話ですが、その背景に、中国人乗務員が働く某航空会社の参入があります。
 また、国内大手航空会社の飛行機整備コストの引き下げが、下請けの国内業者を、中国などの関連業者に置き換えることで実施されていることも、よく知られた事実です。
 現在の為替構造の下、利潤追求第一の活動をしている日本の多国籍企業こそ、日本の産業構造を「空洞化」させ、崩壊に導いている「元凶」です。
 敵を間違えてはいけません。
(以上)


〈注1〉マルクス『賃金、価格および利潤』

 マルクスが、賃金と物価などの関係を分析した代表的な古典に、『賃金、価格および利潤』(1865年に行った報告の原稿をマルクスの死後の1898年に英語版で発行した)があります。
 この著作は、「1860年代の資本主義的搾取と抑圧の強化に対抗してつくられた労働者階級の国際的団結の組織、第1インターナショナルの指導的労働者たちにたいして、ストライキと賃金闘争との意義と役割を、科学的経済学の理論にもとづいて解明したもの」です。(新日本出版社発行『マルクスーー賃労働と資本/賃金、価格および利潤』に掲載されている服部文男氏の解説)
 この著作から、いくつかの記述を引用してみましょう。
 「どんな商品にせよ、それの価値は結局のところ需要供給によって決定されると考えるのは、まったくの誤りであろう。需要供給は、ただ、市場価格の一時的な変動を規制するだけである。需要供給は、ある商品の市場価格がなぜその価値以上に上がったり価値以下に下がったりするかを諸君に説明するであろうが、この価値そのものを説明することはけっしてできない」(新日本出版社発行の同著の翻訳書P118〜)
 「わが友ウェストン君のすべての議論は、もっとも簡単な理論的表現にまとめると、つぎのただ一つのドグマに帰着する。すなわち『諸商品の価格は賃金によって決定あるいは規制される』と。このありふれたすでに論破された謬論(びゅうろん、誤った理論のこと)にたいする反証をあげるために、私は実際の観察にうったえることもできよう」(同翻訳書P119〜)
 「諸商品の価値ーーそれは諸商品の市場価格を究極的に規制するはずであるーーは、もっぱら諸商品に凝固された労働の総量によって決定されるのであって、その労働の総量が支払労働(労働者の賃金のこと)と不払労働(資本家のもうけのこと)とにどう分割されるかによって決定されるのではない」(同翻訳書P162)


 〈注2〉大企業の内部留保

日本の大企業の内部留保の年度推移

(単位:兆円)


〈注〉内部留保は、資本剰余金、利益剰余金、引当金(流動負債と固定負債)の合計。
   財務省「法人企業統計調査」から作成。大企業は、資本金10億円以上の金融・保険を除く法人企業。


 〈注3〉朝日新聞2012年8月5日付の特集記事「【ワールドけいざい】縮む車市場・雇用圧迫ーー欧州危機が影響・仏プジョー8千人解雇案ーー空洞化懸念、政府がてこ入れ」を参照のこと。その中に「安値の韓国車急増」という小見出しで、途上国からの輸入商品の打撃に触れています。
 また、「円高と円安の経済学のページ」の「新著の参考文献」、聽濤弘著『マルクス主義と福祉国家』の次の記述も参照してください。
 「ジャノッティ(元イタリア共産党トリノ県委員長)は端的に次のように述べている。『…トリノのある工場の壁にこんな落書きがあらわれた。中国人のようにならなければならないのは我われではなく、中国人が我われのようにならなければならないのだ″。これは、中国人の低賃金、長時間労働および過酷な労働条件を受け入れなければならないのはヨーロッパの労働者ではなく、むしろ中国の労働者がヨーロッパ並みの条件を主張すべきなのだ、という意味である。…』(寄稿論文)」

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