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(2024年12月19日からの閲覧回数)
10件前後の証言と秦郁彦氏の「詐話」、済州島での「慰安婦」強制連行
(2024年9月4日~のツイート再録)
フリージャーナリスト・今田真人
〈注1〉ツイートは、新しい経営者イーロン・マスク氏によって「Xへのポスト」と名称変更したが、逆に意味不明になるので、私は旧来の名称のまま使用する。
「慰安婦」強制連行の被害証言は、被害者が実名を明かしているものでは、以下の私のHPで紹介している。また、済州島に限っても10件近い被害証言や目撃証言がある。ただし、証言者は匿名である。実名を公表することは現時点では右翼からの個人攻撃もあり、リスクが大きい。
http://masato555.justhpbs.jp/newpage150.html
上杉聰氏の著書には、朝鮮人「慰安婦」強制連行や吉田証言を極右的立場から否定する漫画家、小林よしのり氏を厳しく批判した『脱コーマニズム宣言』(1997年)がある。次のようにいう。「尹貞玉(元韓国挺対協代表)さんが(済州島で)やった調査で、一人名のりでてきたんですけども、(続く)
(承前)あっという間に周りから潰されました。『しゃべるな!』って言うんです。これは明らかに『慰安婦』だと思われる方でした。でも、その人は周囲の圧力によってしゃべることができなかったのです。そういう力が働いていることを知るべきです」「実際にあの小さな島で、どこの村の誰が(続く)
(承前)そんなふうになったということになれば、生きていけません。しかもあの本(吉田清治著『私の戦争犯罪――朝鮮人強制連行』)は、韓国で翻訳をされているんです。やっぱりそうだったとなったら大変です。済州島は今も韓国社会の中で差別があると言われています。そういう状況の中で(続く)
(承前)同島の人たちが箝口令(かんこうれい)をしいているということは、充分に考えられることです」。このように上杉氏はのべ、秦郁彦氏が済州島でやった調査を批判。「吉田清治さんの証言を批判した秦さんのやり方というのは、学者として非常に恥ずかしいことをやっています」とのべている。
私は先に「済州島に限っても10件近い被害証言や目撃証言がある」と言ったが、この尹貞玉さんの済州島調査がその1つである。また、梁順任・韓国太平洋戦争犠牲者遺族会・会長の済州島調査もある。梁さんの調査だけで、被害証言・目撃証言は6、7人(件)に及ぶ。(続く)
(承前)韓国在住の日本人研究者、吉方べきさんは『週刊金曜日』2015年6月26日号の論文で、梁順任さんの済州島調査の概要を次のように紹介している。
「梁会長の場合は、93年に発足した遺族会済州支部の人脈を頼りに現地に通い詰め、(続く)
(承前)吉田氏が手記の中で描写した地理的特徴に合致する地区で6、7人が『慰安婦』に徴用されたとの証言を得ることができたという。梁会長によると…事前に村ごとに割り当てられた人数分の女性をリストアップさせ、担当者が後日連れて行くという形であったという。(続く)
(承前)ただ、当日になるまでに不安になったり、トラックを見て隠れたりするケースも多く、この村で証言した3人の女性は結果的に『難を逃れた』女性だったとしている。逆に数合わせのために候補になかった女性が言いくるめられて連れて行かれたともいう。(続く)
(承前)一人の男性は、姉が徴用された後に中国から送られてきた着物姿の写真を見たと話し、遺族会主催の追悼行事で毎年、姉を『慰安婦』として追悼している。一方、城山浦(ソンサンポ)という吉田証言に登場する地区では『当時、海女や工場労働者には、他の島などから来た女性も多く、(続く)
(承前)徴用の割り当てがあると、地元の人間よりもそちらが優先された』との証言もあったという」。
この他、私が取材中の目撃証言は、前田朗編『「慰安婦」問題の現在』(2016年)のP141の私の論考でその一端を紹介した。その内容は、済州島出身の在日コリアンの目撃証言。(続く)
(承前)「故郷の済州道○○市の村で小学5、6年の頃、ある結婚式の進行中、日本人が車で来て新婦を強引に連れ去った事件があった」という。以下は、その後の追加取材でこの在日コリアンが証言した話である。「日本人は一団としてトラックで来ていたので(被害者側は)何も言えなかった」(続く)
(承前)「私(目撃証言をした在日コリアンの男性)は(当時、個人宅の庭で開かれた)結婚式に座っていた。母親は1カ月、泣き通しだった。連れ去られるので早く結婚させたかった。(新婦は連行の)対象者であったので、毎日のように日本人のヤクザがきた。集団で来る。(続く)
(承前)自分(在日コリアンの男性)が12歳か13歳のときのことである。連れ去られた新婦は遠縁のお姉さんで、いろいろとかわいがってくれた。お菓子をもらったりした」。しかし、この証言者は、名前や連行された済州島の住所など、人物を特定される詳しいことは、話したくないと言う。(続く)
(承前)この在日コリアンは、さらなる詳しい話ができない理由について、次のようにいう。「いまの情勢を見ると、よくない。反対派の言うこと(ヘイトスピーチ)がわずらわしい」「結婚式で新婦が連れ去られたことは、目の前で見た。新婦の名前は知らない。(続く)
(承前)それによって、いろいろな余波が起きるといけない。済州島の中では、連れ去ら去られたことは、みんな知っている。1965年以後、過去のことには一切口をつむごう。そうしないと日本人観光客は一切こなくなるだろう。おコメもできない島、4・3事件もあった。(続く)
(承前)そういうことがあったと被害をさらけ出さないでいいのでは、そういう雰囲気が島にある。恥ずかしいという気持ちがある」。
しかし、結婚式場に踏み込んで新婦を連れて行く、典型的な暴力的な強制連行は、実は、朝日新聞1983年10月19日付の吉田証言の記事で紹介されている。(続く)
(承前)「徴用の対象は初めは日本人、次に『内地』にいる朝鮮人、(昭和)18年ごろからは朝鮮総督府にまかせずに、吉田さんらが直接、朝鮮に出向いた。軍や警察の協力を得て、田んぼや工場、結婚式場にまで踏み込み、若者たちを木刀や銃剣で手当たり次第に駆り立てた」。(続く)
朝日新聞は2014年8月5日付で、この記事も含め、吉田証言関係の記事10数本を取り消している。しかし、いまなお、吉田証言を裏付ける、こうしたリアルな目撃証言が出てくるのは、吉田証言は虚偽だという朝日新聞や「赤旗」の結論こそ、誤りであるということを示しているのではないか。
私の取材した済州島出身の在日コリアンは「1965年以後、過去のことには一切口をつむごう」と発言した。1965年とは日韓基本条約と日韓請求権協定が日韓両政府の間で締結された年である。当時の日韓のトップは日本が佐藤栄作首相で、韓国は朴正煕大統領。(続く)
(承前)朴正煕氏は冷戦下、韓国で反共独裁国家の大統領をつとめたが、戦時中は日本の関東軍に配属されたれっきとした日本軍幹部。日本軍「慰安婦」制度をよく知る立場だ。4・3事件などで保守勢力が制した済州島で、同条約を機に箝口令がしかれても不思議でない。(続く)
〈参照〉Wikipedia「朴正煕」
「赤旗」論文は吉田証言について「秦郁彦氏(歴史研究家)が92年に現地を調査し、これを否定する証言しかでてこなかったことを明らかにしました(『産経』92年4月30日付)」と書く。秦郁彦氏は極右の教祖というべき存在だが、その調査と報道媒体の産経への無批判な迎合ぶりもすごい。(続く)
〈注〉ここでいう「赤旗」論文とは、「しんぶん赤旗」2014年9月27日付の吉田証言についての「検証記事」のこと。
(承前)私はこの秦郁彦氏の著作『慰安婦と戦場の性』について、早い段階で批判論評を書いたが、その閲覧数は2万3千回を超す。吉岡談話が指摘した「洪水のごとく出版」されている「侵略戦争や朝鮮植民地支配を美化、正当化する出版物」とはこういう著作であろう。(続く)
http://masato555.justhpbs.jp/newpage118.html
〈注1〉この秦郁彦批判のHPの該当ページの閲覧数は最近、以前のアクセスカウンターが故障し、新しいものに変えたので、現在は数字が小さいものになっている。
〈注2〉このツイートで言う「吉岡談話」の内容は以下のHPのページを参照してください。
「吉岡吉典氏と吉田証言」
(承前)秦郁彦氏の済州島調査も、そのデタラメは、韓国在住の日本人研究者、吉方べきさんのリポート「知られざる済州島地元紙の『吉田証言』報道の中身」(「週刊金曜日」2015年6月26日号)で、詳しく暴かれている。まず秦氏が「吉田証言否定の決定的証拠」とした「済州新聞」の記事。(続く)
(承前)秦郁彦氏はその「済州新聞」の記事の日付を「1989年8月14日付」(秦著『慰安婦と戦場の性』P233など)と書いているが、吉方べき氏によると、本当は「1989年8月17日付」という。「決定的証拠」の記事の日付を間違えるなら、それだけで調査結果に大きな疑問符がつく。(続く)
(承前)済州新聞の日付は韓国語で書かれていたのだろうか。普通は算用数字だろう。その読み取りを間違うなど、通訳の力量以前の初歩的な間違いである。決定的なのは、記事の内容を真逆に翻訳していること。吉方べき氏は次のように書く。「(済州新聞の)記事の核心をなすのは島民女性1人と(続く)
(承前)郷土史家・金奉玉氏による吉田氏著書の記述に対する強い懐疑の声であり、秦氏が注目したのもその部分だ。ただ談話は一部のみが引用されている。金奉玉氏のコメントとして(吉方べき氏が翻訳した)記事では『事実無根の部分もあった』となっているが、秦氏の引用では『事実でないことを(続く)
(承前)発見した』と多少ニュアンスの違う表現に訳されている。全体的に見ると、吉田氏著書の記述を強く疑う内容に違いないが、記事を貫く、日本には非難されるべき歴史的経緯があるとの前提が、秦氏の引用では抜け落ちている印象である」。吉方氏の文章は、秦氏への批判のトーンをなるべく(続く)
(承前)抑えて、事実だけをたんたんとのべている印象があるが、それだけにその文章の説得力は強烈である。ようするに記事では『事実無根の部分もあった』と書かれているのに、韓国語を読めない日本人読者に秦郁彦氏は『事実でないことを発見した』と書かれているとウソをついたのである。(続く)
(承前)吉方べき氏のリポートは次に、記事を書いた記者に言及する。いわく「一方、記事を書いた記者・許栄善(ホヨンソン)氏は、翌年に移籍した『済民新聞』の紙上で、吉田証言に触れた別の記事を残している。93年2月2日付、済州島を訪れた太平洋戦争犠牲者遺族会(以下、『遺族会』)の(続く)
(承前)金鐘大(キムジョンデ)・共同代表らの活動を取り上げた『世界世論から孤立する前に日本は犯罪を認定すべき』とする記事がそれだ。ここでは『遺族会は昨年『私は朝鮮人をこうやって捕まえていった』(吉田氏の2作目の韓国語版)という本を通じて『済州における慰安婦狩り』などを(続く)
(承前)公に告白した日本人・吉田清治を招き謝罪を引き出してもいる」と記述し、淡々と吉田証言に触れている。この筆致の変化は何を意味するのだろうか。秦氏は前述の記事(『正論』92年6月号の秦氏の記事のこと=秦著『慰安婦と戦場の性』(1999年)などにも転載)で、92年3月末に(続く)
(承前)済州島を訪ねた際、許栄善氏から『何が目的でこんな作り話を書くんでしょうか』と聞かれ、答に窮した、と記している。だが、その後に許氏に接触した他の取材者からは『自分は何人かに聞いた話を元に書いただけであり、これが吉田氏の告白のすべてを否定する証拠のように扱われるとは(続く)
(承前)不本意』と語ったとの話も伝わってくる」。秦郁彦氏が「決定的証拠」とした「済州新聞」の記事は、その日付も間違い、内容も真逆に翻訳、秦氏の許栄善記者へのインタビューも本当に彼女が「作り話」云々と言ったかもあやしい、しかも記事作成の「1989年8月17日」当時と、(続く)
(承前)許栄善氏が「済民新聞」に記事を書いた「1993年2月2日」当時とは、その間に元「慰安婦」被害者・金学順氏の記者会見(1991年8月)があり、「慰安婦」問題をめぐる韓国社会の世論は激変した。許栄善氏の吉田証言への認識が大きく変わったであろうことも推察できる。(続く)
(承前)吉方べき氏は許栄善氏の変化だけでなく、別の記者の書いた済州島の2つの地元新聞の記事も紹介している。「済民新聞」1990年6月8日付の記事と「漢拏(ハルラ)日報」1990年3月30日付の記事だ。金学順氏出現以前に済州島では吉田証言を裏付ける報道もあったことを示す。(続く)
(承前)吉方べき氏リポートはまだ続くが、著作権問題もあるので、全部を知りたい方は図書館などで全文を読まれたい。ここでは、韓国語と日本語に堪能な吉方リポートによって、秦郁彦氏の済州島調査のデタラメぶりが、みごとにあぶりだされているということを指摘するにとどめたい。
蛇足だが一言。秦郁彦氏の済州島調査は1992年。「済州新聞」1989年8月14日付を「発見」した秦氏はなぜ1990年の同じ地元紙の「済民日報」と「漢拏日報」の記事を発見できなかったのか。秦氏が吉田清治氏に投げつけた「詐話師」とは実は秦氏自身のことであった。