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(2021年7月7日からカウント)


労務報国会の隠された役割(2021年5月17日~のツイートから再録)
=フリージャーナリスト、今田真人=


最近気にかかるのは、河野談話は吉田証言を根拠にしていないと強調する人が、いまだ存在する事。吉田証言を「虚偽」とした朝日新聞の「検証記事」を疑うことを避ける思考が、そんな無理筋の論法を生んだ。朝日新聞でも権力に屈すれば、間違うのである。
http://masato555.justhpbs.jp/newpage165.html


吉田証言を「虚偽」とした朝日新聞2014年8月5日付の「検証記事」をまともな訂正記事と考える朝日の信奉者はまだまだ多い。しかし、少しでも現場取材をしたことのある記者なら、現場で証人が見つからないからといって、容疑者の自白が「虚偽」と断定する者はいない。
http://masato555.justhpbs.jp/newpage116.html


外村氏は言う。「労務報国会が朝鮮半島からの労働者の動員に関りを持っていたことはこの記述から確実であり、これまでの筆者の認識は誤りであった。2014年8月5日の朝日新聞での筆者のコメントで、労務報国会の職員が朝鮮に赴くことはないとした点も間違いである」
http://masato555.justhpbs.jp/newpage165.html


①外村氏と同じようなコメントをした学者がもう一人いる。それは京大大学院教授の永井和氏である。北海道新聞2014年11月27日付の吉田証言検証記事で、永井氏はいう。「吉田清治氏の著書には2つ疑問点がある。所属していたという労務報国会は荷役業務や土木作業に従事する(つづく)


②(承前)日雇い労働者の動員業務に従事する半官半民の組織だ。日本内地の地方支部組織が朝鮮総督府の管轄下にある地域に出動して直接女性を集めたとは考えにくい(以下略)」


③永井和氏は朝日の検証記事にも登場する吉田証言否定論者だが今回は北海道新聞である。外村氏と共通する部分が〝労務報国会は当時、朝鮮に出動したとは考えにくい”という点。永井氏はいまだ自らの誤りを認めていないと思われるので、外村氏の自己批判のきっかになった資料を紹介して再考を促したい。


④この資料は拙著『極秘公文書と慰安婦強制連行』(2018年2月、三一書房)のP36で初めて紹介した。国会図書館で私が見つけた『決戦下の国民運動』(1944年11月、思想国策協会発行)という戦時中の官庁情報誌である。そこには「外地労務の移入斡旋を労報が担当することになった」と明記。


⑤この拙著を読んだ外村大氏が率直に自らのコメントの誤りを認めたのである。これは、朝日新聞の検証記事(2014年8月5日付)や「しんぶん赤旗」の検証記事(同年9月27日付)、北海道新聞の検証記事(同年11月17日付)のすべてを覆す重大な出来事である。
http://masato555.justhpbs.jp/newpage119.html


⑥労務報国会は「労務者の重点的配置動員」という「国家権力を以て為すべき仕事」を「政府の指揮」に従って実際に行なっていた(拙著『極秘公文書と慰安婦強制連行』P36)。その「労務者」には軍慰安所の「酌婦、女給」も含まれていた(同著P62~)。ようするに「慰安婦」の強制動員である。


⑦そういう国家権力がすべき強制動員の仕事を、実際には労務報国会が行い、その活動場所が植民地・朝鮮であることが明らかになったのである。つまり、労務報国会は戦時中、国家権力として、植民地・朝鮮の女性を「日本軍慰安婦」として強制動員したのである。済州島は当時の植民地・朝鮮に属していた。


⑧「(植民地・朝鮮で)朝鮮人書記係に引きつれられた人狩り隊が、深夜や早暁に突如、男手のある家の寝込みを襲う」。こういう強制連行は、内地の警察がヤクザ・暴力団を組織した労務報国会でしかなしえない。同じ事は男だけでなく一緒に住む女に対してもおこなわれただろう。
https://note.com/katazuketai7/n/nf51ef0725622
【朝鮮総督府嘱託が語る「人狩り」】
徴用の場合、納得のうえというのでは、なかなか予定数に達しない。そこで郡とか面(村)とかの朝鮮人書記係に引きつれられた人狩り隊が、深夜や早暁に突如、男手のある家の寝込みを襲う。あるいは田畑で働いているさいちゅうに、トラックを回して何げなく農民たちを乗せ、それで集団を編成して、北海道や九州の炭坑に送りこむ。こんな荒っぽい人狩り作戦は、末端官吏がやってのけたことではあるが、・・・・・・


⑨労務報国会が「外地労務の移入斡旋」をすると明記した『決戦下の国民運動』は、百を超える戦時中の好戦的右翼団体の動向を詳述する、あやしい冊子だ。所持する人間を特定するための通し番号も押印された非売品であり、いかにも戦時中の特高警察関係者の内部資料のようである。これを裏どりしてみた。


⑩膨大な労力を要したが、その隠された役割を示す資料を最近、次々と発見した。「増大する外地労務の移入斡旋も労報に一元化して移入の円滑化を期したこと」(西日本新聞1944年8月30日付)。労務報国会は朝鮮等の労務者を「移入」するだけでなく、それを独占的に行うようになったのである。


⑪この西日本新聞の記事でもう一つ確認できることは、朝鮮での朝鮮人強制連行を1944年8月29日開催の大日本労務報国会の理事会で決定したということである。本部理事会の理事には内務省警保局長や陸軍省整備局長など政府・軍の最高幹部が就任している。つまり事実上の政府決定だったのである。


⑫外村大氏は朝日新聞の検証記事で「指揮系統からして軍が動員命令を出すことも、(労務報国会の)職員が直接朝鮮に出向くことも考えづらい」とコメントし、吉田証言を否定。その後、その誤りを認めた。しかし、外村氏のコメントを載せた朝日はその裏どりもしていなかったことが今回明らかになった。


⑬「機構を改革、労報、組織強化」と題する朝日新聞1944年8月30日付はいう。「大日本労務報国会では中央本部機構の改革を断行することになり29日午後の理事会で次の如く決定、改革のねらひの主なものは…外地労務の移入斡旋を労報が担当することになつたので配置部新設」。何をかいわんや。


⑭朝日新聞は、戦時中も同じ題字で発行されてきた歴史ある新聞。有料の朝日の記事検索データベース「聞蔵Ⅱ」を使えば、簡単にその記事がヒットする。朝日新聞は自社の記事すら確認せず、いいかげんな「検証記事」を書いて吉田証言を「虚偽」とし、歴史修正主義者を大喜びさせた。その責任は大きい。


⑮「日本内地の地方支部組織が朝鮮総督府の管轄下にある地域に出動して直接女性を集めたとは考えにくい」という永井和氏のコメントを載せ、吉田証言の記事を取り消した北海道新聞も同じく責任は大きい。北海道新聞1944年8月30日付の「労報新機構」と題する記事は次のようにいう。


⑯「大日本労務報国会では29日午後…本部理事会を開き中央本部機構刷新につき協議…今回の改組の主眼とするところは…増大する外地労務者の移入斡旋も労報に一元化して移入の円滑化を期したこと」。残念ながら、現在までのところ、北海道新聞も沈黙を保ったままである。


【ツイート】
やまんば
@yamamba_tateo
実際の歴史では「普通には考えにくい」事が沢山起きるので、大学の先生が既存の予備知識位で(よほどきちんとした証拠がない限り)、簡単に【考えにくい】とかいう抽象的・主観的な意見を安易に言わない方がよいと思いますね。


⑰戦時中の新聞は政府の強い検閲下に置かれ、戦争遂行に少しでも疑問を持たせるような記事はボツにされた。それなのに、この「外地労務者の移入斡旋」の「労報一元化」というニュースはいくつかの新聞に掲載された。朝鮮人強制連行や労務報国会の役割を当時の国民はうすうす知っていたのかもしれない。


⑱この戦時中の労務報国会の機構改革の記事は、朝日新聞や北海道新聞、西日本新聞だけでなく、高知新聞にも載っていた。朝日以外の地方紙の記事は、共同通信など通信社の配信記事かも知れないが、微妙に記事内容が違う。高知新聞1944年8月30日付の記事は、次のようにいう。


⑲「労務指導の一元化、労報の新機構なる」と題する高知新聞1944年8月30日付。「増大する外地労務者の移入斡旋も労報の一任とし、移入の円滑化を期したこと」。「一元化」であり「一任」である。いかに朝鮮人の強制連行への抵抗が大きく、それを強行する「労務報国会」が必要だったかがわかる。


⑳改めて確認するが、当時、朝鮮で行われた内地への朝鮮人労務者の動員は暴力的な強制連行そのものであった。当時の朝鮮の労務動員を現地視察した、内務省嘱託・小暮泰用氏の復命書(1944年7月31日)はいう。「徴用は別として其の他如何なる方式に依るも出動は全く拉致同様な状態である」。


㉑「(承前)其れは若し事前に於て之を知らせば皆逃亡するからである、そこで夜襲、誘出、其の他各種の方策を講じて人質的掠奪拉致の事例が多くなるのである」。朝鮮から内地への労務動員の対象は、男性だけでなく女性も含まれていた。それを示すのが、次の公文書である。


㉒1944年5月19日、朝鮮総督小磯国昭の内務大臣安藤紀三郎宛の「朝鮮総督府部内臨時職員設置制中改正ノ件」の説明資料(拙著『極秘公文書と慰安婦強制連行』P217~)。「女子の特性に適応する職種を選定し新規学校卒業者及年令14年(歳)以上の未婚者等の全面的動員体制を確立すること」。


㉓「(承前)未婚女子の徴用は必至にして中には此等を慰安婦となすがごとき荒唐無稽なる流言巷間に伝はり此等悪質なる流言と相俟つて労務事情は今後益々困難に赴くものと予想せらる」。この公文書は、労務動員で「慰安婦」にされるという、当時の朝鮮人女性の悲鳴が記録された貴重な公文書である。


㉔労務供給業者は国家総動員法の下、1940年11月15日、厚生省令「労務供給事業規則」改定により、県知事の認可により「芸妓娼妓酌婦若は之に類するものの周旋業」(女衒)となることができるようになった。つまり内地の県知事の指示で「慰安婦」動員が可能になった。
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㉕このときの「労務供給事業規則」改定は、1941年12月8日に公布された労務調整令と相まって、内地の県知事が「慰安婦」動員を労務供給業者に指示することが可能になった。それは、1941年12月16日の厚生省「労務調整令施行ニ関スル件依命通牒」はいう。
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㉖(承前)「酌婦、女給――〇(軍のこと)の要求に依り慰安所的必要ある場合に厚生省に稟伺(りんし)して承認を受けたる場合の当該業務への雇入のみ認可す」(共著『「慰安婦」問題の現在』P159)。この時は軍が厚生省に要請する形だが、その後、軍が県知事に要請する形になる。(前出拙著P63)


㉗1942年2月9日の厚生省職業局業務課長通牒「労務調整令関係質疑応答等ノ件」では、以下のように、労務調整令の運用として、「慰安婦」(妓女)の動員を労務供給業者が行うことを明記した。
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㉘(承前)「妓夫、妓女、調理師、菓子職人、印刷工等を労務供給業者より供給を受けて使用するは認可せざる方針なりや――答 規則第11条は常時供給を受けて使用する場合のみ制限するものなるを以て之等の職種の供給に於ても臨時の場合は適用なし」。臨時に「慰安婦」を軍に供給するのはOKだったのだ。


㉙このようにして、法令で労務供給業者は、内地の県知事の指示に従って「慰安婦」を動員するようになった。その労務供給業者をすべて組織し、税金を投入して内地各地につくったのが、労務報国会である。1942年9月30日、厚生次官・内務次官発「労務報国会設立ニ関スル件依命通牒」によるものだ。


㉚1944年8月30日付の各地方紙の記事が示す意味は次のようなものである。労務報国会はこれまでも、他の「人狩り隊」(内地の炭鉱会社の労務係などもしていた)も朝鮮を舞台にした「人狩り」をしていたが、今後は労務報国会が政府から「一任」され、「一元」的に担当するということになった。


㉛労務供給業者の「親分」(各地の暴力団の親分でもあった)の集まりである労務報国会の原型は、内地の炭鉱などの労務者不足が深刻になり、それまで取り締まりの対象であった朝鮮人労務者の「移入」を政府が許可するようになった1939年後半を転機に、各地の警察組織の監督の下、組織されていく。


㉜労務報国会が組織する労務供給業者などが「ならずもの、前科者も少なくない」、つまり、当時の暴力団・ヤクザの親分・子分であったことの分析は、大政翼賛会組織部などを歴任した下村松枝氏の著書『日本労務組織の展開』(1943年11月発行、国会図書館所蔵)のP130~の第3章に詳しい。


㉝同書の第3章のタイトルはずばり「親分、乾分組織と労務報国会」である。乾分とは子分のことであり、同書は暴力団のことを「親分乾分組織」と呼び、清水次郎長などの「侠客系統」や、幡隋院長兵衛の如き「人入(ひといれ)稼業系統」などがあり、子分を含めると当時、数百万人に達していたという。


㉞暴力団でもあった労務供給業者らを政府が規制するようになったのが、1938年6月29日に発出された厚生省令「労務供給事業規則」である。その改定が1940年11月15日にされ、内地の県知事の指示で労務供給業者が女衒を「兼業」できるようにした。(前出の『日本労務組織の展開』P136)


㉟労務供給業者の団体は1941年12月29日付の労務供給事業規則関連の通牒で結成促進が指示され、「労務供給事業連合会」あるいは「労務報国会」の名前ですでに結成されていた(前出著P171)。1942年9月30日、それらの組織を「発展解消」して作られたのが、その後の労務報国会である。


㊱労務供給業者の団体であった「全日本労務供給事業組合連合会(全連)」の幹部(親分衆)の会合で、これから新しく作る労務報国会の役割について、陸軍少将・松室孝良氏が1941年11月30日に行った「講演」の口述要旨の冊子を入手。松室氏は中国戦線で軍特務機関長を歴任した人物である。


㊲松室氏は講演で、朝鮮や中国で新しい労務報国会を使った「人狩り」の将来構想を語る。「大東亜共栄圏を建設するために…(労務報国会が)政府と協力して、半島の労務者を持つて来る。それでも足らぬから、支那の苦力を持つて来る。…だから国家のために急いで労務報国会を組織しなければならぬ」。


㊳松室氏は中国戦線で複数の特務機関長を歴任。特務機関は、1938年1月19日の群馬県知事「上海派遣軍内陸軍慰安所ニ於ケル酌婦募集ニ関スル件」(政府公表資料)で「陸軍慰安所に於て酌婦稼業(醜業)を為す酌婦3千人」の募集を業者に依頼するような、特殊軍事組織だ。
【松室孝良―Wikipedia】
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%AE%A4%E5%AD%9D%E8%89%AF


㊴ネットで、中谷孝さん(元日本軍特務機関員)の手記を見つけた。「政府・軍の要請無しに朝鮮総督府が人集めをする筈は無く、総督府の許可無く若い女性達が多数外地、それも戦地に向かうことは有り得ない。強制或いは欺瞞があったことは疑う余地が無い」。
http://nikkanberita.com/read.cgi?id=200706281015204


㊵いずれにしても、陸軍少将・松室孝良氏の肝煎りで、新しい労務報国会が1942年9月30日の政府の通牒によって、全国各地につくられた。松室氏は当時、「労務報国会生みの親」といわれた(関門日報1943年6月17日付)。関門日報は、吉田清治氏が属した労務報国会があった下関の新聞である。


㊶松室氏は講演の中で「半島の労務者だけでは足らない時、支那の苦力を持って来なければならぬ。…これはあなた方(労務供給業者)がどんなに頑張っても個人では出来ない。一つの大きな団体にして、そしてそれに対して政府から便宜を与へて頂く様にしなければ不可(でき)ぬ」と労報の役割を強調する。


㊷松室氏が強調した「支那の苦力の移入」は、1942年10月6日の企画院第3部の「華人労務者内地移入ニ関スル件」と題する方針で始まった。国民動員計画では1944年度に初めて「華人労務者の内地移入」が入り、3万人が計上された。再編された労務報国会はその強制連行も担ったと考えられる。


㊸労務報国会下関支部の支部長は、特高警察歴が長く、そのため、戦後に公職追放処分を受けた下関警察署長の山本操氏が兼任した。彼の自伝『風雪五十年』(1972年、防長新聞社)がその辺の事情を他人事のような筆致だが、詳しく書いている。その一部を紹介する。
http://masato555.justhpbs.jp/newpage169.html


㊹以下、山本操氏の自伝から。「《大陸からの労務者 監視と世話は警察》(戦争中には)炭鉱労働者の不足は極度に達し、国内における動員は不可能になり、統治下にあった朝鮮に動員をかけ、さらに新しく勢力範囲内に入った、支那大陸にも動員募集の手をのばすことになった。」


㊺「(承前)朝鮮関係については総督府がその事務に当り、労務者は関釜連絡船を利用して統制輸送されていたが、支那大陸からの労務者は、政府の認可した募集機関が現地に行って募集し船便で下関に上陸させて、下関駅から目的地に輸送したのである。」


㊻「(承前)支那大陸での募集は、主として天津、太沽等の都市とその周辺で希望者を集めていたようだ。下関に上陸していた労務者は1回に100名乃至150名であって、市内観音崎の岸壁に上げ、竹崎町の駅前にあった仏教会館(現在の福岡相互銀行の所にあった)に一応収容し、列車ダイヤを編成して」


㊼「(承前)目的地に輸送していたのである。当然のことながら、この上陸した労務者(いわゆるクリー)の監視と世話は警察が当らなければならなかった。これらの労務者は、入国手続きも杜撰(ずさん)極まるもので、頭をそろえるだけのものだった。」


㊽「(承前)したがって喜んで募集に応じてくる者は少なく、強制的に連行された者がその大部分で、中には道路を通行していた者をそのまま船に押し込んだと思われるものもいた。これを裏書きするものに、『自分は、船を見にこいと友達が言うのでそのまま船に乗った』」


㊾「(承前)また盲目の老人は、『道路を歩いていたら連れ込まれた』などと訴えていたのをみると、募集の責任者はとにかく〝頭数だけをそろえる″のが目的であって、労働ができるできないは問題にしていなかったように思われていた。」


㊿「(承前)上陸してきた労働者の中には、栄養失調でまったく労働できぬ者、盲目、歩行困難な者、病人で動けぬ者など、それこそ、明日からの労働には縁が遠い者が相当いたのには驚きで、失望せざるをえなかった。(以下略)」


(51)「支那大陸からの労務者は、政府の認可した募集機関が現地に行って募集」と山本操氏はいう。「当時は戦時体制であり、戦力の増強のためには相当無理を強行した」ともいい、その暴力的な強制連行を認めている。しかし、自らが「政府の認可した募集機関」の支部組織の長であった反省は皆無である。


(52)山本操氏の自伝は戦後、山口県警本部の機関誌『防長警友』の1968年3月号から72年3月号まで、48回連載されたものを1冊の本にしたものである。しかし、山本氏が労務報国会下関支部長を兼務した事実や、その労報が「朝鮮の労務者の移入斡旋」を担当した肝心の事実が触れられていない。


(53)山本操氏は1989年8月12日に89歳で亡くなるまで、山口県警の機関誌に度々登場した。労務報国会が朝鮮人の「内地移入」や「慰安婦」強制連行を担ったことはいまや明らかだが、山本氏は最後まで、それをひた隠しにした。そこに吉田清治氏が仲間を明らかにできなかった理由の一つがあろう。


皮肉にも関門日報1945年1月11日付は「労報支部長に山本署長就任」の見出しで「労報下関支部長足立寛氏にかわつて山本下関署長が去る1日付をもつて就任。…敏腕山本署長の支部長就任により今後港都の労務態勢は更に飛躍するものとして各方面から多くの期待がかけられてゐる」と伝えた。


(54)現役の警察署長が「外地労務者の移入斡旋」をする動員組織の長だったということは、「移入斡旋」がもはや「業者」による「人買い」ですらない証拠である。警察組織は「移入」する朝鮮人家族に高額の代金は払わない。本質は拉致であり、誘拐である。この強制連行は人身売買ではなくなっている。


(55)「外地労務者の移入斡旋」を労務報国会に「一元化」したという意味は、朝鮮からの内地への強制連行がこの時点からすべて、お金による人身売買などではなく、権力による強制になったということである。「警察の外郭団体」(吉田証言、拙著『吉田証言は生きている』P45)の隠された役割である。


(56)このことは、労務報国会が「労務供給業者」という「民間業者」を偽装しながら、本質的には警察権力と一体になっていたことを示す。朝鮮人女性の誘拐・拉致は売り先がなければお金にはならない。権力からの給与や報酬が彼らの収入である。「半官半民」(永井和氏)という規定は間違いである。


(57)では、労務報国会は朝鮮で女性をどのように集めたか。労務報国会の主な構成員が暴力団であったことからすれば、拉致・誘拐などの暴力的手法は当然だが、もう一つ忘れてはならないのが、天皇制イデオロギーの押し付けである。すべてはその名前のとおり、「天皇の国家」に報いる強制連行であった。


(58)天皇制イデオロギーは、明治以来の国家による徹底した教育を受けた日本国民には、治安維持法など抵抗勢力の弾圧もあって、洗脳的作用が働いた。しかし、言葉も通じない他民族の朝鮮の人々にはあまり浸透しなかっただろう。だからこそ、イデオロギーも押し付けとなり暴力的連行になったのである。


(59)ところで、朝鮮人「慰安婦」の動員を命じた陸軍省の極秘通牒には「聖戦の為、大義親を滅する施策なり」と付記されていたという(吉田清治著『私の戦争犯罪』P102)。「慰安婦」動員が、天皇のために家族まで犠牲にするような非人間的な政策だったことを示している。
【goo辞書】
大義(たいぎ)親(しん)を滅(めっ)す の解説
~《「春秋左伝」隠公四年から》君主や国家の大事のためには、肉親の情をも顧みない。大義のためには親兄弟をも犠牲にする。


(60)「聖戦の為」、朝鮮人女性を「慰安婦」として日本軍に差し出すという発想は、陸軍省副官が1939年5月16日付で各師団幹部に送った極秘資料「支那事変の真意義」に萌芽がある。その「支那事変の銃後」と題した付録には「朝鮮及び台湾の同胞の赤誠」として、次のようなおぞましい記述がある。


(61)いわく、「事変発生以来半島人の赤誠は国防献金に、通過軍隊の歓待に、兵役志願に其の他凡(あら)ゆる方面に現れて居る。或る出征将軍の話によれば『出動の途中運行の都合で汽車が数日朝鮮に停止して居た際などは、半島人の婦女子が汽車の中まで訪れて来て種々と慰問してくれ、(つづく)」


(62)「(承前)仕事を手伝つてくれ、特に洗濯などは悉(ことごとく)皆やつてくれた。汽車中の将兵は半島人同胞までが此れ程の赤誠を示してくれるのに吾等(われら)は何(どう)して生きて還(かえ)れようかと一死報国の決意を一層堅(かた)めた』といふことである」。意味は明らかである。


(63)これは日本陸軍省の「教育指導用参考資料」である。植民地にした他民族の「婦女子」について、「種々と慰問してくれ」るので、日本軍兵士が「一死報国の決意」を固めたという。言葉の通じない朝鮮人「婦女子」の「慰問」とは何か。これが日本軍幹部の朝鮮人女性に対する一般的な見方だった。


(64)殺気だった宗主国の出征兵士が乗る汽車に、植民地にされた朝鮮の婦女子が自発的に「慰問」に行くはずはない。そこには天皇制イデオロギーを含め、あらゆる強制があったことは自明である。それにまったく触れない、おめでたい文章に、「慰安婦」制度を生んだ日本陸軍の退廃精神を見ざるを得ない。


(65)例えば、この朝鮮の婦女子は、厳格な軍事機密の中で運行されていた兵士を載せた汽車の停止日時をなぜ事前に知ることができたのか。数千人であろう兵士の「歓待」に何人の婦女子が必要であったか。その「歓待」の費用はどうしたのか。権力の強制と組織性なくしては実現できない「歓待」であった。


(66)しかも「歓待」を受けた将兵が「一死報国の決意を一層堅(かた)めた」というような「歓待」の中に、性的なものが含まれていないわけがない。まさか「洗濯」をしてくれたから、戦争で死んでもいいと思う兵士はいまい。「性的歓待」を隠そうとして隠しきれなかったお粗末な陸軍の公文書である。


(67)この日本陸軍の「教育指導用参考資料」の発想が戦地に適用されたのが、日本軍「慰安婦」であった。戦地に兵士を「歓待」する朝鮮人「慰安婦」がなぜ大量にいたのか、それを朝鮮人「民間業者」が主犯としてやるのは可能か。戦中の帝国日本の発想を引き継ぐ歴史修正主義者の誤りは明白である。


(68)「一死報国」とは、死ぬことで国に報いるということ。朝鮮人婦女子の「歓待」は、国家が施してくれた「恩」という思考である。これは、朝鮮人「慰安婦」は、「皇軍将兵への贈り物」(麻生軍医の意見書、千田夏光『従軍慰安婦』から)と通底する。朝鮮人「慰安婦」は「天皇からの贈り物」だった。


(69)実は、先に紹介した陸軍省副官の各師団幹部用の極秘文書「朝鮮及び台湾の同胞の赤誠」にある「通過軍隊の歓待」が、実際には何を示していたのかを明らかにする著作がある。宮田節子著『朝鮮民衆と「皇民化」政策』(1985年、未来社)のP24~の記述である。以下、引用する。


(70)「(1937年の支那事変当時)朝鮮を通って中国の戦場に送られて行く殺気だった日本人兵士の実態も、多くの朝鮮人は自分の目で見ている。『内地より北支方面へ幾十万の兵隊を輸送する時、一時釜山に上陸した為、当時釜山府内には、娼妓、妓生が大不足を来し、同府内某鮮人妓生は」


(71)「(承前)一夜に兵隊30名以上に売淫したる為、其の妓生は即死した』(慶北、39.3.23、勾留7日)」。この朝鮮民衆の口コミは、当時の植民地当局の「流言」取り締まりで弾圧の対象になり、その刑罰が括弧内の「勾留7日」という意味であろう。宮田節子氏は続ける。


(72)「『忠勇無双』に仕立てあげられた日本人兵士の素顔を見た朝鮮人の『流言』は、それが事実であっただけに、当局は厳罰をもって、臨まざるを得なかったのだろう」。当時、朝鮮の新聞のほとんどが、皮肉にも朝鮮の民衆には理解できない日本語のものであった。事実は「流言」の中にこそあった。


(73)この「流言」の中に「一夜に兵隊30名以上に売淫したる為、其の妓生は即死した」というくだりがある。これは、先の陸軍省副官の文書で「朝鮮同胞の赤誠」として例示された朝鮮婦女子の「歓待」が実は、朝鮮の遊郭の女性を日本軍兵士が「慰安婦」のようにレイプした事実だったことを示している。


(74)宮田節子氏のこの著作には、支那事変後の朝鮮での官憲による「慰安婦」狩りを、当時の朝鮮の民衆がどんなに恐れていたかを示す「流言」も紹介している。「(19)38年9月17日の夕刻、江原道三陟郡所達面田頭里の農家李盂大方において、ある農民が『最近官庁で未婚の娘を探し(つづく)」


(75)「(承前)其の体より油を搾り飛行機の油に使用するさうであるが、娘の徴集を免るる為各地で結婚式を挙げるものありとの話を聞いたが、自分も斯様(かよう)な結婚式に参加し、酒食の饗応を受けたり」(39.1.13、禁固4カ月「即日服罪す」江原、三陟)


(76)「結婚前の娘を満州に送り、採血搾油する為官庁に於ては各地に亘り娘の調査を実施中なるが、既に忠北丹陽郡永春に於ては娘1人に付70円を支払ひ『トラック』に積み満州に送り出した」(39.2.15、京畿、堤川、金順徳(女)当60年、警察犯処罰規則違反拘留7日)。=同著P25・26=


(77)「未婚の娘の体より油を搾る」「結婚前の娘から採血搾油する」など、一見、荒唐無稽に見えるが、実は未経験の少女に「慰安婦」の恐ろしさを伝えようと懸命な年長者の知恵が読み取れる。その回避手段が「結婚式」であったことでも、それはわかる。「慰安婦」狩りは、それほどの恐怖だった。


(78)宮田節子氏は近代朝鮮史研究家であるが、2014年8月5日付の「慰安婦」問題の検証記事で、吉田証言と一緒に乱暴な議論で否定された歴史学者である。「『挺身隊』との混同」との見出しがつけられた記事には、朝日新聞が「慰安婦」と「挺身隊」を混同したのは宮田氏のせいだと書かれている。


(79)朝日が参考にした「朝鮮を知る事典」(平凡社、86年初版)には「従軍慰安婦」の説明で「43年からは〈女子挺身隊〉の名の下に、約20万の朝鮮人女性が労務動員され、そのうち若くて未婚の5万~7万人が慰安婦にされた」と宮田氏が書いている。それを朝日は間違いだと決めつけている。


(80)宮田氏は検証記事で「慰安婦の研究者は見あたらず、既刊の文献を引用するほかはなかった」とのべ、その文献に千田夏光著『従軍慰安婦』をあげたようだ。しかし、朝日はその記述まで誤りだと断定してしまう。当時の朝日が、安倍晋三政権に屈服し、多くの先駆的な研究者の業績まで葬ったのである。


(81)「挺身隊と慰安婦の混同」というが、これは誤りではない。当時、朝鮮での女性の連行は法形式上、「官斡旋」方式で行われていた(拙著『極秘公文書と慰安婦強制連行』P121)。それを当時、「女子挺身隊」と呼んでいた。そのうち多くを「慰安婦」にしたのが、いまでは明らかになっている。


(82)朝日の検証記事は、宮田節子氏や千田夏光氏をなで斬りにした後、戦中の公文書に「未婚の女性が徴用で慰安婦にされるという『荒唐無稽なる流言』が拡散しているとの記述がある」ことも紹介。私の連ツイ㉓で紹介したものだが、朝日には弾圧者の言葉が真実に見えるらしい。


【㉓の再掲載】
「(承前)未婚女子の徴用は必至にして中には此等を慰安婦となすがごとき荒唐無稽なる流言巷間に伝はり此等悪質なる流言と相俟つて労務事情は今後益々困難に赴くものと予想せらる」。この公文書は、労務動員で「慰安婦」にされるという、当時の朝鮮人女性の悲鳴が記録された貴重な公文書である。


(83)朝日の最大の誤りは「女子挺身隊は、戦時下で女性を軍需工場などに動員した『女子勤労挺身隊』を指し、慰安婦とはまったく別です」(検証記事)と根拠なく独断したことである。しかし、女子挺身隊の動員先には「日本軍慰安所の酌婦・女給」もあった(共著『「慰安婦」問題の現在』P159)。


(84)「慰安婦」ではなく「女子挺身隊」の名で動員したからこそ、強制連行は「効果」を発揮したという側面を直視すべきだ。未成年の彼女たちは、日本内地の軍需工場に行くものだと信じ込まされ、強制連行に命がけで抵抗しない者もいただろう。誘拐・拉致の犯人は、どこでも甘言を使うのである。


(85)「挺身隊」問題での歴史修正主義者からの攻撃は古い。秦郁彦著『慰安婦と戦場の性』(1999年、新潮社)の中には「女子挺身隊と慰安婦の混同」という項がある。「両者はまったく別ものであるにもかかわらず、久しく混同する風潮がつづいた」。朝日の歴史修正主義への屈服は明らかである。


(86)秦郁彦著『慰安婦と戦場の性』の「挺身隊」問題での論述の中には「女子挺身隊と慰安婦の混同例」と題した一覧表があり、平凡社の『朝鮮を知る事典』の記述や千田夏光氏の著作などが列挙されている。平凡社はその攻撃に屈したのか、2014年5月に新版を発行し、宮田節子氏の解説は消滅した。


(87)「挺身隊と慰安婦とはまったく別だ」論でよく持ち出される根拠に〝挺身隊として工場に動員された少女が「慰安婦」にされたと誤解される″というのがある。誤解を解くには、挺身隊は「慰安婦」だけでなく工場労働者にもされた制度だと事実解明するだけでいい。まったく別という根拠にはならない。


(88)朝鮮総督が「未婚女子の徴用は必至にして中には此等を慰安婦となすがごとき荒唐無稽なる流言巷間に伝はり」と報告したのが1944年5月。「流言」をデマとして打ち消すには、「流言」取り締まりだけではなく、挺身隊の一部を内地工場に回すことを考えたのだろう。


【㉓の再々掲載】
「(承前)未婚女子の徴用は必至にして中には此等を慰安婦となすがごとき荒唐無稽なる流言巷間に伝はり此等悪質なる流言と相俟つて労務事情は今後益々困難に赴くものと予想せらる」。この公文書は、労務動員で「慰安婦」にされるという、当時の朝鮮人女性の悲鳴が記録された貴重な公文書である。


(89)徴兵などで重労働に従事する男子労働力が極端に不足していた戦中の日本内地の炭鉱や土木部門ならまだしも、日本人女性が十分に存在していた内地に、なぜ、若い朝鮮人女性を「移入」する必要があったのか。挺身隊の目的を客観的に考えれば、工場労働力が主な目的ではなかったことは自明である。


(90)「慰安婦」にする対象を、朝鮮や台湾などの植民地の女性に特化していくのは、1940年初あたりからのことである。それを示す公文書の一つが、同年6月1日付の内務省警保局長の文書「渡支邦人暫定処理ニ関スル件」である。そこには原資料にえんぴつで次のような書き込みがある。


(91)「(承前)周旋業者の内地に於ける周旋は認めざるに付き…」云々。つまり、植民地を含む日本帝国内で「慰安婦」を雇い入れる業者の入国を認めるものの、その活動範囲は植民地だけであり、内地は認めないという通知であった(詳しくは拙著『極秘公文書と慰安婦強制連行』P113~参照)。


(92)しかし、女性を連れた業者の出国検査をする場合、なにを判断基準に内地人か朝鮮人かを区別するのか。それは1923年9月1日の関東大震災での朝鮮人大虐殺でも横行した言葉による差別である。日本語が話せるかどうか、とりわけ「がぎぐげご」など、語頭の濁音が話せるかどうかであった。


(93)それを体系化したものが1941年12月8日の「労務調整令」だ。その第7条は年齢14歳から25歳未満の女子で、「国民学校」を卒業していない者は、官憲(国民職業指導所長)が認可した職場でしか働けない、とある。当時の朝鮮の「国民学校」は義務教育ではなく、日本語教育が主であった。


(94)そして、官憲が認可すべき職場に厚生省の極秘通牒で、「軍慰安所の酌婦・女給」が指定されたのである(拙著『極秘公文書と慰安婦強制連行』P62~)。問題は当時、朝鮮に、国民学校を卒業した女子がどのくらいいたかである。日本内地は義務教育であり、ほぼ100%の女子がそれを卒業できた。


(95)それを示すのが、1944年7月31日付の内務省嘱託・小暮泰用氏の「復命書」である。いわく「(朝鮮の)農村の婦女子は其の9割以上が殆んど無教育であり…」(拙著『極秘公文書と慰安婦強制連行』P75、222)。要するに、日本語が話せない朝鮮人女性を「慰安婦」にしたのである。


(96)日本語ができなければ、宗主国の軍隊「慰安婦」にされる。これほどの民族差別をしたのが、日本軍「慰安婦」制度であった。これは露骨な民族抹殺政策である。それを示す極秘文書もある。題して「朝鮮統治施策企画上の問題案」。外務省外交史料館所蔵の1944年当時の内務省資料ファイルにある。


(97)いわく「地理的、文化的、血族的環境より生成せる民族感情を大和民族化するが為には数的及び文化的優位を要請せらるるを以て朝鮮民族の数は可及的少数なるを適当とする」。詳しくは拙著『極秘公文書と慰安婦強制連行』P123~。その手段として暗に「慰安婦」にすることなどが書かれている。


(98)朝鮮民族の人口を減らす方策が「早婚の弊風」打破。女子の婚礼年齢を2年遅らせ20歳以上にするなど。このために「女子の勤労を奨励し女子を内房より社会に解放」し「男子の単身出稼ぎを奨励」。若い男女を引き離し、戦地の「慰安婦」や内地の炭鉱へ強制連行することを言い換えたにすぎない。


(99)この内務省の極秘文書で、人権侵害の最たるものが「抑制方策に即応する優生法を施行す」という項目。「優生法」で想定された内容は明らかでないが、1940年にナチスドイツの断種法をならって制定された日本の「国民優生法」には、朝鮮民族を対象としたものはない。
【国立国会図書館デジタルコレクション】
土井十二著『国民優生法』(1941年、教育図書)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1064561



(100)朝鮮民族の人口抑制策と並んで、内務省の文書で示されているのが「同化政策」。「朝鮮人の民族感情は其の言語、風習、歴史、宗教等を礎地とする血縁共同の意識乃至矜持なるを以て之を打破し」云々である。これはずばり、朝鮮の民族性の抹殺政策である。


(101)その方策の第1が「精神訓練」。「神社崇敬」は有名だが、その次の文章、「日本歴史中に於ける内鮮間の史実の取扱に於て極力同化を促進するが如く歴史の編纂を為す」がおぞましい。別にさらに詳しい文書「朝鮮統治上ヨリ観タル国史の問題案」まで作成されている。現在の歴史修正主義の原型だ。


(102)その史実の改ざんの対象は、秀吉の朝鮮侵略(文禄慶長の役)から、「韓国併合」にまでに及んでいる。例えば、後者について「併合に依り其の(朝鮮の)貧弱なる境地より脱し皇国の世界史的大道を闊歩する幸福なる境遇に救われたるを理解せしむる如く留意する」と書いている。デタラメである。


(103)「同化政策」の第2が「言語対策」。「国語(日本語)を徹底的に普及し概ね20年間に其の用語を国語に統一すること之が為(イ)諺文(ハングル)出版物特に新聞を能ふ限り速(すみやか)に廃止す(ロ)公私生活に於ける用語の国語への転換を徹底的に促進す」。いわば朝鮮語の撲滅運動である。


(104)「同化政策」の第3が「風習改善」。朝鮮服の禁止や日本食の強制。その結果か「白衣を和服か洋服に、半島人の内地化運動」と題する記事が、福岡日日新聞1938年12月8日付に載った。中身は、福岡県特高課が主導する、在日朝鮮人に和服を着せ常食のニンニクを禁じる「運動」の紹介である。


(105)「同化政策」は、「朝鮮人皇民化政策」とも呼ばれた。「皇民」とは、天皇の統治する国の民。すべての苦役や犠牲は、天皇のためということで合理化された。この政策は、植民地の庶民には強制以外のものではなかった。しかし、当時のマスコミは、これを朝鮮人の自主的運動として描いたのである。


(106)以降のツイートは、以下のページにまとめました。
☆「慰安婦」への志願の真相(2021年6月26日~)


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