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(2021年7月8日からカウント)


「慰安婦」への志願の真相(2021年6月26日~のツイートから再録)
=フリージャーナリスト、今田真人=


「同化政策」は、「朝鮮人皇民化政策」とも呼ばれた。「皇民」とは、天皇の統治する国の民。すべての苦役や犠牲は、天皇のためということで合理化された。この政策は、植民地の庶民には強制以外のものではなかった。しかし、当時のマスコミは、これを朝鮮人の自主的運動として描いたのである。


(106)「慰安婦」も「朝鮮人皇民化政策」に位置付けられる。朝鮮人女性に強いられた、日本人女性の「皇民」の姿の一つを紹介する。「酌婦さんも奮起、女ばかりでお役に立てぬと 中支の○○皇軍慰安所へ志願 一生報国に乗出す」(関門日日新聞1938年12月20日付)。同紙は山口県下関の新聞。




(107)1938年とは、「支那事変」が開始された翌年で、朝鮮や内地に日本軍に雇われた業者が派遣され、何千人単位の日本人や朝鮮人の女性が拉致・誘拐まがいの募集で送られた年である。これはすでに政府公開資料で明らかになっている。これを「皇軍慰安所への志願」と描いているのが度し難い。


(108)菅政権は最近、「従軍慰安婦」を「慰安婦」にせよと国会答弁したが、当時の新聞は「日本軍慰安所」ではなく「皇軍慰安所」と書いていた。これにならえば、「皇軍慰安婦」、あるいは、「天皇の軍隊の慰安婦」が、本質的なネーミングだろう。ネトウヨは、絶対にそう呼びたくないだろうが…。


(109)以下、私が発見した「慰安婦」志願の記事全文を紹介する。ただし、被害者本人の名前は伏せる。「聖戦の歳末は慌しく迫る暮れの港都下関市に闇の人生街道を流れ行く涙の一女性が正月を控えての決心、大陸の広野に奮闘を続ける皇軍を偲び○○方面皇軍慰安所に志願したと云ふ」


(110)「(承前)大陸に咲く花を纏(まと)つての美談一節=大分県〇〇村実父〇〇氏(52)次女〇〇子さん(27)は=子供の多い家庭の不如意と母が性来虚弱な為め繊細い女の手で家計の一助として早くから下関市彦島の某料理店に酌婦として務めて居つたが、」


(111)「(承前)今次事変勃発と共に付近の人達が出征する壮途を見送つては幾度か女ばかりの妹を持つ身を残念とし、せめて戦線の将兵に対してなり労苦に報い度いとの一念から道は違えへど皇国を思ふの赤心より此度ひ 中支○○方面皇軍慰安所に一生捧げんと志願、」


(112)「(承前)父に伝へたところ、実父〇〇氏も喜んで、この旨村長に申し出たので女ばかりを持つ軍国の父と其の娘の切々たる願ひで、村長も痛く感激し餞別まで添へて心強く故国を立たした」


(113)「慰安婦に志願」という報道は、いまの人には、なかなか理解できないかもしれない。それで、当時の状況を示す新聞記事を紹介する。福岡日日新聞1938年2月20日付である。見出しは「当局の必要に応じ晴れて軍務に服す、福岡連隊区に殺到の志願者、総計700人を超ゆ」。以下全文を引用。


(114)「(承前)支那事変勃発以来澎湃として起つた烈々たる愛国の熱意は全然兵役に関係のない人達から婦人にいたるまで〝俺も、あたしも″と健気な従軍志願するものが殺到19日までの福岡連隊区司令部受付の分は退役将校35名、下士官以下一般計492名、女子23名、」


(115)「(承前)血書男38名、女2名、福岡憲兵分隊受付の分は男49名血書22名、女25名血書9名で総計715名を数へ、血書男60名、女11名となる、中には刑務所からの嘆願8名、6回血書した熱血漢1名、62歳の老武者2名などの涙ぐましい嘆願記録もあり」


(116)「(承前)軍部当局を頗る感動させてゐるが、今回陸軍特別志願兵令が18日の閣議で決定されたので将来は新たな従軍志願制度によつて補充兵国民兵あるひは兵役無関係の者でも合法的に従軍志願が出来ることゝなり前記志願者は当局の必要に応じて晴れの軍務に服することが出来るやうになつた」


(117)「慰安婦に志願」など新聞が日本人女性を煽っていた時期、中国大陸の日本軍占領地では、すでに朝鮮人「慰安婦」の方が多かった。それを現地報告する従軍記者の記事もある。もっと朝鮮人女性を「慰安婦」にできそうだとすすめる、とんでもない記事である。関門日日新聞1938年1月21日付。


(118)記事の見出しは「対外進出を啓発、半島娘子軍の攻勢、本社特派員 伊藤文、済南にて」。「半島娘子軍」とは「朝鮮人慰安婦」のことである。いわく「酒保は主として鮮人のやつてゐるものが尠くない、ズツト(ママ)北支各地を旅して見て感ずる事は半島人の第一線進出が殊に眼につくやうだ、(つづく)」


(119)「(承前)これは満州事変やこの前の上海事変などでは見られぬ今事変の一特色ではないかと思ふ、そのうちでも半島娘子軍の攻勢は断然内地婦人の上にあるやうに思つた、こヽにも漸く我々が半島人の対外進出に対して啓発されなければならないものを発見していヽ時機に達してゐる」


(120)「(承前)事を痛感せずに居られぬ」。従軍記者は、日本軍占領地を「自由」に取材する、いわば御用記者である。その目でみて、「北支」(中国北部)の占領地の「酒保」(「慰安所」の別名)には、日本人女性より朝鮮人女性の方が「断然」多いと指摘、それが可能ならもっと、というわけである。


(121)支那事変発生後の1938年・39年は、日本人「慰安婦」の中国前線部隊への大量の連行が、特高などの官憲によって行われた。中国大陸への玄関、門司港や下関港の警察署の特高は、そのあまりの多さから、事実を隠し切れなかったらしい。これを「正直」に報じた当時の新聞の記事もある。


(122)関門日日新聞1939年5月26日付「激増した大陸渡航者、興味ある門司署の調」という記事で、門司署の特高が発行する「慰安婦」(朝鮮人女性が含まれていたかどうか不明)の渡航のための「身分証明書」の発行数が、一般男性とその家族に次いで第3位にのぼったと書かれている。以下全文。


(123)「激増した大陸渡航者、興味ある門司署の調――【門司】事変発生以来在支邦人の生命財産はことごとに脅かされてゐたが、皇軍の威力に依つて占領地域の治安は回復し従来通り不安なく営業を出来るやうになつたので、」


(124)「(承前)満州及び北、中支方面の諸会社や各種営業も再び活発に活動しつつあるが、これ等大陸進展を目指して行く男女の数は逐日激増し、本年1月以来門司署で身分証明を受けて渡航せる者は約4百名、何といつても骨を大陸に埋める悲壮な覚悟で出かけるものは男が断然多く」


(125)「(承前)夫の時を追ふて行く妻子がその次で、第3位 娘子軍の出稼ぎ芸者は5千円から1万円、酌婦が3千円から5千円の前借で、勇ましく?(ママ)出掛けてゐるので門司署特高では毎日渡航証明に忙殺されてゐる」。「出稼ぎ」は虚構で、そばにいた軍属の「業者」は意図的に消されている。


(126)「業者」は消されているが「芸者は5千円から1万円、酌婦が3千円から5千円の前借」という記述がある。借金奴隷として誰かに束縛され有無を言わさず連行されているのは、言外に読み取れる。「出稼ぎ」は虚構である。その奴隷連行を警察官が容認し証明書まで書いているのだから地獄である。


(127)日本人女性が「慰安婦」に「志願」という記事が下関市の地元新聞に出た1938年12月20日という時期を考える。1938年は「支那事変」が開始された翌年。年初から日本内地各県の警察部長(県知事)から内務省に、陸軍の依頼と公言して「慰安婦」を募集する業者の活動が報告されている。


(128)その各県の報告内容は、具体的で興味深い。群馬県知事(警察部長)の報告では、捕まえた神戸市の業者が「今回支那事変に出征したる将兵慰安として在上海陸軍特務機関の依頼なりと称し上海派遣軍内陸軍慰安所に於て酌婦稼業(醜業)を為す酌婦3千人を必要なり」と言っているという。


(129)こうした業者の活動を報告したのは群馬県(1月19日)、高知県(1月25日)、山形県(1月25日)、和歌山県(2月7日)、茨城県(2月14日)、宮城県(2月15日)の計6県。どの県の警察も「軍の依頼」が信じられず、本当なら「皇軍の威信を失墜する」と判断して取り締まっている。


(140=【注】通し番号が10飛んでしまった=)ところが、この業者たちを取り締まるべしと報告した各県の警察当局の問い合わせに、警察のトップ、内務省警保局長は1938年2月23日、秘密の通牒を各県に発し「婦女の渡航は現地に於ける実情に鑑みるときは蓋(けだ)し必要已むをえざるものあり」と、軍の要請であることを認めてしまう。


(141)この内務省警保局長の秘密通牒は、業者の「慰安婦」募集について「在外公館等の発給する証明書等」(事実上の派遣軍の命令書)所持や、満21歳以上の女性を対象にすること、親の承認を得ることなど、いくつかの条件を設け、「北支、中支方面に向ふ者に限り当分の間之を黙認する」とした。


(142)次いで出されたのが、陸軍省副官による北支方面軍・中支派遣軍参謀長あて通牒「軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件」(1938年3月4日)である。業者にあまり軍の了解があると公言させるな、と指示しながら「慰安所設置の為内地に於て之が従業婦等を募集」している事実をすべて認めている。


(143)日本人女性が「慰安婦」に「志願」という先の記事は、日本内地の警察が、軍による「慰安婦」募集を「黙認」するように、方針を大転換したあとに出されたものである。そうであるだけに、記事中の「皇国を思ふの赤心より…皇軍慰安所に一生捧げんと志願」云々という女性の動機は、本人の言葉とは思えない。


(144)当時の内地の「慰安婦」募集が、親の承認も得ない、拉致・誘拐のようなものが横行していたことを示す機密公文書を、私は外交史料館で見つけた。1938年7月1日付の在南京総領事による外務大臣あて文書「支那渡航婦女ノ取締ニ関スル件回答」である。その中には次のような文言がある。


(145)「軍兵站部或は軍特務部等各方面に於て随時許可又は施設をなさしめる為現在は相当障害に逢着し現に内地親元より捜査願ひ又は本人或は親元よりかかる醜業不承諾による帰郷取計ひ願等殺到の状況」。「親元」だけでなく「本人」も、「かかる醜業不承諾」と明記されている点に注目してほしい。


(146)この在南京総領事の公文書は、当時の軍の「慰安婦」募集が、本人や親元の承諾もない、事実上の強制連行であったことを示している。また、内地女性が「慰安婦」に「志願」したという同年12月20日付の記事も、「慰安婦」を美談にして承諾しない関係者を黙らせる狙いがあったのかもしれない。親が異議を唱えれば、それは「非国民」と非難され、村八分にされるのである。


(147)なお、この在南京総領事の公文書の全文は、拙著『極秘公文書と慰安婦強制連行』(2018年、三一書房)のP184~に収録した。ぜひ参考にしてほしい。
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(148)「支那事変」が開始された1937年・38年は、日本人の女性にとって、人権などまったく考慮されない残酷で悲しい時代だった。それを中国侵略の出発拠点とされた山口県下関市の地元新聞を中心に、振り返りたい。関門日日新聞1937年7月6日付「娼妓3人心中、浮草稼業の辛さから」。


(149)以下、記事の主要部分を抜き書き。名前は伏せ字に。「【広島】4日午前10時頃広島市元宇品町通称檜(ひのき)山鼻の波打際に晒木綿(さらしもめん)で互いの手と胴をしつかり結びつけ抱合つた3人の女の溺死体が漂つてゐるのを通行中の学生が発見急いで宇品署に届け出たので」


(150)「(承前)同署で検死の結果右はいづれも広島…相生楼の娼妓で山口県…〇〇子さん(22)、福岡県三井郡〇〇さん(22)、広島市東蟹屋町〇〇さん(22)と判明、死後11時間位を経過してをり前夜9時頃しつかと抱合、岩上から折柄の引潮の海を飛込んだものゝ如く」


(151)「(承前)原因については遺書も見当らず判然としないのが、〇〇子さんは最近父を失つた上、母に幼時死に分れたと信じてゐたが、実は他に情夫をつくり家出したものであることを知り…〇〇子さんの身上に他の2人も同情また互いの浮草稼業の行末をはかなみ3人心中を企てたものらしい」


(152)この記事は、当時の「娼妓」が「浮草稼業」であり、崖から海に身を投げて自死するような境遇だったことを示している。また、関門日日新聞1937年7月10日付「理髪店から少女連去り」も、未成年の水商売の女性の境遇を示すものとして、暗澹たる思いがするものである。以下、記事全文。


(153)「【防府】7日午後9時半頃防府市藤本町入口理髪業松尾好夫氏方に15、6歳の美少女が顔を剃りに来て待ち合わせてゐると、突如あらくれ男が3人現はれて同女の両腕を引つ捕へて連れ出し松谷商店の角から自動車に乗せて何れにか連れ去った怪事件があり」


(154)「(承前)8日同市内牟礼、山口市太郎さんが防府署から大分県東国東郡森江料亭佐々木貞を誘拐罪で届け出たので漸く本事件の全貌が明かとなつた、それによると市太郎は昨年五女ハナ子さん(14=仮名)を別府市の芸妓置屋に入れたが最近前記の佐々木方に仕替(しかえ)させた」


(155)「(承前)ところハナ子が最近防府市に帰つて来たので追手のものが押かけ同夜連れ去つたものと判明した」。新聞記事は、誘拐事件ではなく、料亭から逃げたハナ子さんが本当は悪いといわんばかりの話にしている。こんな白昼堂々の誘拐まがいの事件が罰せられない時代だったのである。


(156)この時代、新聞は本当に悪い役割をした。記事だけでなく、紙面下段の広告には、唖然とするものが多い。関門日日新聞1937年11月19日付の広告欄「関日案内」に「尋ね人、娼妓発見者に謝礼金――発見者に謝礼金50円、娼妓ぽんた、〇〇〇〇23歳、熊本二本木、電話38番、鴬亭」。


(157)逃げた「娼妓」を発見した者に謝礼金を払うという広告が新聞に堂々と載る。少女を連行した「あらくれ男」が、謝礼金をもらえるような異常な社会。このような自死したくもなる「娼妓」の境遇が横行する時代に、「慰安婦に志願」の記事に書かれた美談が女性の本心でないことは明らかであった。


(158)「慰安婦に志願」という記事は、殺到した親からの抗議をなだめるため創作された美談であろう。しかし、新聞の意図に反して、本来隠すべき「皇軍慰安婦」への志願制度の存在を明らかにした点で興味深い。当時の警察は「慰安婦」徴集に「軍の了解」があることを必死で隠そうとしていたからだ。


(159)もう一つ、「慰安婦」として誘拐された娘を取り戻そうと、親からの抗議をなだめるためにとられた方法が、軍の周旋人を「民間の悪徳業者」扱いし、警察が取り締まるふりをすることであった。福岡日日新聞1938年4月21日付の記事「娘さんの渡支に怖い目、門司水陸両署が」がそれである。


(160)「娘さんの渡支に怖い目、門司水陸両署が――西日本の玄関口となつている門司の〝鎮守役″門司水陸両警察署には最近春の訪れと共に娘の保護願ひが急激に増加し多い日には123件平均56件といふ素晴らしい数字を見せてゐる」


(161)「(承前)それも今までのやうに物優しい恋愛ごとの道行きや都会に憧れての感傷的な家出ではなく悪周旋人や不良の徒の甘言に乗せられてゐる模様があるのでこの〝鎮守役″は今後娘の渡支には厳重調査して魔手に動かされる身を極力救ひ出すことになつた」。1日平均56件とは、すさまじい。


(162)「娘の保護願い」が警察に殺到しているのに、「最近春の訪れと共に」とか、真剣味のない記事である。この門司署の取り締まりのウソは(122)で紹介したように、お隣の県の新聞、関門日日新聞1939年5月26日付で判明する。まあ、2つの新聞を同時に読む人はいないから事なきを得たのかも。


【参考】
(122)関門日日新聞1939年5月26日付「激増した大陸渡航者、興味ある門司署の調」という記事で、門司署の特高が発行する「慰安婦」(朝鮮人女性が含まれていたかどうか不明)の渡航のための「身分証明書」の発行数が、一般男性とその家族に次いで第3位にのぼったと書かれている。以下全文。


(163)それにしても「今後娘の渡支には厳重調査して魔手に動かされる身を極力救ひ出すことになつた」とはウソの上塗りである。このときすでに、内務省警保局長の秘密通牒(1938年2月23日付)が各県の警察に出され、「慰安婦」にする内地の娘の連行を「当分の間之を黙認する」としていたのだ。


(164)「慰安婦」強制連行を取り締まるという、古今東西共通の警察の役割を放棄した、戦中の日本帝国の警察が、その犯罪的姿を隠すためにウソにウソを重ねたことがよくわかる。とくに軍の周旋人を「民間の悪徳業者」扱いして、軍や警察の関与を否定するのは、現在の歴史修正主義と共通して興味深い。


《追記》
「『慰安婦』への志願の真相」と題する私のHPを読み返していて、一つ、分かったことがある。内地で女性を募集する「業者」がなぜ派遣軍の命令書ではなく、現地の領事館(外務省の出先)発行の「身分証明書」の所持を義務付けられたかである。これも「軍の了解」を隠す措置と考えれば合点がいく。
(以下の分析のツイートは、別のページに掲載予定)


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