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(2025年10月25日からの閲覧回数)


☆キボタネ韓国ツアーの報告(10)
(2025年9月6日~のツイート再録)
          フリージャーナリスト・今田真人



「戦争と女性の人権博物館」の見学の続き~
オーディオガイドは続ける。「次に戦後、戦場に捨てられ、解放後にも被害事実を隠し、後遺症とたたかわなければならなかった被害者の状況を、写真とともに見て行きましょう」。(続く)


(承前)展示されたパネル「終戦時の状況」はこう説明している。「1945年、アメリカによる原爆投下とソ連の参戦で急激に戦況が不利になった日本は結局、ポツダム宣言を受け入れて降伏し、長きにわたる日本の侵略戦争に終止符が打たれた。慰安所にいた女性たちは日本の敗戦と同時に、(続く)




(承前)再び、過酷な運命に見舞われることになる。被害者たちの証言によると、自殺を強要されたり、集団的に殺害されたり、慰安所に放置された。突然、軍人の姿が見えなくなってから終戦の事実を知り、遠い異国から故国に生還するためあらゆる苦難を経ることになった。(続く)


(承前)米軍捕虜収容所に収容された後に帰還した例もあるが、帰還をあきらめるケースも数多くあった。こうして行方知れずとなった女性たちが、歴史の中に埋もれている」。写真左は、北の被害者、朴永心(パク・ヨンシム)さんが敗戦直後に妊娠した身で捨てられた当時の自身の写真を持つ姿。(続く)




(承前)パク・ヨンシムさんの証言は『証言 未来への記憶 アジア「慰安婦」証言集Ⅰ』(2006年、明石書店)の冒頭に出て来る。22頁に及ぶ証言は、読む者を圧倒させる。幼い時に母を亡くし、再婚した父と義母に育てられた。父は日本人地主の下での小作人。貧しさのために(続く)







(承前)学校にも行けず、14歳で家計を助けるために洋品店に奉公に出される。17歳のときに日本人巡査がやってきて「お金が稼げるいい仕事があるから」と誘われる。ついていったら、平壌駅で十数人の娘たちとともに憲兵に引き渡さる。窓のない貨車で中国・南京の「慰安所」に連行された。(続く)


(承前)慰安所での生活は「檻に入れられた動物」だったとパク・ヨンシムさんは表現する。日本兵の暴力に抵抗して軍刀で脅され、それが首をかすり、血が噴き出す経験もした。その刀傷は戦後も彼女の首に残った。東南アジア各地の慰安所を連れ回され、最後はビルマの日本軍陣地に。(続く)


(承前)戦闘で日本軍が負け、集団自決に巻き込まれる一歩手前で抜け出し、中国兵に救われる。その後、米軍捕虜収容所に連れて行かれ、尋問を受けた時の写真が、展示されたお腹の大きい妊婦の姿である。パク・ヨンシムさんの例も、故郷から連行される時から、日本人巡査が関わっている。(続く)


(承前)日本の官憲が「慰安婦」の連行に直接かかわった事例である。「業者」がここでもまったく出てこない。日本の権力犯罪そのものである。こうした証言がいくつもある。なのに、裏づける公文書がないからと、朝鮮での官憲の強制連行には証拠がないという学者がいまだに日本にいる。残念である。


【終戦後の暮らし】
次に「終戦後の暮らし」というパネル展示もある。説明文はいう。「故国に戻った『慰安婦』女性たちは、慰安所体験の後遺症に悩まされ続けた。大多数から性病、子宮異常、不妊、虐待による外傷などが確認されたほか、対人恐怖症、不安、羞恥心、自己卑下などの(続く)




(承前)心理的な後遺症も深刻だった。被害女性たちは『純潔』を重んじる韓国社会の家父長的な雰囲気の中で、自らを罪人のように考えて息を殺して暮らした。結婚や出産ができなかったケース、『慰安婦』経験の発覚により結婚が破たんしたケースもあった。対人関係からもたらされる混乱は、(続く)


(承前)社会生活にも影響を及ぼし、生計の維持をも困難にし、再び彼女たちを貧困へと追いやった」。添付写真は、「慰安婦」被害者の身体に残る傷。左下の写真は、慰安所で受けた暴行により、肩が脱臼して難聴になったキム・ウンネ(金殷禮)さん。その右に、その被害を確認する医療診断書。(続く)




(承前)キム・ウンネさんの証言は、日本語文献では見つからなかったが、おそらく韓国語版の証言集にはあるようだ。なぜなら、彼女は2000年に東京で開催された「日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷」に被害者の一人として参加している。その記録集『女性国際戦犯法廷の全記録Ⅰ』(続く)




(承前)(2002年、緑風出版)のP17には、キム・ウンネさんの略歴として、次の記述がある。「金殷禮…韓国ソウル在住——1926年平壌生まれ。1942年5月、16歳のとき、民家がなく部隊だけがある中国の慰安所に連行。6カ月近くいたが、部隊の移動にしたがって連れて行かれた」。(続く)




(承前)また、このパネルの説明文には「『慰安婦』は日本軍だけにあったのか」というタイトルの文章がある。ネトウヨがよく口にする「日本だけじゃない」という居直りに答えたものだろう。参考に、これも引用する。「他の国にも軍隊『慰安婦』に類似の事例を見ることができる。…但し、(続く)




(承前)日本軍『慰安婦』のように、政府と軍当局が主導して未成年を含む女性たちを集団的に動員し、組織化された制度として長期間にわたって強姦を行った事例は、現在までに明らかになったところでは他に類を見ない」。付け加えるなら、日本の植民地・朝鮮の女性をとくに対象にした点も特異である。


この韓国ツアーの報告で以前、「金順徳さんの証言は探したが、みつからなかった」と書いたが【注】、私の蔵書やネットで探していて、やっと見つけることができた。『証言――強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』(1993年、明石書店)に、金徳鎭の仮名で収録されている。(続く)






【注』「しかし、金順徳さんの証言は探したが、みつからなかった。…」云々のツイートは、「☆キボタネ韓国ツアーの報告(3)」の上から8つ目のツイート。


(承前)ネットの検索で金順徳と打ち込むと、次のようなサイトが見つかる。題名は「慰安婦 金順徳(キム・スンドク)の仮名、金德鎭(キム・ドクチン)での証言」。金徳鎭(仮名)さんの証言は、先の日本語版の証言集(明石書店)では、金学順さんの次に紹介されている。(続く)



(写真は、水曜デモで金順徳さんの絵と証言を紹介する女性)
【サイトはここから】


(承前)金順徳さんの日本語版(明石書店)の証言の題名は「韓国政府にも訴えたい」。金順徳さんは1937年、17歳になった年、日本の工場で働く女工を募集しているという、朝鮮人の男性の誘いにだまされ、日本の長崎に連れて行かれた。その時から日本軍の監視下に置かれ、軍人に強姦され、(続き)


(承前)その後、「大きな船」で中国の上海の「町外れ」と思われる慰安所に連行された。その後、3年間、「一日平均30人~40人」の日本軍人に強姦される毎日が続いた。運よく幹部軍人に目をかけられ、故郷に帰ることができたが、「慰安婦生活のせいで、膀胱炎、子宮病、精神不安」などの(続く)


(承前)後遺症に悩まされる。「テレビで金学順さんの証言と、挺身隊に関する様々な番組を見ました。これまで、悔しくも恨めしかったことを自分ひとりの胸に隠しておきましたが、それを見てからは夜も眠れないようになりました」。さんざん迷ったあげく挺対協に申告、被害者として名乗り出た。(続く)


(承前)金徳順さんは証言の最後に言う。「日本も悪いけれど、その手先をした朝鮮人はもっと憎い。…韓国政府も私たちに補償してくれなければなりません」。金徳順さんを「女工の募集」だとだまして長崎に連れて行った男性が朝鮮人であったことが、この証言の題名の由来であろう。しかし、(続く)


(承前)当時の朝鮮人女性を「慰安婦」として強制連行する場合、朝鮮人男性を「業者」のように装わせ、日本政府の手先として使うのは、日本官憲の常套手段であった。日本政府の秘密公文書(1938年11月)には「(慰安婦女性の)募集は営業許可を受けたる周旋人をして陰に之を為さしめ」、(続く)


(承前)その連行目的は説明せず「(慰安所のある)現地に於いては醜業(慰安婦になること)に従事するものなること」とされた(拙著『極秘公文書と慰安婦強制連行』P58)。「陰(いん)に之を為さしめ」とは「人に気づかれないようにさせる」こと。主語は朝鮮人ではなく日本政府である。(続く)


(承前)「戦争と女性の人権博物館」の地下室への階段横に展示された金順徳さんの絵「連行」は、手を引っ張られるチマチョゴリの少女を描くが、誰が手を引いているのかは描かれていない。朝鮮人男性にだまされた被害者としては、得体の知れないものに手を引っ張られた気持ちだったのだろう。(続く)




(承前)金順徳さんが「慰安婦」にされたのは1937年初頭。同年7月7日に日中戦争(支那事変)が起こされ、1938年4月1日、国家総動員法が公布。朝鮮人男性の強制連行とともに、朝鮮人女性の強制連行も大規模な形で本格化していく。初めは、職業詐欺のような女工募集(挺身隊募集)だ(続く)


(承前)ったものが、しだいに「官斡旋」(これも挺身隊といわれた)という事実上の日本政府の植民地支配機構あげての強制連行になっていく。挺身隊として日本内地に一旦、強制連行された少女たちの大部分が、中国など戦地の慰安所に送られることが、ウワサなどで朝鮮人に知られるようになり、(続く)


(承前)いままでの女工募集という物語のメッキがはがれると、暴力的な強制連行が始まった。それを実行したのが1942年9月に日本の厚生省が日本内地の各道府県に組織するよう通知した労務報国会である。その構成員は日本のヤクザ・暴力団であり、各県支部のトップが警察官であった。(続く)


(承前)日本の官憲が指揮し、日本の税金で雇われたヤクザ・暴力団が朝鮮半島に出かけ、そこで朝鮮人少女を暴力的に連行する。その法的枠組みが、国家総動員法や労務調整令であった。詳しくは拙著『極秘公文書と慰安婦強制連行』(2018年、三一書房)を参照してほしい。



【アマゾンでの紹介とレビューなど】


(承前)補足すると、山口県労務報国会の幹部名簿には「金海」など、創氏改名後の朝鮮人とみられる名前も載っている。写真は、山口県文書館所蔵「永久保存・戦時愛国的労働団体役職員の就職禁止該当者名簿(山口県労働部)」。同会下関支部の主事には吉田某の名も。吉田清治氏と思われる。(続く)






(承前)山口県労務報国会の幹部名簿は戦後直後、米占領軍の民主化措置の一環として、労務報国会の幹部が「労働団体」の要職から追放されたことを受けて、当時の山口県労働部が作成。その資料が山口県文書館に保存されている。詳しくは先に紹介した拙著P31~38を参照してほしい。(続く)


(承前)同名簿には、山口県を代表する当時の暴力団の組長の名前も登場している。少し紹介すると、山口県労務報国会の理事に「保良寅之助」の名前がある。彼は当時の山口県を拠点とする大暴力団「籠寅組」の親分。その傘下の足立組の親分、足立寛二氏は山口県労務報国会下関支部の支部長。(続く)


(承前)吉田清治氏が済州島で「慰安婦狩り」をした1943年5月当時の山口県労務報国会下関支部の支部長は、同名簿によると足立寛二氏。1945年1月1日からは、特高警察幹部の山本操氏(山口県の下関警察署長を兼任)が務めた。暴力団の親分が公然と公職に就いていた時代であった。(続く)




以下、【報告】(11)に続く。


【各回へのリンク】
☆2025年9月6日~10日、キボタネ韓国ツアーの報告(1)
☆2025年9月6日~10日、キボタネ韓国ツアーの報告(2)
☆2025年9月6日~10日、キボタネ韓国ツアーの報告(3)
☆2025年9月6日~10日、キボタネ韓国ツアーの報告(4)
☆2025年9月6日~10日、キボタネ韓国ツアーの報告(5)
☆2025年9月6日~10日、キボタネ韓国ツアーの報告(6)
☆2025年9月6日~10日、キボタネ韓国ツアーの報告(7)
☆2025年9月6日~10日、キボタネ韓国ツアーの報告(8)
☆2025年9月6日~10日、キボタネ韓国ツアーの報告(9)
☆2025年9月6日~10日、キボタネ韓国ツアーの報告(10)
☆2025年9月6日~10日、キボタネ韓国ツアーの報告(11)


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